マラッカ
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参考:(1)『オランダ東インド会社』永積昭著・講談社学術文庫
(2)『ペルシャ湾』横山三四郎・新潮選書
(3)『高校世界史B』・東京書籍
(4)『ジパングと日本』的場節子著・吉川弘文館p56
スエズ地峡や中近東の陸地を、海上交通のための西の端の障害物にたとえると、東の端の障害物はマライ半島である。(1)
紀元前13世紀頃から紀元前後まで、アラビア商人が香料やスパイスの販売を独占し続けた。(2)
しかしローマ時代の初期には、ローマ人がインド洋のモンスーンの周期性を知った。
伝説上のギリシャ人発見者の名にちなんで、「ヒッパロスの風」とも言われる。
インド洋では、夏には南西風が、冬には北東風が吹く。さらにインド洋の北海域では、夏には時計回り、冬には反時計回りの海流が生まれる。
モンスーンと海流を利用した安全で効率の良い航路は、さらに東進して南シナ海経由で中国にまで延び、
やがて海のシルクロードとして、東西交易の重要ルートとなった。(陸を離れた航海の始まりとして重要)(インターネット含む)
7・8世紀、複数の東南アジア諸国成立によって海上ルートが安定すると、アラビアやイランの商人が交通を活発化させた。(3)
9世紀後半、中国広州にアラビア人・ペルシャ人・ユダヤ人らが多数住んでいた。10世紀、泉州の開港とともに外国商人が通った。(4)
マラッカはマラッカ海峡の中でも最も細い部分にあり、行きかう船を一望のもとにおさめ、
しかもスマトラ東岸諸港のように風波を受けることもなく、港としてすぐれていた。
1400年ごろ、スマトラ島から来た王族が定着して、マラッカ王国が始まった。
このマラッカの繁栄は、もっぱら外国商人たちの手に握られていた。
商人たちの出身地は、放射状にあらゆる方向に及んでいた。
入港の時期も様々だった。
すなわち、3月にはインド方面から船が到着し、5月末に出帆する、ジャワからの船は5月から9月にかけて現われ、1月ごろ帰っていく。
また中国船は年の変わり目ごろに来航し6月末立ち去る、という具合で、1年中船の絶える時がなかった。
(季節風との関係がわからない部分があるが、そのまま)
一番活躍したのは、インド産綿織物を運ぶインド西北岸のグジャラート商人と、香料を運ぶ東方のインドネシア商人だった。
インドは綿の原産地といわれ、綿織物の生産は紀元前2500年ごろから行われていたと伝えられる。
19世紀始めにイギリスの機械織りの綿布が手織りのインド綿を圧倒し去るまで、
インド綿は、アジア各地のみならず、ヨーロッパにも大量に送られていた。
香料は、ヨーロッパでは塩漬け肉や魚の干物の味の単調さを消し、殺菌力を増すために必要なものだった。
また胡椒は、西のアレクサンドリアに運ばれた量の10倍が、中国華南にも運ばれた。
香料諸島は概して食料その他の生活必需品を自給することができず、
例外もあるが、一般に原住民は航海が不得意で、重要物資の輸入に他民族の手を借りた。
島々を巡る商品ルートの可能性は無数にあり、その無数の磁場の中心として、マラッカは存在していた。(以上1)