三好元長
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三好之長、細川澄元らが死去した。
三好之長の長子・長秀もすでに討死していたので、元長が三好氏の家督を継いだ。
○嫡子・三好長慶は、その翌々年の1522年(大永2)に生まれた。
○元長は、細川澄元の子・晴元と、
阿波で病死した足利義稙(よしたね)の養子・義維(よしつな)を奉じた。
細川高国に不満な義稙(よしたね)が京都を出奔して後、
高国は、11歳の足利義晴を将軍に迎えた。 (長江著p36)
1526年(大永六年)、細川高国は、一族・細川尹賢(ただかた)の讒言を信じて、
有力部将・香西元盛を殺害した。
香西元盛の兄弟、波多野稙通・柳本賢治らはこれを恨んで、反旗を翻した。
(長江著p37)
この高国政権の混乱に乗じて、三好一族の三好勝時とその子、
勝長、政長らが堺へ上陸した。
三好勝時は之長の弟である。その子も高国に殺されている。
三好勝長・政長は、勝時の子であるから、兄弟を殺されている。
之長は元長の「祖父」であり、勝長・政長にとっては「伯父」である。
元長と勝長・政長は、従兄弟の関係である。
翌1527年(永正7)2月、勝長、政長らは柳本賢治と連合して、
高国の軍と桂川で戦い大勝をおさめた。
高国は将軍・足利義晴とともに、近江に走った。勝時・賢治らは入京した。
(長江著p40)
戦勝を聞いた三好元長は、3月、足利義澄の子・義維と、細川晴元を奉じて堺に上陸、
足利義維を擁立して、堺公方府(1527〜1532)を設立して、細川高国方と対峙した。
○足利義維(よしつな)は、細川氏に保護されていた、「前々将軍・足利義澄の子」である。
高国が擁した「現将軍・足利義晴とは母の異なる兄弟」である。(共に10何歳か)
阿波に逃れてきた「前将軍・足利義稙(よしたね)の養子」となった。
○近江の足利義晴・細川高国は、これより少し前に、
阿波の海部下野守元親(海部氏)に忠節を要求したり、
豊後の大友氏や土佐の一条氏に、阿波へ侵入せよ、と、命じたりしている。
元長背後の撹乱目的か。
(3月・5月、史料現存。長江著『三好長慶』p45)
○細川晴元は14歳である。三好元長は26歳である。
*年齢や暦の、旧暦か新暦か、満年齢か数え年かは、まだ確認していないので注意)
1528年(享禄元)、三好元長は、戦いをやめようとして和解を図ったが、
兄弟の仇を報じたい柳本賢治や三好政長は、反対だった。
そして、柳本賢治らの讒言によって、かえって晴元との間に溝を作ってしまった。
将軍・管領がいなくなった京都の政治を行うのは、三好元長だった。(長江著p50)
しかし、三好元長と柳元賢治の抗争となり、
晴元の態度にも嫌気がさして、元長は、阿波に帰ってしまった(1529年・享禄2)。
一方、細川高国は、各地を巡って再起を狙い、ついに備前三石城の浦上宗村の支援を得て、
1530年(享禄3)、兵を挙げると、柳本賢治を暗殺させた。
そして次々に晴元方の軍を破った。 (長江著p52・53)
この事態に焦った晴元は、阿波の三好元長の渡海を望み、たびたび催促の使者を送った。
細川高国は祖父・之長を欺いて刑死させた仇敵である。
ついに出陣を決した三好元長は、1531年(享禄四)二月、堺に上陸した。
これに続いて、阿波屋形の細川持隆も、細川晴元を支援するために、堺に到着した。
6月、細川高国方と細川晴元方の決戦が、摂津天王寺で行われた。
三好元長方(細川晴元方)の兵力は1万5千、
その他8千を堺に置いて、義維(よしつな)・晴元を守らせた。
浦上方は2万だった。しかし浦上方に裏切りが出て、戦いは元長が勝利した。
浦上村宗は戦死、その他戦死8千。
敗走した細川高国は、捕えられて尼崎で自害した。
(25年続いた「細川高国」対「細川澄元・晴元」の争い終わる) (長江著p54・55)
ここに細川晴元が細川宗家の家督となり、三好元長の権勢はさらに振るうようになった。
しかし、晴元に重用されて、
畠山義宣(よしのり)とのそれまでの主従関係を切ろうとした木沢長政に、
三好政長の意見で、細川晴元が加勢。
木沢長政の旧主で晴元の姉婿である畠山義宣(よしのり)が、
「元長の一族」の助力を受けて、木沢長政を攻撃、という争いが発生。
(木沢長政・細川晴元・三好政長)対(畠山義宣・三好遠江守) (長江著p56)
また柳本賢治の子の市中乱暴を、三好の一族が討つ、という事件も発生。
1532年(享禄5)、晴元と元長の関係は険悪となる。
窮地に陥った元長は、阿波屋方・細川持隆の取りなしで弁解につとめたが、
晴元はこれを許さなかった。
晴元の姿勢に怒った細川持隆は、阿波に帰国していった。
5月、木沢長政の飯盛城を舞台に、再び戦闘が発生。
長政は三好政長に依頼し、晴元は三好政長を助けた。
しかし、勝てない晴元は、本願寺光教証如(しょうにょ・17歳)に出兵を依頼した。
6月、本願寺光教証如の動員による、本願寺門徒2万の加勢によって、
三好元長の一族遠江守と畠山義宣は敗死。
1532年(享禄5)、元長は、6月19日、11歳の長慶と妻を阿波へ帰した。
翌6月20日、門徒に包囲されて、堺の顕本寺で80余人とともに敗死した。(享年32歳)
(長江著p59)
長江著『三好長慶』p260によると、長慶の兄弟は9人いたことになっている。
男は長慶・義賢・冬康・一存、姉妹が5人である。
32歳で亡くなってこの子供の数というのは、現代ではわからない。
妻妾が何人もいたのだろうか
それとも、養女を仕立てて送り込んだのだろうか。
昔の人の兄弟の多さには、いろいろ仕掛けがあるから、なんとも言えない。
キリスト教圏では、正妻以外の子供は、理屈では「あってはならない」ことになっているので、
正妻以外の子供が正規に認められることは、まあほとんどない。
この日本との違いは、西洋の歴史を見ていると、あれっと思うところだ。