10 マルクス主義の分布状況
                                   目次に戻る
                                      
次に真先に考えたのはマルクスの分布状況だった。
自分がその学説に疑問を感じているのだ。
そしてそれは世界を二分している陣営の一方が採用しているほど大きい。

社会全体の把握、歴史全体の把握をうたってもいて、
日本の学問に与えている影響も大きいことがわかっている。

つまり、どうやらマルクス主義は現代という時代を規定しているものの考え方の枠
の一つだとわかった上に、自分が決定的な部分で引っ掛かっているのだった。

自分がマルクス主義のどこに引っ掛かるか。
何といっても、その物質関係という捉え方の部分の違いが、極めて邪魔でしょうがない。
なぜマルクス主義では、物質関係と言えば経済問題なのか。
 
 また林著『史学概論』に、
マルクスも「歴史は自然の歴史と人間の歴史に分けられる。
人間の歴史に自然の歴史は関係ない」と言っている、
とあったのも非常に引っかかる。

マルクス主義が唯物論だというなら、
私の考え方との違いにおいて、マルクス主義は唯物論じゃない、
というのが 、マルクス主義の間違い指摘の決定打になりそうな気がする。

しかしそういう論理展開には全然なってない。

マルクス主義に異を唱える者は、ブルジョアや修正主義者であって、
すなわち偽善者であり、敵なのだ。

マルクス主義は唯物論ではない、と発言することも、
発言者がブルジョア修正主義の立場であることを証明するだけなのだった。

唯物論はマルクスの経済論のみを言うのであって、自然の歴史には関係ない、
というのが、マルクス主義なのだった。
しかし社会の法則は科学的に貫徹する、というのだ。

こういう論理展開は、私にとっては、
マルクス主義が本来持っていた、社会矛盾に対する憤りに共感すること、以前の問題だった。
自分の世界認識の出発点に対する、妨害のように感じられたのである。

マルクス主義者以外は

マルクス主義は、自分のいる場所によって非常に差のある情報の一つでもあった。

知る人知らない人、賛否、などが、ばかにくっきりしているのだ。
田舎にいれば、マルクス主義に首を突っ込むこともなかっただろう。
言葉以上には知ることのない人達がたくさんいる。
しかし政治世界では、踏み絵のように、左右の分岐点になる言葉であった。
どうやら経済学や歴史学でもそのような構図が見えるのだ。
そして世界はこの思想が分岐点らしい。
なんておかしな状況なんだろう。瞬間的に関心がそこへいってしまう。

四つの項目の中で、マルクスに関する知識はどこにあるか。
それは主として三番目の偏在情報にあるようだった。
義務教育には出てこない。
社会システム上の情報でもない。マスコミが流しつづけるものでもない。
知らない人は全く知らない情報だった。

ではどこで知ることができるのか。
大きな情報源の一つは大学や知識人のようだった。私の経験でもわかる。
大学構内のビラ、大学の先生方の話や講義そのものであったりする。
大学や周辺の本屋さんでも、書籍を通して、知ることができる。

今思えば、私が通った大学は小さいせいなのか、
史学や国文・英文の専攻生までが、経済学を勉強することになっていた
ことも大きかっただろう。
こういう大学の特殊事情がなかったら、全然話が違っただろうと思われる。

大学が形成する文化圏、そこから得た知識によれば、労働者階級の思想として、
政党等政治活動機関が情報源となって、それらにかかわる人々の間にも、
共通の知識として存在するようだった。

そうしたことを知っていて、やっとマスコミ情報の切れ端を読みとくことができる、
私はそういう位置にいた。
マスコミは時事問題の側面を扱うだけで、
認識主体者としての受け皿を作るほどの用意はなさそうだった。

世界情勢にかかわる大きな思想として、
政府関係者には賛否にかかわらず必須の基礎知識だったし、
大学の門をくぐった者にとっても、とりわけ社会科学周辺が専攻なら必須だった。

つまりこれは社会組織上で考えればどういう人々に分布しているのかと考えれば、
賛否並立の状態でどちらかと言えば権力に近いところに多いと、私には思われた。
労働者と言えども、組織化され知識化されている人達は、
力の側にいるような気がしたのである。

以上のことは、私が現代日本社会の情報について、
すくいあげるための網を考えてから、マルクスをひとつの鍵として読み取ったことである。

しかし、認識方法を考えてから読み取ったりする前に、
私は日本社会の意識構造というものにとらわれ、さかんに試行錯誤を重ねていたのだった。

人を動かすものは情報であるということについて、
理論的に(と言うよりはむしろ映像・立体イメージで)確実な思考枠を作ったのは
二回生の時である。
しかしそれ以前に、一回生の時にも、意識構造というものにとらわれていたのだ。

どういう事かと言えば、最も端的な例を挙げるなら、
自分が不安だった核戦争の脅威について、
誰も本気になって心配していなかったということである。
新聞やテレビでは当然の情報として流れているのに、
自分の目の前の社会は、そんなこととはおかまいなしに動いている。なぜか。

みんな一体何を考えているのか。
私は知っている人々をできる限り思い浮かべては、
核戦争の脅威という項目でチェックを重ねた。
共産主義は良くないんだという意識がある。
あるいは、資本主義は克服されるべきだという意識もある。
しかし核戦争はいけないということになると、
お互いの自分の主張が正しいという意識にさえぎられて、
焦点がぼやけてしまうのだった。

現代社会のトップである首相はどうか。自民党の党首だ。
共産主義はいけないと思っているだろう。
核戦争だって無論良くないに決まっている。
しかしそこが自由主義陣営に属する者であって、
共産主義はいけないという論理の方を優先させないと、
立場が怪しくなるみたいに思えた。

マルクス主義者はどうか。彼らの歴史の発展段階には、核戦争なんてものはない。
自由主義社会は社会主義社会に発展するために、克服されるべきものなのだ。
その段階での核戦争は、位置付けがはっきりしない。
無論彼らにとっても、核戦争は良くないのだ。
しかし自由主義陣営の仕掛けてくるものに、屈伏するわけにはいかない。自
分たちは正しいのだから。そんな感じがした。

周囲の友人知人はどうか。あまりにも突飛な質問に感じられて、
聞いてみるのがためらわれる。
だいたいが不安だけれども考えても仕方がないと言うだろう。
人によっては、そんな政治に近い堅いことを考えてはいけないとも言いそうだった。
(ただし想像するばかりで、そんなことは聞けはしなかった)

核装備の増大ということを報道する人々も、危険を知らせるだけだ。
平和主義者の運動も報道されてはいた。
しかし陳情やデモなんか、何の役にもたっていないように見えた。焼け石に水である。

郷里の人々が、どれだけそんなことを知っているだろうか。
この場合、知っているかどうかすらおぼつかない人々が浮かんでくる。

誰もが、結局はどういうことになるのか、少しも考えていないようだった。
一生懸命目の前のことをしているだけである。
核戦争阻止については、みんな他人まかせみたいに見えた。
直接増大させている人々の考えは、私にはわからなかった。

危険だけはわかっているけれども、誰もが他人まかせなのである。
大戦前夜の状況というのは、こんなもんじゃないのかなと思うと、自分の想像にギョッとする。

それは、人の意識の中から「核の危険」という言葉を検索するのに似た作業だった。
現代の日本社会の中を照射しながら移動する感じである。
人の数が重要だった。
自分のような人間が極めて少数の部類だということを、1回生のこの時初めて感じた。
情報の飛び交う現代日本でも、核戦争の危険ですら、知ろうとしない人は知らない。

意識の世界が人によってそんなにずれていて、それで社会が動いていて、
そして戦争が始まるなんて、そんなことあるのかな−−−。

そして社会が情報で動くということについて、
多少は理論的?に構築図を描いたところで分析してみたマルクス主義のこの分布状況は、
一体何を示唆するのだろうか。


** 当時は論理など全然考えなかったと言っていいほど、直観を土台に、
飛躍に次ぐ飛躍をやった。だから論理を書くと、
当時の私の実際の思考とはかなり違ってきてしまうような気がするくらいだ。

  人に納得を求めてやむを得ず書いているが、今思い返しても、
正確の点を認知したら、次はこの正確の点、次はこれ、と、
一気に結論を出してしまったとしか言えない。
考えていた時間というのは、実質的には数日だと思う。
イメージの世界というのは、そんなものだ。

  言葉にならなかった構図を思い出しては、
長々とした文章に置き換えて説明しているような感じなのである。
あるいはその構図は複雑な分子構造モデルのようなもので、
文章になどなりようのないものを、
見る角度を変えることによって説明している感じだとでも言った方が良いだろうか。

 自分で考えたことが大事なものである、と、確信を持つに至るまでが、大変なのだ。