11・冷戦とマルクス主義
〔冷戦とマルクス主義〕〔マルクス主義(唯物史観)と社会認識〕〔『唯物史観の公式』〕〔通貨〕
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〔冷戦とマルクス主義と自然科学〕
私があわてて新聞の国際面をしげしげ見るようになったのは、
世界史を勉強して培った、世界の動きを見通すという発想からして、
当然のことだった。
社会主義国家から資本主義国家に対してなされる非難やコメントなど、
外交に関する文書の、文面の下敷きになっているのはマルクス主義の思想だった。
私は、外交文書にマルクス主義の文言が出てくるのを、この時に初めて知ったのである。
こういうものは、みんな高校世界史からすると、
参考史料として出てくるレベルのものだ、という感覚で私は新聞を読んでいた。
世界の状況や日本の政治状況をかれこれ考える内に、
私が「マルクス主義が否定されたら冷戦は終わるだろう」と考えたのは当然のことである。
しかし自分が考えているような当たり前のことを、どうして他人が考えないのか、
どうしてこんな思想状況で固まっているのか、
自分が何を言えばマルクス主義を否定したことになるのか、
そういうことが、どう考えてもわからなかった。
自分はマルクス主義が間違っているように思う。
しかしこれを表現すると、困ったことに「間違っている」という表現にしかならないのだ。
自分が何を表現する必要があるのか、それがわからない。
宇宙創成から現代に至るまでを歴史として捉えてみる。宇宙から地球を見る。
そんなことは、考える人は誰だって考えそうだし、
空中写真だって、ある所に行けばどっさりあるものだし、
極小粒子とエネルギーの話だって、みんな知っている話だった。
物を所有しても、私が言うような意味では、
物質関係が発生しているわけではないなんてことは、
誰でもわかる話みたいだ。
それがどうして、学問の世界で、マルクス主義の真偽の判定がつかないことになるのか。
自分が考える基本にした事柄の要素を取り上げては、
それを考えそうな人達というのを想像してみる。
たとえば「宇宙創成から現代に至るまでを歴史として捉える」という考え方が好きな人は、
たくさんいそうだと思うのだ。
しかしそういう人が、それが歴史学の方法として必要だ、
とまで主張するような場所に、生きているとは思えなかった。
私が考えたその他の様々なことがらのすべてに、
この「生きている場所の違い」という側面が共通しているような気がした。
私以外の人は、棲(す)み分けた社会で、みんな食い違いの場面にいるみたいだと思った。
しかし私だって、東大総長が書いた東大教科書に対して、
正面から文句を言うほどの立場にいるとは思えない。
自分より偉い人はいっぱいいるではないか。こんなに状況がおかしく思えても、
自分が何か言うほどの立場にいるとは思えない、というのは、大きな問題だった。
それに自分が直面しているのは、大学生活における歴史学の勉強なのだ。
こんなことを自分が考えていても、
大学生活で何か成果を生み出せるようなものではなさそうだった。
言葉で考えたのではなく、シミュレーションで考えたもの。
これを文章に書き直すなんて作業は、全くやったこともない。
それに意味があると後押しするものも何もない。
おかしいと思いながらも、気を取り直して大学の勉強に戻るしかなかった。
***
***
〔マルクス主義(唯物史観)と社会認識〕
1991年、ソ連の崩壊が確実になった。
忙しい日常だった私には、ベルリンの壁の崩壊も、ソ連の崩壊も、
それがなぜかはわからなかったけれども、当然のような気がした。
しかし問題はそれからだ。どう感覚をはりめぐらしてみても、
私が考えたようなことは誰も言っていない。
林著『史学概論』は売られ続けていた。
2003年時、その1・2年前まで、売られていたようだ。
つまり私が大学時代にショックを受けた頃から、
さらに25年の寿命を保った本なのである。
林著『史学概論』が暗に批判していたマルクス主義の退潮は、
かなりはっきりしているようだった。
しかしそれは、風潮が退潮になった、現実と照応しない、ということであって、
理論の破綻の指摘ではないように思われた。
その間に、マルクス批判の勢いは強まった。
しかし私にとっては、その批判の方向性が問題だった。
科学も歴史学も、人間の側の捉え方の問題が大きいのであって、
絶対に確実なものなど存在しない。
どのような角度でものを見るのが社会的により適切であるかが問題なのであって、
客観的なものなど存在しない。
そういう話が主流を形成するように思われた。
歴史認識に主観性は免れない。重要なのは、その社会的有用性である。
この場合、何を社会的有用性とするかが問題である。
発言者の当初の意図に反して、
右派の、日本国統合のための歴史というものが社会的に有用である、
という論理も強まったようだった。
「誰もがそれで、是か非かを判断できるもの」がある、
なんて言う者は、頭が古いマルクス主義者か、素朴客観論者だ。
そんな風潮が出てきたように思われた。
そこで、これはおかしい、そんな気持ちになったのだ。
**
マルクス主義の革命の方法を巡って、
マルクス主義が言う「歴史法則」をどう理解するかという議論は、
かなり古くからあり続けたものである。
中でも昭和初期(1932年頃)の「日本資本主義論争」などは、
日本史辞典にも出てくる有名な論争である。
マルクス主義では、
世界史は、唯物史観(マルクス主義の歴史観)の発展段階論のままに、
資本主義から共産主義へと向かう、そういう法則に則って、歴史は動く、
そう言っていた。
”歴史をマルクス主義に則って理解すれば、
その歴史観である唯物史観は、歴史の全体を貫徹しているように見え、
マルクスの発展段階論は、間違いないことが証明される。”
歴史学者にとって、これは、史料を解釈する上での、
非常に有益な理論に見えもした。
そのために、社会の下部構造(経済)の変化を調べれば、
社会の変革の構造が理解できるのではないか、と考えられた。
ここで歴史学に影響を与えた「唯物史観の公式」を紹介しておこう。
以下は、私が大学2年の時に、読みあぐねて捨てた、その文章である。
()内は私のつぶやきである。
〔『唯物史観の公式』〕
わたくしにとって明らかになり、
そしてひとたびこれを得てからは
わたくしの研究にとって導きの意図として役立った一般的結論は、
簡単につぎのように公式化することができる。
人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、
かれらの意志から独立した諸関係を、
つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、
取り結ぶ。
(人間はすでに出来上がった経済の中に生まれる、ということのようだが、
社会的生産とか、物質的生産諸力とか、生産諸関係とか、
具体的に何を意味するのかわからない言葉が並ぶ。
魚を取ったり、米や野菜を作ったり、物を作ったり、売ったり、買ったり、運んだり、
それが、必然的で、人の意志から独立した関係である、とはどういうことか?
誰しも、自分や他者の必要を見て取って仕事をしているのであって、
それが自分の意志から独立している、なんてことがあるだろうか?
そして、生れた赤ちゃんにとって、経済みたいな難しいことは、
すぐには考えが及びそうにない。
確かに食べたり飲んだり着たりするが、
それが経済関係のおかげだ、という風には感じそうにない。
自分を世話してくれる人たちのことしか考えないだろう。
急に飛躍したような感じがするのだ。)
この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、
これが現実の土台となって、
そのうえに法律的、政治的上部構造がそびえたち、
また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。
(歴史の教科書に出てくる、フランス革命時の宣伝ポスター、
底辺が社会を支えているような三角構造図を、
底辺に経済、その上部に法律や政治や精神活動を置いた、
そのようなものでも想像すればいいのだろうか、
と、考えてみた。
しかし、空中写真のイメージからすると、そんな三角構造図は、
現実理解の妨げになるとしか思えなかった。
空中写真的な、これぞ物質世界、という世界の中の、
人間社会の活動を理解しなければならない。)
物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。
(要するに、物質的生活と言われる経済生活が、
社会的・政治的・精神的生活を制約する、ということらしい。
何より重要なのは、経済ということらしい。
しかし、個人的に言うと、私の頭は、お金よりも、
知識と情報で生きているという感じがするのだ。)
人間の意識がその存在を規定するのではなくて、
逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
(これがよく使われる文言のようだった。所属階級がその人の意識を作るとか、
だから、人を知るには、その人の階級を知ることが重要だとか、そのようなことが
よく言われた。人の言っていることを考える前に、その人の階級を知ることが大事だとか。)
社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、
いままでそれがその中で動いてきた既存の生産諸関係、
あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と 矛盾するようになる。
これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。
このとき社会革命の時期がはじまるのである。
経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ、急激にせよ、くつがえる。
(このあたりも、社会変革が好きな人には、好まれる文言のようだった。
経済発展がある段階に達すると、生産諸関係と矛盾するようになり、革命が始まる。
これも具体的にはどういうことなのか、理解できなかった。
やたら富を独占する人がいて、貧乏人は窮迫するだけだったら、
誰だって怒り出すだろう。
しかし、それは経済発展とは関係ないような気がするし、
経済発展が社会で矛盾をきたさないように、人は再々法律を改正するではないか。
人に関係なく、経済で事が起こる、みたいな言い方には、どうも納得がいかない。)
このような諸変革を考察するさいには、
経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、
人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、
つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。
(経済が、人間に関係なく、物質的で自然科学的な正確さで変革を起こす、だろうか。
空中写真の世界では、経済は、人の意志なしでは動かないもののように見える。
人間なしに、勝手に経済的物資が動くようなことはないのだから。)
ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、
このような変革の時期をその時代の意識から判断することはできないのであって、
(これも、好きな人は好きな言葉のようだった。
人を判断するのに、その人が自分自身をどう考えているのか、ということには頼れない、
って、何だろうか。
私は、自分が何を考えているかは、自分が一番よく知っている、
これは他人にはわからない、と思う。
マルクスは、ある人の考えは、その人の意識(主観)では判断できないから、
その人の言うことに耳を傾けても無駄である。そう言ってるようなのだ。
その人を取り巻く状況(客観)が、その人を判断するのに役に立つ。そう言ってるようだ。
こうして、ブルジョアなど、意見の違う者の言うことなど、聞いても無駄、
という姿勢ができてくるのではないか、という気がした。)
むしろ、この意識を(、)物質的生活の諸矛盾、
社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。
(「意識」は主観的なものであり、「経済」は物質的で客観的なものである、
とでも言ってるのかなあ、という感じだったが、
経済が意識に関係ないとは、どうしても思えなかった。
意識を経済から説明しなければならない、と言ってるみたいだが、
経済を意識抜きで説明するということがわからない。
需要・供給曲線というような近経の分野らしきものもかじったことがある。
あのような方法に、普通に思う個人の意識というテーマは感じられないが、
しかし変革の時代の意識を経済から説明するのは、
前提条件の説明である。それも重要だが、直接的ではないような気がするのだ。
どう考えて行動しているのか、が、歴史学としては重要なテーマであるように思う。
私の感想は、文字通り読んだだけ、の理解不足なのだろう。
だが、それにもまして、
空中写真的な、これぞ物質世界、という世界の中の、
人間社会の活動を理解しなければならない、
という、自分のテーマは堅固で、一向にゆるがないものだった。
この世界では、意識なしでは経済物資は動かない。)
*****マルクス『経済学批判』(岩波文庫)より
*この『唯物史観の公式』が掲載されている私手持ちの本:
林健太郎 『史学概論』有斐閣・1953年P101
芝原拓自著『所有と生産様式の歴史理論』青木書店・1972年P26
(私が大学時代、選択した経済史講義でテキストだった本)
小谷汪之著『歴史の方法について』東大出版・1985年P58
梅元克己著『唯物史観と現代』岩波新書・1974年P15
もはや何で知ったのかわからないけれど、共産主義国の厳しい言論統制と、粛清とかいう不気味なうわさは、
私の耳にも真実味を持って届いていた。
しかし、共産主義を理想の世界と思っているような人たちも、大学に来ると、実際にいるのだった。
現存する共産主義国家は本当の共産主義社会ではないから、と言うのだ。
そうして『唯物史観の公式』を読み、歴史学への影響度を知り、
これしか考えてはいけない、という社会を想像すると、
一体どうやって自分の頭を整理したらいいのかわからない。
それは、林健太郎著『史学概論』で「自然科学として総称される諸科学はすべて歴史ではない」
という文章を見て仰天したのと同じ、自分の精神にとって、絶対的な矛盾を突きつけるものだった。
この考え方以外は暴力で排除する、という社会は、「空中写真」の世界を暴力で排除する、
ということと同義であって、私には、まさに狂気に思われた。
マルクス主義者が標榜していたことに、マルクス主義は客観的である、
というのがあった。
それに対する批判には、以下のようなものがあった。
たとえばその発展段階論の検証の仕方について、
まず最初にマルクス主義の認識枠があり、
事実をその中に押し込めることで「検証された」という主張がなされていて、
それは全然検証ではないのだ、という非難になる。
たとえば日本史でも、戦後すぐには(早期のものは戦前にもあったが)、
原始共産制・奴隷制・封建制・資本主義・社会主義という発展段階がある、
という主張がなされたこともある。
それはマルクス主義に則して考えれば、
生産様式に着目した、客観的な歴史観として強く支持された。
この日本史の見方について、検証だと言うその方法が、
事実を理論の枠の中に押し込めているだけだ、というのがあった。
客観的と見なされた経済の部分を、理論に合うように拾って、
理論が事実によって検証されたとする、そういうことがよくあった。
これは理論や客観という名の主観である。
事実が客観的に存在するというようなことはない。
客観的という名で主観を押し付けるのは間違いだ。
批判の内容はそういうことだった。
最近はマルクス主義に対してのこうした批判以外に、
客観という言葉そのものに過剰に否定的反応をする人が増えていた。
客観的なものなどないと言うのである。
かくして「人間の認識に関係なく、事実が客観的に存在するというようなことはない」、
そういう論理が優勢となってきた。
こうした認識論に対して私が思うのは、
では、人間の認識に関係なく存在している物質世界は、
いつの間に存在しないことになったのか、ということである。
人間の認識が関係しないと、人間には物が見えないと言うが、
人間がいないと物質世界は存在しないのか。
物質世界は人間には関係なく、客観的に存在するだろう。
前出の、見る人にはいろいろに見えても、空中写真は1枚しかない、というのと同じである。
いろいろに見える、ということばかり主張する意見が、やたらと多いように思われた。
当事者の認識には関係なく、史料の残存状況にも関係なく、
歴史家の認識にも関係なく、存在した世界があったはずである。
それは歴史と言うにはふさわしくないかもしれないけれども、
絶対的に存在した過去というのは、理論的にはあるはずである。
それは例えば、宇宙から地球世界を眺めて、
千年二千年の長期的な尺度で早回ししてみるような世界。
歴史として把握される以前の、物質存在として存在した過去の世界を、
こういう視点から考えてみることもできるのではないかと思う。
思い出せば、より正しい世界観を築くことが、私のしなければならないことだと、
思ったのが始めだった。
空中写真的な、これぞ物質世界、という世界の中の、
人間社会の活動を理解しなければならない。
これが私のテーマである。
〔通貨〕
ここで「通貨」について、私の理解を述べておこう。
マルクス主義にも「貨幣」という言葉は出てくる。
他者の使う「貨幣」という言葉にぶつかると、どうも自分の概念とは違うと思うので、
ここで私のイメージするものをメモしておきたい。
私が気になるのは、
1・5・10・50・100・500円の各硬貨、さらには、
1000・2000・5000・10000円の各札が、
それぞれ素材や形体を異にしているにも関わらず、
その国の通貨と認識される場面では、「一つの同次元レベルの数量」の表示として扱われる、
ということである。
500円玉1個と100円玉4個と10円玉10個は、1000円札1枚と等価である。
こういうことは、幼児には理解できまい。
幼児は、数の概念のほかに、
通貨の交換機能の具体例を知ることによって、
それが「同次元レベルの数量」表示として扱われることを、
経験的に知る必要がある。
硬貨相互、あるいはまた硬貨と紙幣との間に、等価交換が成立する、
というのは、人間の側の情報に基づく判断であって、
硬貨相互、硬貨と紙幣との間に、物質としての関係など、何もない。
つまり、銀主体の金属や銅主体の金属、紙、の間に、物質関係など何もない。
水が蒸発して蒸気になるとか、鉄の玉が落ちて地面に跡を作るとか、
そういう意味での物質関係は存在しない。
人間が、他者からの情報に基づいて、恣意的に、これらを、
関係するもの、「同次元レベルの数量」、として扱っているだけなのである。
ただしこの恣意性には社会的な拘束力があり、公的であり、
社会全体が共有するものである。
物質世界に対しては人間の側の恣意であっても、
人間世界に対しては個人の恣意とはなり得ない。
経済社会に関わっている人々全員に、普遍的なものである。
こうしたことは、言葉にも共通するものがある。
机を「つくえ」と呼ぶか、「き」と呼ぶか、「ですく」と呼ぶか、
あるいはまた、別の音列で呼ぶかは、その社会の任意であり、
その呼び方は、対象物には関係なく、人間の側の恣意である。
つまり私の考え方では、通貨は人間の意識なしには成立しない、ということである。
あるいはまた、以下のように言うこともできる。
人が、価格の変動する「金(ゴールド)」を見ている構図を、物質世界の変化として考えるなら、
激しく変化するのは人間の「脳の活動」のほうである。「金(ゴールド)」は変化しない。
それが物質世界で起きている現象である。