12 歴史学における事実
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事実とは何か。
簡単なようで、これが中々やっかいな問題である。
私たちは毎日、いろいろな情報に触れては、これはどの程度事実かと、
何気なく考えて行動している。新聞や雑誌や本に書かれていることは、
どの程度「事実」だろうか。ひそひそ交わされるうわさ話は、どの程度「事実」だろうか。
これが歴史的事実や、国際的な状況認識の話になると、「事実」とは何かと、
さらに激しい論争の原因になったりする。
簡単なようで難しいのが、「事実とは何か」という問いである。
例えば、「A氏が○月○日○時に、東京駅にいた」
と書いた日記が二つあったとしよう。
ところが本物のA氏は、同じ時刻、実は会社で仕事中だった。
それを多くの同僚が確認していて、利害関係のない人物もそう証言した。
この場合、もし日記を書いた人物たちに、嘘を書く可能性があるならば、
多分、事実は「A氏は会社で仕事中だった」である。
こういう時、相反する二種類の情報の中で、
事実はどちらかと判断するには、どうするか。
東京駅で見られたA氏というのは、別人だろう、
あるいはその日記証言は虚偽だろうと予測するのは、
普通はみんな、毎日一緒に仕事をしている多くの同僚達が、
間近に見たという証言の方が正しいと、判断するからである。
しかしながら、時には同僚全員が口裏を合わせた可能性もある。
だから、証言者たち・質問者・証言される者の間の、相互の人間関係をも、
考慮に入れる必要がある。
このように、人は普通、ある事柄についての情報の根拠を、
証言の確かさに求めるが、事実というものの最大の根拠は、
純粋に理論的に言えば、「証言の確かさ」ではなくて、
「物質存在的に確実である」、ということである。
証言が二つあるからと言って、事実が二つあることにはならない。
したがって、これを、私流唯物論に書き直すと
「A氏は会社で仕事中だった」というのが物質存在的に確実なもの、
「A氏が東京駅にいた」とする日記は虚偽情報。
そしてこの場合、多くの同僚の証言は「A氏は仕事中だった」という事実の補強である。
日常的な意味で言う、事件や事柄という意味での事実とは、
「物質存在的に確実なもの」を人間が認識して言葉で表現したもの、のことである。
「A氏が同時刻、東京駅にいた」というような、
物質存在的にないものを、言葉で表現したものは、事実だとは言わない。
〔歴史学における事実とは〕
歴史的事実とは、「史料」という証拠物件を基礎にして、
事実であると証明されたものを言う。
以下は、今井登志喜著『歴史学研究法』東大出版(原文昭和10年)を基本にして、
「史料」が証拠物件として役立つかどうかを吟味する際の注意事項を、
簡単にまとめたものである。こういう作業を「史料批判」と言う。
その際、今井登志喜の歴史学の定義にも触れておこう。
*****
1、歴史学とは
歴史学は経験科学であり、経験的な証拠物件を基礎として実証的に成立する学問である。
2、史料とは
歴史研究の証拠物件が史料である。
史料とは、文献口碑伝説のみならず、碑銘、遺物遺跡、風俗習慣など、
「過去の人間の著しい事実に証明を与えうるものすべて」である。
ただし、史料には2種類ある。
(1)史料が物質存在として、ある歴史的事件・歴史的対象と、物質的に関係しているもの。
(2)史料が歴史的対象に対して、
人間の認識を経由して、人間の論理で整理され、言語で表現されている
という関係にあるもの。
*人間の認識を経由して描かれた、という意味では、絵画・図などはこれに準じる。
たとえば、
(1)は、モノ的に関係する世界、やわらかい地面を歩けば足跡が残る、
というような世界での、「足跡」(痕跡)。あるいは作成物、地理、自然など。(遺物)
(2)は、人が歩いているのを見て、誰それが歩いていた、
と証言する世界での、「証言」である。(証言)
(1)を考察の範囲に入れないものは、歴史とは言えない。
歴史は、物語や文学ではないのだ。
3、史料批判とは・その必要性について
史料批判とは、収集された多くの史料が、証拠物件として役立つかどうか、
またもし役立つとしたら果たしていかなる程度に役立つか
を考察することである。
これは考証という言葉とほぼ同じ意味である。
しかし、Kritikという鋭い原語を生かそう、と、この訳語が用いられるようになった。
以下は文献史料を中心に述べるが、偽造・錯誤・虚偽などについての検討は、
美術品・工芸品や遺物・遺跡にも当てはまる。
史料として提供されるものには、しばしば「全部もしくは一部が本物ではない(偽作)」とか、
あるいは「それまで承認されていたようなものではない(錯誤)」、というようなことが発生する。
偽作(贋造)のできる動機を数えると、
好古癖・好奇心・愛郷心・虚栄心などに基づく動機、宗教的動機などが挙げられるが、
なんと言っても利益、ことに商業的利益の目的を動機としたものが最も多い。
そしてこれらの動機に基づく偽作は、ほとんどすべての種類の史料に行き渡っている。
中世ヨーロッパでは、領地などの権利を強固にするため、多くの偽文書が作られた。
そのほか、家格を良くするための虚栄心からくる偽文書がある。
わが国でも戦の感状などに偽造がある。西洋では教会に偽文書が多くある。
ローマ法王に関する偽イシドールス法令集は偽文書としてよく挙げられるものである。
偽作の種類は非常に夥しい。
また、何らかの理由で錯誤が起き、
その史料が、違う時代や人物に当てられ、間違った説明が加えられて、踏襲されたりすることもある。
これら偽造や錯誤が、全部でなく、一部であることもある。
したがって、史料の正当性・妥当性は、常に注意深く吟味されなければならない。
また、史料が証言する内容について、
どの程度信頼できるか、どの程度証拠力があるかを、評価する必要もある。
証言者は、
論理的な意味で事実を述べることができたのか、
倫理的な意味で事実を述べる意志があったのか、
という二点で検討されなければならない。
史料批判は一般に、
史料の外的な条件を検討する「外的批判」と、
史料に記された内容を評価する「内的批判」
とに分けられる。
4、外的批判
史料の外的な条件を把握することが必要である。これらは史料の証拠価値の判定基準となる。
例えば、次のような視点から史料の確かさを検討する。
(1)偽作でないかどうか(真偽の検討)
1. その史料の形式が、他の正しい史料の形式と一致するか。
古文書の場合、紙・墨色・書風・筆意・文章形式・言葉・印章などを吟味する。
2. その史料の内容が、他の正しい史料と矛盾しないか。
3. その史料の形式や内容が、それに関係する事に、発展的に関係し、その性質に適合し、蓋然性を持つか。
4. その史料自体に、作為の痕跡が何もないか。その作為の痕跡の吟味として、以下のようなことが挙げられる。
(1) 満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、
その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか (来歴の検討)
(2) その作者が見るはずのない、またはその当時存在しなかった、
他の史料の模倣や利用が証明されるようなことがないか。
(3) 古めかしく見せる細工からきた、その時代の様式に合わない、時代錯誤はないか。
(4) その史料そのものの性質や目的にはない種類の、偽作の動機から来たと見られる傾向はないか。
その他、偽作がその内容の種本にした史料との比較によって、明らかに偽作とわかったりすることもある。
* 偽作に関しては、身近な例として「偽書」や絵画の贋作、「旧石器捏造事件」 を思い出していただきたい。
錯誤についても、偽作を検討する作業の中に、適用できるものが含まれる。
混入や変形がある場合の吟味の基礎は、詳細な比較研究である。
(2)史料が作られた時・場所・人間関係を吟味する(発生の検討)
古い時代の文学作品等には、作者や著作日時が不明のことが多い。
また公私の記録文書、ことに原本がなく写しのみの場合、
例えば人々の書簡集のようなものには、これらが欠け、または不十分なことが多い。
日時・場所を明らかにすることは、事の経過や状況を知るための基本である。
史料の日時を考察する。外的・内的の両方の吟味を行う。
外的吟味
1、ある日時の明らかな史料のことが、その史料の中に出てくる。
2、ある日時の明らかな史料の中にその史料の事が出てくる。
3、共存する他の時間的関係の知られている史料から判断する。
4、時として技術的関係からの判断による。たとえば手紙に日付がなくても、
その到着した時がわかっている場合。
5、それが時間の知られている史料の断片であることの考証による。など
内的吟味
1、比較研究。すでに日時の明らかにされている他の史料と、
外形的特徴、たとえば様式材料技術等を比較する。
2、文献的史料では、特に言葉、スタイルなどがおおいに標準となる。文語体でも時々
何か時代をあらわす要素が含まれている。
3、記録等の場合、その記事の内容に手がかりを求め、それによって判断する。
ある時より、前か後かを明らかにできるだけでも、その史料の利用に役立つ。
その他、場所の吟味、人物の吟味など。
言語で表現された史料の場合、その史料の作者の地位・性格・職業・系統等が明らかにされれば、
それがその史料の信頼性等を判断する根拠となって、その史料を用いる際に都合が良くなる。
(3)オリジナルの史料かどうか(本源性の検討)
史料の利用について特に注意するべきことは、オリジナル史料と借用史料の区別である。
各史料の要素を細かく分解し、親近関係が疑われる史料と比較し、
これによってそれらのオリジナル性や従属性を確かめる。
その理論的根拠は
1、一つの出来事について、各人の観察把握の範囲および内容は、
すべての個々のことについて、特に偶然的なことについて、
みな一致するということはない。
2、各人が同じ一つの事を述べるとき、その表現の形は同一ではない。
3、すでに他人によって言語的に発表された表現内容に一致する証言は、
少なくともその付随事項の一致により、またしばしば誤解があることによって、
その従属性が明らかになる。
4、二個以上の報告が同じ内容を同じ形式で述べる時、それらの史料には親近関係がある。
これらの史料にどういう系統関係があるかを判断する。
5、内的批判
史料をどの程度信じるべきか、どの程度の証拠力があるかを検討する。
同一事実に対して直接証人の証言が矛盾していることは少なくない。
証人は、
論理的な意味で真実を述べることができたのか、
倫理的な意味で真実を述べる意志があったのか、
この二点においての評価が必要である。
史料の信頼性が損ねられる例は多々ある。その原因には、大きく分けて「錯誤」と「虚偽」がある。
〔錯誤の例〕
1.感覚的な錯誤
2.総合判断の際の先入観や感情による錯誤
3.記憶を再現する際に感情的要素が働いて誇大美化が起きるような例
4.言語表現が不適切で証言がそのまま他人に理解されない例
直接の観察者でも、錯誤が入ることはよくある。ましてや証言者がその事件を伝聞した人である場合、
誤解・補足・独自の解釈等によって、さらに錯誤が入る機会は多い。
ことに噂話のように非常に多数の人を経由する証言は、
その間にさらに群集心理が働いて、感情的になり、錯誤はますます増える。
〔虚偽の例〕
1.自分あるいは自分の団体の利害に基づく虚偽
2、.憎悪心・嫉妬心・虚栄心・好奇心から出る虚偽
3、公然あるいは暗黙の強制に屈服したための虚偽
4、倫理的・美的感情から、事実を教訓的にまたは芸術的に述べる虚偽
5.病的変態的な虚偽
6.沈黙が一種の虚偽であることもある
このように、言語史料には錯誤・虚偽が入る機会が多い。
事件の当事者の報告は、その事件を最もよく把握している人の証言だ、という意味では最も価値がある。
しかし一方、当事者はそのことに最も大きな関心を持っているために、
時として利害関係虚栄心などから、真実を隠す傾向がある。
この点においては、第三者の証言の方が信頼性が高くなる。錯誤はなくても虚偽が入るのだ。
すべての証言において、その作者の人物を考慮することは、その史料の信頼性を考える上で、重要な標準となる。
言語史料を「音声」と「文字」に大別して考える。
「音声」史料の場合、時間的人間的に、間接の度が増して、広がるほど遠くなるほど、信頼性が落ちる。
伝説はその典型である。
一般に、長く伝わる間に、1誇大・美化・理想化、2集中、3混合、などが起きる傾向がある。
現在文献化している音声史料でも、かつて相当の期間口伝的だったものは、こういう性質を持つ。
「文字」史料の場合、
公私の往復文書、宣言書、演説、新聞雑誌の記事、日記、覚書、回想録、系図、歴史書、年代記、伝記その他、
種々の種類に分類して、大体その性質を考察した上で、さらにその史料の一つ一つを吟味する。
特に、利害関係を持つ内容、宣伝的性質を持つ内容、道徳的・芸術的効果を目的とする内容等については、
事実の歪曲を予想するべきである。
最後に、歴史認識に達するための総合作業がある。
6、史料の発生経過による考察
さらには、史料の種類を、発生経過をたどって考えてみる。
時間経過や空間的距離そのものが、史料内容の変化を特徴付ける、という面も、大きいからである。
特に、後世の記録や編纂物、物語・小説となってきた場合、その変化には、
顕著な意図的傾向が見られる。
手にした史料がどういうものか、見当をつけるためには、発生モデルを考えておくことが便利である。
まず最初に、事件・事実が成立する前提となる様々な事項、というものがあることを考慮しておかねばならない。
○ 自然世界であり得る範囲かどうか。
○ 地理、地形、地質、気象などの自然条件に合うかどうか。
○ 全体の歴史、全体の人間関係、の中の事件であることの確認。
次に、事件当時、当事者が残した史料が、「遺物として」、
その歴史的な事件・対象と、物質的に関係している(時・場所・状況に整合性がある)ことが証明される必要がある。
つまり、一次史料であることが証明される必要がある。
それを証明するには、以下のような前提事項が必要である。
A 当時の人々が残した、生活・慣習・制度・思考の、痕跡や記録のうち、
当該事件について、時間や場所や内容の蓋然性を証明するものがあること。
B また、紙質・墨色、筆跡・書体、文章形式、言葉、印章など、時代性を示すもの全般、
物品の製作技術の傾向・度合いや材料で、時代や場所を示すものがあること。 等々。
ある事件について、このような前提事項に保証された一次史料が発生したと想定して、順番に経過をたどって考えてみる。
1、 @ 事件・事実の当時、その場で当事者が、各自、自ら作った史料。
(例えば、「遺物」としては、足跡・血痕・指紋、作業の痕跡。
あるいは「証言」史料としては、連絡・指示のための手紙、事務的な記録、備忘のためのメモ・日記等。
社会や組織を運営し、機能させるために作成された史料。
*「証言」史料には、遺物という側面もある。したがってこれらは、紙質、筆跡、文章形式、言葉などで、
当時の当事者のものであると確認できなければならない。)
A第三者が同時代に作った証言史料。
(遺物としての側面からは、紙質、筆跡、文章形式、言葉などで、@と同様の確認ができるもの)
2、 時間や場所が隔たっているが、当事者が自ら作った史料。普通の覚書や記録の類。
3、 1と2を根拠として、それらを関連付けてまとめたもの。各々の当事者系譜の家譜・伝記・覚書など。
4、 それらを参考にしつつ書かれたもの。
A、道徳的感化や芸術的効果、教訓や娯楽を目的に書かれた物語や小説。
B、意図的な宣伝目的を持つ文献。
C、編纂された歴史書
など。
大抵は、史実には、立場によって利害関係が発生する。
それゆえに、史料の背後にある人間関係が重要になってくる。
個人や集団の利害に関係する文書は、
当事者の作成とされていても、あるいは逆に、当事者が作成したとされるがゆえに、
むしろ信用できなくなることも多い。
史実のかく乱情報は、史実が発生した当初から存在しうる。
利害を左右するとなると、これら当事者による情報は、
本人あるいは他者によって、偽作・捏造・虚偽の対象になりやすい。
証拠となる痕跡や遺物、文献、証言、絵画・写真等が
「実物かどうか」「内容がどの程度本当か」
を判断するのに必要なのは、
その史料を構成する要素についての、同時代の正しい史料である。
つまり、地理・地形・地質・気象、痕跡、遺物、紙質・筆跡・文章形式・言葉、
あるいは物品の製作技術、その傾向や材料など、
時間や場所や状況を特定するのに役立つもの。
あるいは、情報として役立つものとしては、
全体の歴史、全体の人間関係、
当時の人々が残した、生活・慣習・制度・思考・行動様式の、記録・情報のうち、
その事件について、時間や場所や内容の蓋然性を証明するもの、
などが参考になる。
物語や小説は、通常は史料とは言わないが、かく乱情報として視野に入れておこう、という意味である。
宣伝文献も同じ意味である。
******
このように歴史学では、「史料」の証拠力を考える作業を、「史料批判」と呼んで、
不可欠の作業としている。
これは歴史学で経験的に発生した、嘘や間違いから本物を見分ける方法を、
整理して方法化したものである。
こうして「史料批判」という作業の末に、少なくともこれは確実だと言える、
という事柄を取り出す。これが歴史的事実である。
しかしながら上記のように作業を整理してみただけでもおわかりいただけるように、
「史料」を介して「史実」を認識するのは非常に大変なことなのだ。
そして内容の食い違う膨大な史料や、逆に膨大な欠落部分を考えていると、
「史実」が存在するという確信が、揺らいでくる一面もあるらしい。
こういう『事実』ということに関して、林健太郎氏は『史学概論』の中でこう言っている。
「概念的には、客観的所与としての歴史と
人間の主観によって形成される歴史像とを区別することはあくまで必要である」(P5)
「人間の意識の前に、事実が客観的に存在するということを
承認しないわけにはいかない」(はしがき・P217)
同じようなことを述べているのは、E・H・カー著『歴史とは何か』(岩波新書・1962)。
P34に「見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、
もともと、山は客観的に形のないものであるとか、
無限の形があるものであるとか
いうことにはなりません」とある。
斉藤孝著『歴史と歴史学』(東大出版・1975)も、
表現の仕方がややこしいこれども、P74に、同じ意味だと思われる内容が出てくる。
あと、増田四郎著『歴史学概論』(講談社学術文庫・1994)、
弓削徹著『歴史学入門』(東大出版・1986)では、
歴史学の出発点は史料だという所から出発するし、
小谷汪之著『歴史の方法について』(東大出版・1985)などは
歴史学に関する思想書のような感じで、
「事実とは何か」という問いに対する答えに類するものはない。
先にも取り上げた 今井登志喜著『歴史学研究法』(東大出版・1953)は、
史料を使ってどのように史実を決定するかということについて、
作業例を通して解説した本である。
直接「事実とは何か」に答えている文章があるわけではないが、
史料を介していかに事実を把握するかを執拗に解説した本である。
これを見ると、いかに史料が疑わしいものかを実例を引いて様々に説明してあり、
史料内容を確認するために、事件の日時から、
日の出や日没の時刻を割り出して確認するという作業までやっていることがわかる。
ここでは結局、人間が認識したことを、自然科学の力を借りて確認しているのだ。
この本のP88には
「歴史の語を抽象的にただ過去の経過と見て全く客観的な存在の意味に解すれば、
それはもとより固定した不変なものである。」
「しかしそれは人間の意識する歴史そのものでなく、
永遠に忘却の中に没し去って人間の思想と交渉のないものである。」
という表現が出てくる。
多分これは林健太郎氏の表現と同じと思われる。
しかし林氏の表現「人間の意識以前に存在する客観的な事実」の方が、
サイエンスにおける「事実」や私が言う意味での「事実」との関連で、
表現の一般化が進んでいたのだ。
私には、自分が考えている、物質世界を基本にした事実概念を連想しやすく、
従ってわかりやすいような気がした。
実は、こうして見ると、私が問題とした点を何よりも簡明に表現しているのは、
林健太郎著『史学概論』なのだ。
しかし皮肉なことに林氏は、私が事件や事柄の意味での「事実」の根拠だとした、
物質世界を、切って捨てた方なのでもあった。
〔揺らぐ客観的な歴史〕
前にカー著『歴史とは何か』の冒頭で引用されていた、
私が意味不明に感じたと言った、
林氏と同時代と思われるイギリスの歴史家クラーク教授の文章はこうなっている。
「彼ら(歴史家)は、
過去に関する知識が一人あるいは何人かの精神を通じて伝えられて来ているものであること、
これらの精神によって『加工』されたものであること、
したがって、絶対不変の元素的な非人間的なアトムから成り立ちうるものではないこと、
これをよく考えている。」(P2)
この文章は、過去に関する「知識」がアトムから出来ているわけではないと言っているのだが、
出発点が「知識」であって、過去自体は何でできているのかを問題にしない。
私は、「時間の断面を切り取る」という考え方で捉えてみる、
絶対不変の元素的な非人間的なアトムから成り立っている世界をまず考え、
それを人間が認識する、という順序で考えた。
だから、この文章のように、最初から「認識」のことしか述べていない場面で
アトム云々が出てきたので、
認識とアトムを結び付ける連想の仕方がわけがわからなかった。
何より「アトムから成り立ちうるものではない」という否定文句に、
心が麻痺してしまった。
その続き
「少なくとも、すべて歴史的判断には人間というものが含まれ、
見地というものが含まれるがゆえに、
いかなる歴史的判断も甲乙がなく、『客観的』な歴史的真理というものはない、
という学説に逃げ込んでいる。」
こういうクラーク教授の見解に対応する部分を探せば、
林健太郎氏の発言はこういう部分に表れていると言っていいだろう。
「歴史認識が何らかの主観性を媒介することは
今日の歴史哲学においてはもはや疑われないところであるが、
その主観性はもちろん単なる個人の主観性ではあり得ない。」(P206)
「そしてこのように「主観性」が
何らかの社会性を持った主観性でなければならないこと、
また現代が特定の意味を持つ「歴史的現代」でなければならないことは、
歴史認識の主観性にとってはおそらく自明のことであろう」(同)
ここで今井著『歴史学研究法』に戻ると、先に取り上げた「不変の歴史」(P88)
という文章の後には、続いて「歴史の現代性」ということも取り上げられている。
手持ちの方法論の本を出版順に並べると、
林氏の本の役割はそこで一つの分岐点を形成し、
後続の本は、別の方向からの役割を果たそうとでもしたのだろうか、と思えるほどだ。
私が気になった林氏の表現「人間の意識以前の客観的な事実」には、
どの本も触れないまま、
違った方面「歴史認識の主観性」で内容の充実に努めたかのような感じである。
客観的な事実って、どこへ行ったのだろうか。
みんなそろっていることは
「歴史認識には、最初から、事件の当事者である人間の、ものの見方(主観)が入っている。
歴史家自身も主観を経由して観察しないわけにはいかない。
歴史は歴史家の主観によって構成されたものであるから、
歴史を読む際に最も注意する必要があるのは歴史家自身である。」
と、あたかも客観的な歴史など存在しない、
と言っているかのような点である。
こういう主観性認識論は、
往々にして歴史家の良心的意図とは全く正反対の、
非常に面倒な問題を巻き起こす原因になっていると私は思う。
歴史を政治操作しようという運動を、理論面で補強する形になりかねないのだ。
方法論の本を出稿順に並べてみよう。
今井著『歴史学研究法』は、
「史料」という歴史情報の提供物をどのように吟味するか、
その問題に、簡潔な論理と、具体例による説明で、答えている。
上記説明したように、この本の中には、
後続の本が取り上げた論点「歴史認識の現代性や主観性」も、
簡潔な形で示されている。
しかし後続の本が、その簡潔な記述の一つ一つに、
激しい時代の波を重ねてどのように試行錯誤したか、というようなことは、
この本の時点では全くわからない。
今井著が書かれた数年前、
マルクス主義者の間では日本資本主義論争というのがあった。
日本で革命が起きるとすると、それは歴史的に見てどのようなものかという、
講座派と労農派の争いだった。
学問的な世界では、世界的な共産主義運動の流れに負けず劣らずの早さで、
日本も反応していたとは言えるようだ。
つまり極めて実践的?な関心があったのだが、
次第に日本は神国であるとする皇国史観が次第に勢いを強めてくる。
今井著が出た昭和10年というのは、ごく基本的な学問的手続きそのものが、
風前のともしびという時代に入る頃だった。
この本は唯物史観にも触れてはいるが、
ごく軽く、経済重視の考え方の一つとして扱われているのみだ。
戦後、世界的な社会主義と資本主義の二極対立の中で、
歴史学も激しいイデオロギー対立の嵐に見舞われた。
マルクス主義が「唯物論に基づく科学的な歴史」を標榜し、
歴史全体を階級対立の歴史として捉える。
そして歴史には自然科学的な法則が貫いていると言うのだ。
これを「唯物史観」と言ったり、「法則史観」と言ったり、
「決定論的歴史観」と言ったりした。
それは、1917年のロシア革命の成功以来、
知識人・思想家の間で無数の論争対立を呼んだものだったが、
戦前の国家主義が消えたら、
今度はこの思想対立が、世界政治の前面に躍り出てくることになった。
日本も歴史学も例外ではなかった。
マルクス主義が歴史観から出発していたために、
歴史学の中でも激しい対立が起きた。それを直接証明するものは何か。
それを示すのが困難なほど、二分裂の平行状態で論争が対立していたように思う。
私がここに挙げている本は、要するに反マルクス主義の系統と言えるだろう。
実のところマルクス主義の歴史学の方法論として、どの本がとりあげるに相応しいか、
今もよくわからないのでご容赦願いたい。
マルクス主義は私とは立場が違いすぎて、方法論の話をしているように見えないのだ。
戦後の本は、歴史認識をからめつつの、
戦前よりはるかに大衆化した過度の政治論争を横目に書かれたものが多い。
その意味で今井著『歴史学研究法』は、
歴史認識の主観性や現代性に一言ずつ触れてはいるものの、
唯物史観の思考様式にさほど危機感がなく、
「事実は客観的に存在する」とするその表現からして、
まだなお素朴客観論の範囲にあると考えていいと思う。
素朴客観論を脱した新しい歴史学の思考法として、
「社会性を持った主観性」(『史学概論』)、
「歴史の現在的視座」(事実がそのままあるのではなく、事実の意味付けが歴史
であるから、歴史が書き換えられる・斉藤著『歴史と歴史学』)、
「社会的有用性」(弓削著『歴史学入門』)
というような主張がなされると、歴史は現在の視点から、その社会的有用性のために
書き換え可能である、と、読めなくもない。
現在の自分に必要なものが読みたいというのは当然の心理だと思う。
しかし「事実とは何か」という問いを忘れた歴史は、虚偽に近いと思う。
歴史がこういうものであれば良かったのに、という思いで書かれた歴史では、
教訓も反省も導きだせない。
私はこうした問題に対して、違う視点を導入したらどうなるか、
という提案をしているわけだ。
それは「人間に認識される以前に、物質存在的に確実な物や事がある」
というところから出発する。
それは、以前から述べているように、
外観的には「空中写真で捉えたような世界の姿」、
内容的には「極小粒子とエネルギーで構成された物質存在の世界」であり、
意味的には「無意味な物質存在だけの世界」を指している。