13・事実の3レベル  
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 この章では、「私たちが日常生活で何を事実だと思うか」ということを中心に、
「事実」についてよく考えてみたい。

 私達が普段事実だと思っていることが、やがては過去のものとなり、
歴史になってゆくので、結局は歴史とは何かを考えることにもつながると思う。

私は、「事実」に3段階を設定してみた。

(1)人間の認識に関係なく、それ自体の性質によって存在するもの。

     第2・第3章でいろいろな言い方をしている。
    人間が意味を感じようとしたり、言葉で認識したりしようとするのを、
    意図的にやめてしまった世界。
    物質の性質だけで成り立っている絶対的な世界。

(2)「物質存在的に確実なもの」を人間が認識して言葉で表現したもの。

    例えば目の前にパソコンがあり「目の前にパソコンがある」と表現する。
    それは「事実」。
    しかし目の前にパソコンがないのに「目の前にパソコンがある」と表現した場合、
    それは事実ではない。
    物質的な実態と人間の認識との間に対応があるもの。
    大きな分類で行くと、サイエンスもここに入れられるだろうか。
  
(3)情報システムに支えられた人間の主観的社会的約束事。

    「ある事柄についての共有認識の発生の事実」を前提として、
    社会的強制力を背景に、
    発生した共有認識の相互実現を図るという意味合いにおいて、
    実態との対応がなくても、『事実』として通用しているもの。

    *この3段階は、以下のように言い換えることもできる。
       (1)は、認識主体を想定していない世界。
       (2)は、単体の認識主体と世界、という世界。
       (3)は、多数の認識主体の、相互関係の世界。

   *「実態との対応がなくても、『事実」として通用しているもの」という表現には、多くの異論があるに違いない。
    私もひっかかるのだが、こう言いたくなるような、何かがあるような気がしているわけである。
    

例えば、遠隔地の所有権を登記簿で確認できても、
その人がその地に全く足を踏み入れたこともない。
そういう状況でも、その人がその土地を所有していることは疑いない、というような場合。

この場合、実際には他人がその土地を利用していても、
『事実』は法的証拠のある方だということになる。

これは、「法律」による社会的強制力の共有認識を背景に、
「発生」した所有の共有認識を、相互に実現しようと人が意思するために、
不使用という実態には関係なく、
『事実』として通用するものと考えられる。

あるいは、例えば、会社設立の場合、
ペーパーカンパニーで会社全体に実態がなかった場合でも、
法律では『事実』は成立するだろう。

また、社長とか、首相とか、社会的立場の成立も、行為の実態とは関係なく、
ある時を契機にして法的に発生しているとみなす種類のものだろう。

もちろん、日常の常識では、実態がなければ「事実」とは言わない。
しかしこの(3)レベルの場合、「自由に意思する人間同士の合意」という、
発生部分の特徴を研究する必要がある。

ここで言う情報システムとは、もちろんIT関連ではなく、
人間の脳の認識にたたき込まれた、社会情報の意味構造に対して、
人が共有認識でもって支持している状況を言う。

これで経済の概念を、「事実」として把握する方法ができたような気がするのだ。
為替や株の値動きのように、物質存在的なものがない数字だけの動きでも、
『事実』とすることができる。


このように、自他の脳と、
外側の情報(法律によって権利保証のある登記所の記録や、銀行・証券会社の記録)との間で、
相互に情報処理が行われて初めて、『事実』が人間相互の間で確定する
、らしい。

こういうことを考えると、社会や経済における事実というのは、
随分と情報処理に関わる部分が大きいようだ。

主食の米、エネルギーや化学製品を確保するための石油、
また多くの製品の材料になる鉄、建築物、冷蔵庫やテレビやパソコンなどの電気製品、
自動車や鉄道など、

物量的に空間を占めてしまう「物」はたくさんあるし、その他無数の物や品々がある。
それらと経済に関する情報処理は、どう関係しているのだろう。

それにしても、「目の前に机がある」という『事実』と、
「このパンは100円である」という『事実』の間には、
かなりの距離がある
と思うのだ。
前者はレベル2の事実、後者はレベル3の事実である。

    

「机」は、人間の共有基準に適合する物体を、
その共有基準に適合すると認知した結果、発生した認識である。

しかし「100円」は、物体そのものとは無関係に、
人間相互に通用する価値体系の中の100という水準に妥当と認められたものである。
物体はお菓子でも雑貨でも良い。
先に鈴木氏の「机」の文章で考察したような、人間の側の用途という視点もない。

「100円」という数量が、パンの中に含まれているわけではない。
人間が、日本の通貨発行量の中から、そのレベルと「見なし」ているのである。

これを(1)のレベルの『事実』にもどって考えてみると、
「100円」って、なんて恣意的なんだろうと思うのだ。

       参考:「通貨」については、3章「物質だけの存在感」、9章「社会と情報」、
                        11章「冷戦とマルクス主義」で、それぞれ触れています。


   *「100円」というのは、物質的実在の世界に存在しているわけではない。

    物質的実在の世界においては、100円硬貨は、銅とニッケルの合金であって、
    人間の側から意味を付された模様・記号が刻印されているものである。

    人間が相互に、お互いの通貨価値認識の体系の中で、100という数値に合致すると認めているだけのことで、
    物質としての100円「硬貨」自体は、「ある特定の形状を保った銅とニッケルの合金」、以上のものではない。

    物理や化学の授業を思い出してもらってもいいだろう。
    これらの物質を探求する世界では、「おカネ」は出てこない。では、「おカネ」とは何か?である・

    人間は、硬貨のやりとりにともなって、それぞれの頭の中で、100という数値を、増やしたり減らしたりしている。

    他のところでも触れているはずなのだが、
    かつてマルクス主義でよく引用された「唯物史観の公式」の中に、
    次の一説がある。
      人間の意識がその存在を規定するのではなくて、
      逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。


    しかし、人間の意識なしでは、社会的存在というものはあり得ない。

    社会の中で、比較的、数値化対象になりやすい、従って「自然科学的」?対象とされがちな
    「おカネ」をめぐる一場面ですらそうなのだ。

    だからこの辺で、マルクスは間違っている、と言えるだろう。

   
 あるいはまた、特定の個人には関係なく想定されている社会的地位の概念も、
実在の人より観念の方が先にある。

ここで、人間の認識が先か、物質が先か、という話に戻ってみよう。

 お金や本や机は、人間の認識によって作られたものである。
しかしながら、「人間の認識がそれらを存在させている」わけではない。

 それらがそのような形を維持しているのは、
「それらを構成している物質自体の性質による」のである。

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  『事実』とは何か。
歴史でも社会でも自然科学でも、『事実』は重要な概念だ。
間違いや空想や嘘は困る。
そこで私は、普通に生きている人が感じている『事実』というものの範疇を考えてみた。
しかし最後の(3)は、一体何なんだろうか。
そして、人にはそれが、極めて大切なものみたいだ。