『ものの見方の始めについて』2011.改訂版・2、サイエンス描く世界
2 サイエンス描く世界
〔生きる意味と社会とは何か〕〔 社会認識に至るまでの工程〕〔サイエンス描く社会〕〔般若心経〕
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〔生きる意味と社会とは何か〕
自分の命は儚(はかな)い。
しかしながら、自分はこの世界を知覚する存在として生まれてきた。
正しく世界を認識すること。
それが、他者の益にも通じ、自分が生きる意味にもつながるだろう。
今現在世界は二分されていて、
その対立は、社会をどう捉えるかという問題に、深くかかわっているらしかった。
当時の新聞を賑わしていた、左右の対立というのがそれらしい。
世界は資本主義(自由主義)陣営と社会主義(共産主義)陣営に二分されていて、
日本国内でもこの二つの勢力が争っているらしいのだ。
世の中の喧騒が、ものの見方に起因する部分が大きいならば、
正しい世界像を築くことというのは、私も、やって意味のあることだ。
第一、社会的立場によって世の中は変わって見え、
意見の違いというのは社会的立場の反映である、
なんてことが当時よく言われていたけれども、
基本的には社会はひとつしかないではないか。
そう思って私は、宇宙から眺めるこの地球世界のことを考える。
この地球にはりついて生きている人間の社会が、
いくつもあるなんてことは、あり得ない。
しかし世の中の論調は、社会の捉え方が人によって違うのは、
社会的立場の違いのせいだと言う。
まずは社会的立場を見定めることが、違いを確認する第一歩だなんて言ってる。
資本家の立場なのか、労働者の立場なのか、
富む者の立場なのか、貧しい者の立場なのか、
それを知ることが、社会認識の始めだと言う。
あるいは人の数だけ認識がある、なんて言っている。
しかし私は思う。宇宙から見た地球社会の姿形が、
視覚認知のレベルで立場によって違って見える、なんてことはあり得ない。
もちろん、人によって気付く度合いや理解の仕方は違う。
しかし、地上の世界の光学的反射は、人の目に届くまでは、同じ時点では同じはずである。
たとえば、Aという人がある空中写真を見て、次のBという人に、その写真を渡したとしよう。
そしてAが見て取った事と、Bが見て取った事に、食い違いがあったとする。
これはよくありそうなことだが、しかし、元の空中写真は1枚しかないのである。
その、1枚しかない写真は、人間の認識に関わらず、物質存在としての社会はひとつしかない、
ということを象徴しているようなものである。
(ここが、ある種の哲学議論と私の話とが、逆になる部分なので、
その種の本に出会った時には、気をつけていただきたい)
社会は立場によって違って見える。それが当然だと言う。
しかしこれは、私の世界認識の始めからすると、
一体どういうことなのだろうか。
宇宙的・外観的世界の認識から始めると、
この世上での社会認識の違いというのは、
どのような工程で現れてくるのだろうか。
〔社会認識に至るまでの工程〕
私は、これを分析解明することが、
社会問題の解決に、役に立つのではないかと思っている。
たとえば、テロリストの社会認識は、なぜそうなっているのか。
資本家の社会認識は、なぜそうなっているのか。労働者はなぜそうなのか。
戦争をする国々の相互認識は、なぜそうなっているのか。
ある物が価値が高くて、ある物が価値が低いのはなぜか。
社会的な認識として多くの人が共有している認識と、個人の独自認識は、どこがどう違うのか。
同じ世界に対して、様々な認識が存在するとは、どういうことか。
それはどのように発生して、どのように社会に影響を与えるのか。
物質世界としての地球世界は一つである。
そこから、様々な対立を含む社会認識が生れてくる。
その発生の工程についての話なんか、聞いたことがない。
自由主義は正しい。資本主義は正しい。
共産主義は正しい。社会主義は正しい。
どちらが正しいかの話ばかりで、そういう状況は、なぜそうなっているのか、
という全体の説明はなかった。
どうして誰もそのような説明をしてくれないのだろう。
自分の出発点は誰もが知っていることだったから、
どうして誰もそれを疑問に思わないのかと思った。
誰も疑問に思わないのなら、自分で考えるしかない。
世の中の混乱が認識方法にかかわるものなら、
認識方法についてのこの自分の疑問を探究することは、
それなりに世の中にとっても意味があるだろう。
何より自分が、それを知りたいのだ。
それを知ることができれば、あのおろかな戦争と悲惨の意味を
知ることができそうな気がする。
人はなぜ生きるのか。死ぬ時はもろくも死ぬものであるのに、なぜ生きるのか。
私はその疑問の延長線上で、人が生きる社会というものを捉え、
人を困惑させ、混乱させ、振り回す、社会とは何かと考えていた。
社会が何であるのかわかったら、自分が生きた意味がわかるような気がした。
このように私は、自分がやらなければならないことを正しい世界認識だと考えたのである。
漠然とだが、自分が感じている考え方の枠組みが、どこにもないようなのが疑問だった。
またそれが、追求の必要性があると感じ、自分が生きた意味になると感じた、原因でもあった。
〔サイエンス描く世界〕
私にとって、誰もが認める明確な自然観というのは、強力な拠り所に思えた。
長い長い宇宙的な時間や、出現して時わずかな人類、地球をとりまく宇宙環境、
地球の形状等、世界史というものの自然的環境がまず大事だった。
これがつまり、宇宙空間に浮かぶ地球上の、物質現象として世界史をとらえることの、
基本だった。
宇宙全体の組成を極小粒子とエネルギーとして捉えなおす方法があるように、
地球という生命を含む物質圏の組成を、極小粒子とエネルギーとして捉えてみる。
人体も根本的にはこれらでできていて、原子核と電子の動きが刻一刻時を刻むように、
地球上の歴史も原子の動きで表現されうる、自然科学的には。
これは、通常の世界史とは、相当異なる見方を私に提供したと思う。
よく言われるように、高校で勉強する世界史は、西洋中心の見方で捉えられたものである。
これには、特に辺境地帯などというものは、スッポリ脱落している。
しかし、地球上の物質組成としては、これら地域が脱落しては、物質現象が成り立たない。
だから、私の世界観の中では「考え方としてだけ」ではあるけれども、
辺境も自動的に同じ比重で登場してくるはずなのだった。
そのために私の中では、高校世界史は、
そのような全地球規模の基盤的な物質世界認識の中から、
「選択された記述」というイメージなのだった。
地球世界を構成している極小粒子とエネルギーの世界を、
もう少し日常に近づけるために、
原子核と電子でできた「原子」のレベルの世界で考えることにしてみよう。
以下のような話は、科学では基本的な話だが、人文科学では、全く出てこない。
人文科学で原子と言うと、科学とは全く別の意味になる。
それは、哲学史上における「万物の最小単位」という意味になり、
それが転じて、個人を社会の最小単位として捉えることの意味となり、
それを原子論的個人主義、などと言ったりする。
つまり、この場合の「原子」は、一人の人間が、1個の原子だと、言っているのだ。
人文科学で言う原子の話は、以下のような科学の話とは、全く無縁の世界である。
だから私は、改めて科学の中の原子を説明するのである。
原子の種類は百数種類。その性質は、その原子が持っている電子の数で決まる。
原子の大きさについて少し考えてみる。
直径10センチのボールを地球の大きさに拡大したとき、
ボールを構成する物質の 原子は1センチ。
原子の大きさを「直径100メートルの球」とすると、
中央にある「原子核は1セ ンチ」、
その100メートルの球の中を回る「電子の大きさは1ミリ」である。
もちろん球というのは、大きさについてわかりやすくするために譬えたものである。
実際の原子は、「1センチの原子核」と、
100メートル範囲を回る1ないし複数個の「1ミリの電子」しかない。
このように物質を形成する原子は、実はほとんど何もないのだ。
100メートル範囲を、
1ないし複数個の「1ミリの電子」が猛運動しているのを、想像してみよう。
その猛スピードで運動する電子が作る運動エリアの中は、
広大な空間が広がるばかりに見えないか。
地球世界は、そのような原子で形成されている。
では人は、なぜそのような空間を認識できないのか。
「人」が、原子に比べると、巨大に過ぎるからである。
地球世界を、基本は原子核と電子など、極小粒子で構成されたものとして捉えるとしよう。
水素は原子核1個と電子1個、炭素は原子核1個と電子6個。
酸素は原子核1個と電子8個、鉄は原子核1個と電子26個、
そこで自分が電子の大きさに縮んだとしたら、周囲には、
原子核と電子、その他の極小粒子しか見えないことになるだろう。
なぜなら電子から見たら、自分以外には、
原子核と電子と極小粒子とエネルギーなどしかないからである。
水もなければ空気もなく、人もなければ家もなく、木も草も虫もない。
すべての物は確実に存在するけれども、
「自分が電子の大きさに縮んだとしたら、」
人間の体で何気なく認識するものは、何もないのだ。
電子の立場で見る。「自分が電子の大きさに縮んだとしたら、」と考えてみる。
これは、人間の認識に関係なく、物質自体の性質で存在する世界を、よく想起させる、
と思って考えたことである。
科学では普通こういう考え方はしない。
しかしながら、科学ではない、とも言えないだろう。
生物としての体を持つ自分。その体も、莫大な数の原子の集まりである。
人体は膨大な数の細胞の集まりだが、その細胞はまた、膨大な数の分子の集まりであり、
その分子は、さらに原子の集まりである。
人体がそのようなもので、水も空気も木も草も、地球にあるものすべてがそのようなものならば、
自分は、土から作られ土にもどる、無意味な存在のようでもあり、
仏教が説く色即是空のようでもあった。
でも何もないなんて、現に生きて活動している自分の感覚にはあまりにも遠くて、
現実生活にはそぐわない。
自分には水素と酸素の違いは大きいし、水も空気も人も木も、全部あるのだから。
人間の体を持つ自分にとって、何かが「ある」とはどういうことか。
たとえば、自分にとって、水や空気が「ある」、ということは、極めて重要なことである。
これを、原子のレベルで考えることなど、日常生活ではほとんど無意味である。
人間にとって、水は水である。のどの渇きを癒す、絶対必要なものである。空気もしかり。
考える余地のない、必須のものだ。命の必要からである。
しかし、これが物質同士なら、どういう関係になるだろうか。
電子の数が違うというほかには、圧倒的に共通項ばかりの水素と酸素の間で、
お互いに区別しなければならないことなんてない。
物質というのは、物質自体の性質で結合分離するだけで、
「自分がどうなる」なんて、全くおかまいなしだ。
水素と酸素とでは性質がおおいに違い、その中の組成物である電子の行動も、
水素と酸素とでは違うけれども、
究極的には「自分」(つまり、電子とか原子核とか原子)を維持保護するような、
意思的なものは全くない。当然のことながら。
しかし生きている体を持っている私には、水素と酸素では、生きるか死ぬかの違いである。
水も空気も、人体の必要性にかかわる連想と強く結びついている。
こうしたことから私は、自分の周囲についての認識は、
生体維持の感覚を無視できないと感じた。
生命維持のためには、物質はどうしても必要である。
自分は膨大な数の細胞の集合体であるが、酸素を取り込んでは二酸化炭素を排出し、
あるいは飲食物を取ることによって生命維持に必要な成分を取り込み、
あるいはエネルギーに変換しては活動している。
非常に細分化された、たとえば細胞レベルで考えれば、
どのようにして生命を維持するのかということは、人間の認識には関係ない。
また「酸素がなければ生きられないから呼吸する」なんてことは、
考えてすることではないし、「心臓を動かさなければ体に血が回らないから心臓を動かす」
なんてことも、考えることではない。
自分の認識には関係なく、生体生成の自然のなせるわざによって生きている
という側面を考えれば、人間は自然の一部であることは間違いないだろう。
しかしそれでは「人間は地球の表面で生成消滅している」で終わってしまうではないか。
たしかにそれも一つの側面ではあるが、しかし、では一体、
自分が取り囲まれている世間の喧騒は、何なんだろう。
学生運動も騒がしい頃だった。政治での左右対立も激しかった。
冷戦と称する核武装による二極対立も顕著なままだ。
富裕層と貧乏人がいて、地位と名誉と富を手にするのが世間的成功だと言われている、
そういう世の中だった。これらは一体何なんだろう。
それに自分は歴史をたどって自分の存在意義を見いだしたかったのだ。
こういう世界では、歴史はどこにあるのだろう。
〔『般若心経』〕
高校当時の私には、何もかもが空しく感じられた。
何か自分の世界認識に役立つものはないだろうか。
宗教の世界観に学ぶものはあるだろうか。
生家は仏教だったが、高校で思想として知る仏教や実生活で知る仏教というのは、
世界観には無縁だった。
しかし、仏教で世界観を考える人々もいる、というような話を聞いた。
仏教と物理には共通するものがあると感じる人もいる、と。
仏教にもいろいろある。ここで言う仏教が何であるのかさっぱりわからなかったが、
とりあえず、手に取ることができる本があった。それが岩波文庫の『般若心経』である。
読んでみたが、実に奇妙な、違和感だらけの文章だった。
「色は空に異ならず。
色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。
受想行識もまたかくのごとし。
舎利子(弟子のひとり)よ。
この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、
この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、
眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も触も法もなし。
眼界もなく、乃至、意識界もなし。
無明もなく、また無明の尽くることもなし。
苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。」
訳はこうなっている。
「この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、
汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それ故にシャーリプトラよ。実体がないという立場においては、物質的現象もなく
感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。
眼もなく、耳もなく、鼻もなく舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、
香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。
眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
迷いもなく、迷いがなくなることもない。
こうしてついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。
知ることもなく、得るところもない。」
この訳の妥当性を検討する方法など私には全くない。
だから、この訳をどう読むのかについても、さっぱりわからない。
しかしとにかく高校生の私は、この文章の中で理解できる部分を、
上記のような、サイエンスから得た知識と重ねていたのだった。
この文章の中で、日常感覚からして最も違和感のある所と言えば、
眼もなく耳もなく鼻もなく舌もなく、身体もなく心もなく形もない、という所だろう。
それを私は、こんな風に感じた。
死ねば確かに何もかも消える。あると思っているものはなくなる。
しかし、体を構成していた物質は、消えるわけではなく、
物質として、水素や炭素やエネルギーに還元されて存在し続ける。
このように、何もないけれども、あり続ける世界というものを考えたのだった。
また、原子核や電子などと、エネルギーなどによる世界において、
自分が電子であったなら見るであろう、
確実に存在しているけれども、人間の感覚では「ある」とは言えない、
巨大な「無」の世界の有りようを考えたのだった。
そして、確実に存在するけれども、
『般若心経』が言う、すべてが「無い」とはどういうことかと、
その内容について、上記のように、
自分を電子に見立てた世界で、自分流に理解したのである。