3、物質だけの存在感
〔父の戦時中の体験〕〔空中写真〕〔サイエンスが言う、人体を巡る物質関係〕
〔宇宙の始めは物質〕〔物質関係の中の自分の生活〕〔黒板の文字〕〔お金〕〔ことば〕
〔再度「無意味な物質世界」について〕
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高校時代の私の着想で重要なのは、
社会を無意味な物質だけの存在感で捉える思考法、
人間の認識に対する言語の重要性、だと思う。
社会を無意味な物質だけの存在感で捉えるという着想の背景にあるのは、
もちろん唯物論的な思考があるのは言うまでもないが、
「空中写真」から来る発想も見逃せない。
それは、祖母が教えた「点より小さな家」というイメージと、
相互に補完する役割をになったものである。
〔父の戦時中の体験〕
私の空中写真の体験を語るとき、父の影響を無視することはできない。
私の場合、父が空中写真に興味を示したのだ。
それは、大規模建設現場の確認のためというような、何かの経済目的を持ったものではなく、
郷里の空撮であって、あたかも自分たちを上空から見たらどのように見えるか、
ということが目的であるかのようだった。
父と空撮との最初の記憶は以下のようなものである。
私が小学校入学前後に、校庭で人文字を作った。
そしてそれを空撮したのを手に入れる機会があった。
その空撮の写真を見て、父が衝撃を受けていた記憶があるのだ。
航空写真を再々買うことになったのは、それ以来だったような気がする。
私の父は、過去に戦闘員として特異な戦争体験を持っていた。
戦争末期、3人乗りの特殊潜航艇乗員として、
沖縄で約150人の部隊に配属されていたのだ。
3月23日に始まったアメリカ爆撃機の空襲は、日本軍の施設や人員に対し、
ほとんど反撃の余地なく的確に甚大な打撃を与えた。
父の出撃3回。間断のない空爆に、特殊潜航艇基地も潰滅的な打撃を受け、
米軍北上部隊が近づきつつあった。
父達はやむを得ず陸戦に移行したが、戦友は次々に戦死、やがて食料弾薬も尽き、
部隊解散となった。その時上官は言ったそうだ。
「成し得れば沖縄を脱出し、本土決戦に備えよ」と。
山中での劣悪な環境、山狩りとの戦い。
死闘の中、8月の始めに、浜に埋もれていた石灰運搬用の曳船を発見。
それをきっかけに父たちは、アリのはい出る隙間もない沖縄から、脱出を試みた。
山中で切った帆柱、敵の通信線と陸軍の持っていた毛布で帆をつくり、オールも作った。
そして海軍特潜艇部隊残存者7名、山中で一緒になった陸軍15名で、
米艦艇が多数停泊している港から、闇夜に脱出を試みたのだそうだ。
うようよしている敵艦艇の間をこぎ抜けるのは不可能に近く見える。
港を抜けるのに5時間。夜明が迫る。
絶望的だ、と、自決用の手榴弾をまさぐる内に、奇跡的に台風が襲ってきた。
こうして強風に煽られて港からは遠ざかったものの、制御できなくなった船で一週間、
水食料のないまま漂流、機銃掃射にもさらされて死者を出しつつ、
終戦を過ぎて米軍に救助された。
父はそういう経歴の持ち主だった。
空中写真が、父の沖縄での、設営した基地や艇が猛爆にさらされた戦時中の体験に、
たぶん強く関係があるのだろうというのは、
顔色を変えた父の様子の、おぼろげな記憶のせいもある。
つまり空中写真の再々の購入は、爆撃前にやってくる米軍の偵察機、
その後にやってくる爆撃機の大群、その施設を狙う的確さが、空中写真のせいだと気付き、
その威力にこだわりがあったからではないかと思うのだ。
〔空中写真〕
空中写真の画期的利用の始めは、第1次世界大戦のドイツの軍事利用だったらしい。
地面を垂直に、しかも連続的に写してゆく自動式の航空カメラの登場である。
戦場での空中写真からは、貴重な軍事情報が得られることがわかった。
すぐに連合軍も真似をした。
しかし日本では、写真情報に対する軍首脳部の考え方は今ひとつだったらしい。
戦争が長期化するにつれ、空中偵察の実力の差は開いていった。
沖縄戦では、米軍によって空中写真が大量に撮影され、
海上特攻兵器や神風特攻隊の飛行機も、これらの写真判読によって発見されていた。
こうした情報は、西尾元充著『空中写真の世界』中公新書(1969年刊)による。
兄に確認したところによれば、この本は父が買ったものらしい。
だから、父としては、昭和44年以降に手にした情報ということになる。
この本は、日本軍の空中写真の利用が、戦前から存在していたことも語っている。
しかしそれは、どの程度知られた事実であったのか、それが非常に疑問である。
私としては、父は戦後になって軍事利用の空中写真のことを知ったような気がしている。
そう、小学校での人文字空撮を見た瞬間に、初めて気がついたのではないかと思うのだ。
はるか上空を舞う偵察機が、事前に空中写真で、
日本軍の施設を的確に把握していたに違いないと気がついたのは、
おそらく戦後だろうと思う。
なぜなら父達の行動の記録の中では、
偵察機に対して、どういう意識で警戒するべきかという、
具体的な内容に、全く言及していないからである。
(参考:佐野大和著『特殊潜行艇』図書出版社1975年) 父と特殊潜航艇
日本でも、航空部隊では海外から導入された空撮の軍事利用が存在しているのに、
敵国の空撮に対する警戒情報が、軍内部で共有されていないとはどういうことか。
これが本当だったら、軍内部の情報の共有としては、致命的にお粗末な話だと思う。
制空権を失った時から、相当の情報が握られているのに、
地上で一生懸命反撃の準備をしているなんて、具の骨頂ではないだろうか。
ともあれ、郷里の空中写真は、私にとっては、
社会が物質だけの存在感だと、こんな風に見える、
という、一例を提供してくれるものだった。
そこには、日常的に人が思っているような、社会の上下や仕組みなど何も見えない。
「普通」の空中写真の利用法というのは、あらゆる知識を動員して、
そのむきだしの物質だけの世界に「人間の考えの痕跡を読む」、
「人間の利用法を読む」というものが多い。
しかし私は、「社会が物質だけならどのように見えるのか」ということを、
方法的に突き詰めて考えてみたかった。
〔サイエンスが言う、人体を巡る物質関係〕
その私にとっては、個々の人間を取り巻く物質関係というのは、
物質に常に取り囲まれているということだった。
酸素や窒素の混合物である空気、水、炭水化物やたんぱく質やミネラルなどの食物、
あるいは光、気温、気圧、重力、等々の物理的要素。
一人一人の人間の体が、そういう物質の環境の中で、
いかに精緻な仕組みでもって生命を維持しているか。
そういうことが、私にとっての物質関係だった。
「物質」という言葉の扱いには苦慮する。
ただ物質と言えば、物質問題という言葉から連想して、
経済価値のある物、という意味が含まれることがあった。
マルクス主義が盛んだった頃、いくら話しても、
社会における物質問題となると、お金の話にしかならなかった。
自然科学で言う物質、と説明すると、それは社会には関係のない無駄話、
といった感じで、全く取り合ってもらえない。
逆に科学物質と言えば、人間が自然から抽出した、
あるがままでは存在しない物質、の意味が強くなる。
それもまた、どこが社会に関係するのか、全く論外、というわけで
取り合ってもらえない。
こういう問題があるのだということを理解した上で、
私が使っている「物質」という言葉の意味について、
個々に模索しつつ目を通していただければありがたいと思う。
私の言う「物質」については、近年の広辞苑の「物質」の項目は、以前よりは参考になる。
@
A
B
しかしこれだと、逆に、かつての「物質」という言葉を巡る混乱が、説明できないくらいだ。
〔宇宙の始めは物質〕
宇宙の始めは物質だけだったらしい。
そこから発生してきた生命だって、物質による組成なのだから物質だろう。
大きなまとまりとなって保存や維持の行動を取り、
あるいは自分と共通した組織を持つものを残して増やすという行動をするが、
その生命維持のためには物質が必要不可欠である。
生命が何かを考えようとするなら、物質の部分を確認しなければならないような気がした。
当時はマルクス主義も流行していて、
私が言っている科学物質的な世界とは全く別の、
経済問題を物質問題とする考え方が強い力を持っていた。
このマルクス主義が唯物論だと言われているのは知っていたが、
自分が考えているような形での、
宇宙から見た地球世界という、サイエンス風唯物論には遠かった。
宇宙の始めは物質である。この点ではマルクス主義と私は同じらしかった。
しかし、そこから現代社会に至るまでの間で、
私が考えているようなことに、全く言及していないみたいなのが、不思議だった。
たとえば宇宙創成から地球の誕生、人類の誕生から文明の発祥という、
宇宙的物質創成の中の歴史、
地球が「現在も」そうした宇宙的物質創成の時の流れの中にある物質的な系であること、
など、マルクス主義は語らない。
途中から、つまり人類の歴史が始まった時点から、
それは人間相互の間の、
有用物質の生産・分配・所有という側面で、自然科学と同様の法則がある、
という話に変容するように思われるのだ。
しかし私は、今現在の物質世界を考えている。
どうしてこれをなおざりにできようか。自分としてはできない。
だから、というわけで、私は自分の思考過程にこだわっていた。
田舎にはマルクス主義をさらに知る本などなかった。
唯物論という名前は気にしていたが、私の世界では、一向に、
経済の話までには、届きそうになかった。
だから、マルクス主義が言う、経済問題が物質問題であるという風になるまでに、
どうにかして、自分の思考過程と接点が生まれるのかなぁ、くらいの思いだった。
高校時代は、マルクス主義が自分にかかわってくるなどとは、夢にも思わなかった。
第一、自分が考えていることが、
唯物論を標榜する政治的左派の考え方に全く存在しないなんて、
そういうことだって、考えてみたこともなかったのだ。
〔物質関係の中の自分の生活〕
こうした世界で、自分が生きているとはどういうことか、と考えを進める。
空気中の酸素を吸って生きている自分。
自然世界で育まれたものを食べて生きている自分。
自然の荒々しさから生活を守るために家を建て、
寒暖から身を守るために衣服を身にまとう。
直接人体に係わる生命維持のための物質は、酸素以外は、
多くの人の手を経ながら、この地球世界の地上で調達しているようだ。
(この段階では、お金の必要性は認識していなかった。
お金と交換して手に入れているというよりは、
必要な品物・素材が、どのようにこの地上で調達されているか
ということに関心があった。)
それにしてもこうした衣食住はともかく、自分の毎日の行動で非常に大きなもの、
「学校へ行く」というのは何なんだろう。
これは自分にとっては半ば強制的とも思われる、必要行動だった。
しかし「生きる」ことに何の関係があるのか。
生命維持活動を基準に考えると、すぐにはわからないではないか。
〔黒板の文字〕
毎日黒板の板書を見ては、勉強している。
勉強は、生命維持の物質関係には関係ないみたいだった。
つまり呼吸して体内に必要な酸素を取り入れるとか、
取り入れた食べ物を消化吸収して体を作ったりエネルギーに変えたりするとか、
重力が骨を作るのに関係しているとか、
衣服が体温を適切に保つのに効果があるとか、
そのような意味では、勉強は生命維持に関係ない。
しかし自分も他人も、やけに重大そうに時間を割いて取り組んでいるではないか。
黒板の文字を見る。身体と黒板の文字との間に、何か物質関係があるだろうか。
光は、文字の部分と背景の黒板とでは、反射する波長が違う。
そこで、人間の目は、その波長の違いを区別して認識する。
普通はここで「人間の目が文字を認識する」と結論するところなのだろうが、
私はそうは思わなかった。
何しろ私の世界では、人体も含めてすべてが極小粒子とエネルギーなのであって、
意味の拠り所がないのだ。
白墨の粉で書かれた線。自分が電子の大きさなら、それはどのように見えるのか。
たとえばミリ単位の点でも、原子だと巨大な集まりになる。
文字の形というのは、人間の目の解像度の大きさに合うものであって、
初めて形として捉えられるのである。
電子の大きさである自分から見たら、白墨で書かれた文字の形など、
巨大すぎて意味がない。
つまり私は、以下のように思ったのだ。
原子核の周囲100メートル範囲を運動する1ミリの電子から見たら、
(ここで時間を限りなくゼロに収斂したとしたら)
白墨で書かれた文字というのは、原子や分子が、
はるかかなたに漠々と広がる世界であろう。
そこでは、文字の形など、意味がない。
人間である私は文字を知っているが、これが電子だったら、
人間が文字だと感じている形は、意味のない分子の層である。
黒板の上にアリがいたとしても、文字を知らないアリは、文字に意味を感じないだろう。
それと同じようなものである。
もともとは単なる物質存在であって意味がない「白墨の線」を、
物質でできた体を持つ人間が、目で見ている。
見ている方の人体は、膨大な数の細胞の集合体であり、
目はその中の視覚をつかさどる器官であり、
膨大な数の細胞の集合体であり、
膨大な数の原子や分子で構成されている物質でもある。
その人体のセンサーである「目」が、反射する光の波長の違いを捉えた。
こうして文字の形を捉えたけれども、目は、そのままでは文字の形に意味を読むことはない。
単に光の波長の違いから「形」を捉えているだけである。
それが、光を媒介とした「白墨線」と「目」の間にある物質関係の全体である。
生きるのに必要なもの、人体に危険なものとなると、
生体反応による感覚が動きだすような気がするのだが、
「白墨線」と「目」の間では、生体反応による感覚など関係がない。
こうして私の世界の物質関係のレベルでは、
「学校で黒板の文字を見る」という行為の意味が理解できないことになってしまったのだった。
何と言っても学校では、「脳」の話が、「理科」ではほとんど出てこない。
そのせいか、この段階では「脳」の働きに思いが及ばなかった。
また、高校の倫理の資料集の、唯物論に関する話を読んでみても、
文字を読む行為を、唯物論でどうやって理解するのか、となると、説明がなかった。
経済の話はあったけれど。
しかしながら、思考を転じて日常に戻れば、ちゃんと黒板の文字を読んで勉強している。
自分の唯物論的思考展開では、文字を読むという行為は、理解不能で考え中なのに、
日常生活は普段の通りに進行しているのだ。
私の中では、世界が二分裂したような状態であった。
「意味のない世界」と、「意味のある世界」に、である。
〔お金〕
私の思考のキーワードは「無意味な物質」だった。
自分の生命維持活動や行動にとって、即自分の肉体に役立つレベルのものは、
簡単に「物質」として捉えることができた。
机も自転車もテレビも衣服も食べ物も、この点では簡単だった。
こうしてさらに日常生活を「物質」として捉えることに心を砕いていると、
また奇妙な物にぶつかった。お金である。
お金は非常に怪しげに思えた。「即、自分の肉体に役立つ」物質とは思えない。
パンが必要な時、丸い金属を出して、代わりにそれを受け取る。
これは何をしているのか。
そして、硬貨やお札の混じっているサイフのことを考えた。
アルミや銅や亜鉛や銀の混じった丸いそれぞれの金属と、模様や大きさの違うそれぞれの紙。
これらの物質としての存在感と、日常感覚での価値の感覚を比べてみた。
どうしてこれらの物質は、「1」「5」「10」「100」「500」、「1000」「5000」「10000」
なのだろうか。
どうも、物質としての違いよりも、別のことの違いの方が大きな意味があるようだ。
その違いとは、お金に表示してある金額らしかった。
物質存在としての紙幣の種類に、どれほどの差があるというのだろう。
それなのに1万円札と千円札では10倍違う。
あるいは10円玉と1万円札。
数字も人間の文化様式も知らない「猿」にとって、
物質としての存在感は、どちらに軍配が上がるだろう。
その結果はともかく、人間にとっての存在感が千倍の違いだなんて、
全然わからないのではないだろうか。
はたしてこのようなお金は、「物質」だろうか。
マルクス主義では、経済、つまりお金の問題を、物質問題と呼んでいるのはわかっていた。
そして自分は「物質」をキーワードに物質関係を追ってきたつもりなのだ。
ところが、自分が考えている物質関係とは次元の違う問題が、
肝心なお金のところで発生しているようなのに引っ掛かった。
こうして私は、文字とお金という、この二点で疑問を抱えたままになる。
〔ことば〕
そんな時に、鈴木孝夫氏の『ことばと文化』(岩波新書)の「ものとことば」の章
に出会って、そうか、人間の認識には言葉が重要なのだ、と、思いを致すことになる。
詳しいことは次の章で紹介することにするが、
それを元にして私が考えたことを、以下に簡単に述べる。
生まれたての人間にとって、言葉は外からやってくるものだ。
そして言葉は、人間の脳の中に定着し、外界を認識する際に大きな役割を果たす。
目で見たものを、既に脳の中にある言葉で捉えているのだ。−−−と。
〔再度「無意味な物質世界」について〕
無意味な物質世界というのは、人間の視点による整理などとは全く無関係に、
存在は存在なのだ、という意味で使っている。
例えばこの世界を、原子核や電子でできた原子、
あるいはクォークと呼ばれるさらに小さな粒子やエネルギーという細分化された世界として、
その存在の姿だけで捉えなおしてみたとしよう。
その時には、原子・分子という概念も、液体・固体・気体という概念も、
また結晶・結合・原子の並びという概念も、
人間の視点で整理したものなのである。
極小粒子とエネルギーだけの存在のレベルで、
そのような人間の視点による整理を意図的に排して、存在の仕方だけに思いを致す。
「素粒子といわれる存在レベルの世界」にまで意識をたどりつかせつつ、
つまり自分が素粒子の大きさになることを想像してみて、
そこから遡って、科学の世界や日常の世界で人間が普通に考えることに思いを致す。
そういう思考経過の中では、原点である「存在だけの世界」というものには、
およそ意味というものがない。
自分が素粒子や電子になって「存在だけの世界」を運動し続けるなら、
人間が考える意味など、存在のしようがない。
こうして、人間が分類・整理に便利として考えた、
考え方・とらえ方の枠組みを全部はずして、
存在しているものだけの存在の仕方に思いを致す。
そうすると、物質世界は基本的には無意味である、と、表現してもいいと思うのだ。
私の場合、存在の仕方に思いを致すには、科学の知識を使わねばならない。
物質存在の様々なレベルについて考えてみるためには、科学の知識を使っている。
例えば原子核を構成するクォークと呼ばれるさらに小さな物質のレベル、
原子のレベル、分子のレベル、さらにさらに、段々大きなレベルへと、
視点移動が可能である。
しかしこれらは科学のモデルを使って考えているのであって、
現実の目の前の本や机や、自分の体がどのような構成になっているのかというのは、
直接調べてみたわけではないので、本当は、
科学ではわかったとは「言わない!」分野の問題なのだ。
しかし、だからと言って、目の前の本や机や、あるいは自分の体が、
原子核と電子では「できていない」と考えることは、
科学だろうか。いや、これも科学とは言えないだろう。
原子のモデルも、原子核と電子によるモデルがあるにはあるが、
それらがよくあるモデルのように、丸い粒のようなものかどうかは、
わかっているわけではない。(電子はひも状だとする理論、なんてものもあるらしい。)
このように科学のモデルを使って「存在」について考えはしても、
人間の視点設定と「存在」の姿の本当のありようとは、
まだまだかなり食い違っている可能性がある。
それでも、人間とは何か、物質とは何か、存在とは何かと考えるのに、
科学を使わずにはいられない。
人間の視点を取り外し、物質の存在の仕方の性質のみによって、
この世界が「在る」、そのありようを考えるのに、
私の場合は、科学の知識は一役も二役も買っているのだ。