4、ものとことば  
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空中写真の世界は、社会の物質感を映し出すのに、優れていると思う。

しかしながら、宇宙から地球社会を物質の存在感だけで考え、
また、自分の生活を物質の存在感だけで考えていると、
実際のところ、自分の日常は、さっぱり見えない。

宇宙から物質としての存在感だけで人生を考えると、
生まれた人は、だんだん成長し、動き回り、やがて年をとって死に至る、
そんな風にしか見えないのではないだろうか。
それが、空中写真の世界の、もたらすイメージではないだろうか。

では、私たちが普通に感じる社会、学校とか会社とか職業とか、
お金持ちとか貧乏人とか、社会関係の上下とか、
どこの誰とか、あれは何であるかとか、

こういう、社会には普通にあると思われている、いろいろな物や事は、
どういう「在りかた」なのだろうか。

そういう疑問を抱えている時、私は、
鈴木孝夫『ことばと文化』(岩波新書)の、「ものとことば」の章に出会ったのであった。

そのとたん、私は、日常生活の要(かなめ)は「ことば」なのだと、直観した。

私がこの本の「ものとことば」の文章を読んだのは高三の冬だ。
受験の最中に、ふと目に止まった文章だった。

まずは自然科学の大枠を大事にし、物質の存在感だけだと世界はどうなるか、
と考えた私だったが、日常生活ではそっくり普段のままだったから、
連絡のない二つの世界を抱えているようなものだった。

 これまで考えてきたように、片方では無意味な世界が考えられる。
しかしもう一方では、意味がないと、全く生きていけない。

  第一、机がなかったら、
つまり机という認識がこの世界に存在しなかったら、手が置けない。
同じく、椅子という認識がこの世界に存在しなかったら、座れない。
また水という認識がこの世界に存在しなかったら、喉をうるおすこともできない。
生命維持のためには、身体維持の必要に応える物の意味は、どうしても必要だ。

 自分が原子の塊だったら、床や壁に同化できるか?そんなことはない。
机に手を置くと手は机の中に消えるか?そんなことはない。
自分は周囲に対して存在しているのだ。

また目がない、というようなことでは、とても不便だった。口がないのも困る。
手や足も、なくては具合が悪い。

 かくして世界は空(くう)のようであるけれども、基本的には自分の体を基点にして、
物は「在る」と考えないと、自分が生きていけないのであった。

 生きていけない。これは大変なことだった。
こんなおかしな想念はさっさと振り捨てて、日常に戻らなければ。
−−−こうして日常に戻ってくると、ごく普通に暮らせるのだ。

 しかし無意味な世界という想念が、間違っているはずもない。
ごく普通の自然科学の知識を使って組み立てただけの話だ。
みんな知っていることだった。どうしてこんな二つの世界ができてしまったのだろう。
そしてどうして誰も不思議に思わないのだろう。

  古今の哲学の概説を高校の資料集でたどっても、全然関係なさそうだった。
こんな不思議なことが、哲学のテーマにならないはずがない。
とても大きな問題のような気がする。
しかし、無意味な世界から意味が発生する状況について考えた話など、
全く存在しなかった。

 そういう疑問を抱えたままの私にとって、
鈴木氏の文章は、私にとっては、自然科学の世界と人間の世界の、
境界線上を行くように感じられた。

私が他のどこにも見つけることのできなかった、物質存在だけの無意味な世界を、
私は鈴木氏の文章の中に見つけることができた。
そしてそこには、意味の発生について示唆するものがあったのである。

    (ただし、鈴木氏ご自身は「物質存在だけの世界」なんてことには
    全く無頓着のように見えた。

    それよりも「ことば」の働きというものに極めて強烈な関心をお持ちで、
    「言葉がものをあらしめるのだ」とまで言っておられた。
    この言辞が、当時の唯物論盛んなご時勢で、物議を醸した方でもあった。

    つまり鈴木氏は、「まずは物質がある」と思う私の考えとは、全く逆らしかったのだ。
    しかし私は自分の関心から、その文章に非常に感銘を受けたのだった。)

では、少し長いけれども、鈴木孝夫氏の本から、「机とは何か」と言う部分を引用してみよう。

  「にはでできたのも、のもある。
  夏の庭ではガラス製の机も見かけるし、公園には、コンクリートのものさえある。

  脚の数もまちまちだ。第一私がいま使っている机には脚がない。
  壁に板がはめ込んであって、造りつけになっている。

  また一本足の机があるかと思えば、会議用の机のように何本もあるのも見かける。

  も、四角、円形は普通だし、部屋の隅で花びんなどを置く三角のものもある。
  高さは日本間で座って使う低いものから、椅子用の高いものまでいろいろと違う。

  こう考えてみると、机を形態、素材、色彩、大きさ、脚の有無及び数といった
  外見的具体的な特徴から定義することは、殆ど不可能
であることが分かってくる。

  そこで机とは何かといえば、
  「人がその上で何かをするために利用できる平面を確保してくれるもの」
  とでも言う他はあるまい。

  ただ生活の必要上、常時そのような平面を、特定の場所で確保する必要と、
  商品として製作するためのいろいろな制限が、

  ある特定の時代の、特定の国における机を、ほぼある一定の範囲での
  形や大きさ、材質などに決定しているにすぎない。

  だが、人がその上で何かをする平面はすべて机かといえば、必ずしもそうでない。

  たとえば棚は、いま述べた机とほぼ同じ定義があてはまる。
  家の床も、その上で人が何かをするという意味では同じである。

  そこで机を棚や床から区別するために、
  「その前で人がある程度の時間、座るか立止まるかして、その上で何かをする、
  床と離れている平面」

  とでも言わなければならない。

  注意してほしいことは、この長たらしい定義の内で、人間側の要素
  つまり、そこにあるものに対する利用目的とか、
  人との相対的位置といった条件が大切なのであって、

  そこに素材として、人間の外側に存在するものの持つ多くの性質は、
  ことばで表されるものを決定する要因にはなっていない

  ということである。

  人間の視点を離れて、たとえば室内に飼われている猿や犬の目から見れば、
  ある種の棚と、机と、椅子の区別は理解できないだろう。

  机というものをあらしめているのは、全く人間に特有な観点であり、
  そこに机というものがあるように私たちが思うのは、ことばの力によるのである。」(P32)

  「ことばというものは、混沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、
  人間の見地から、人間にとって有意義と思われる仕方で、虚構の文節を与え、
  そして分類する働きを担っている。

  言語とは絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区分された、
  ものやことの集合であるかのような姿の下に、
  人間に提示して見せる虚構性を本質的に持っている
のである。」(P34)

私には、最後の方の「混沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界」
「絶えず生成し、常に流動している世界」という表現が、
自分の「物質の存在感だけで捉えた世界」に重なって見えたのだ。

私はそもそも、原子や分子の構造、結合の仕方や並び方、疎密、運動の性質、空間
とエネルギーなど、物質世界の存在の仕方から考えて、
自分の意識から意図的に人間が考えた意味というものを取り去ろうとした。
科学の認識枠を使いつつ、科学の枠組みをはずして物質存在だけの世界に迫ろうとした。

その自分の考え方は、
「人間の認識は言葉によるものである」
「言語がなかったら、人間は存在する世界を認識したとは言えない」という、
言葉の必要を説く世界とは逆である。

しかしその自分が考えた、「言葉がない世界」についての表現が、鈴木氏の文章では、
「混沌・連続・生成・流動」というような形で出てきているように思われた。

人間が分類整理しなければ、確実に存在するものであっても、把握の方法がない。

たとえば「口」は、連続している人間の体の一部であって、切り取るわけにはいかない。
切り取れるほど独立しているわけではないなら、それは存在しない、とすれば良いのか。

しかしそうなると、それでは不便極まりない。
やはり「口」は「ある」とした方が便利である。
ここには人間の視点がある。

物質の存在の仕方の大枠は、科学が示すあり方に近いものだと思うのだ。
科学は物質の性質のみにしたがって分類整理しようとする。
素粒子や原子や分子などという物質の構造は、人間の主観や願望とは関係なく、
物質の性質のみにしたがって分類整理しようとしたものだ。

もちろん、数量単位の基準が、長さであるか、重さであるか、個数であるか、
というような基準を決めるのは、人間の側の都合によるものである。

最初は、人間の体が、長さや重さや個数というものが、物質世界には存在する、
と考えるのに、都合の良い大きさで単位を決めるのだ。
この都合の良い大きさというのは、地球の哺乳動物には、かなり共通項を持つだろう。

だから、もし人間以外の高度に発達した知的生命体が物質世界を探究したとしても、
共通した認識にたどりつく可能性が高いだろう。

しかし物質世界の大枠がそのように確かに存在していたとしても、科学の言葉がなければ、
認識する側の認識は、混沌・連続・生成・流動といったような感じになるだろう。

たとえば、自分が電子の大きさになったと考えた時の、1滴の水は、
常に混沌・連続・生成・流動しているし、

人間の体だって、膨大な数の細胞群の一集合形態であって、
原子でできた分子構造物が絶えず出入りしている、連続・生成・流動現象
なのだ。

長い時間の尺度からすれば、人間の命は短いものだ。
人間は自分が持つ短い時間で物事を計る。
今行動するのに判断が必要なのだ。
その判断に必要なのは、情報であり、認識である。

 例えば「机」という概念は、人間の行動判断に即座に役に立つ。
何かをしようとする時に台になる平面は、
自分が台の上でしたいことや姿勢の記憶など、
目的や身体感覚と結びついて、行動を容易かつ確実にするものである。

 『水』も同様である。「水」は、飲んだときの、味や喉の動きやお腹の膨らむ感じ、
体の充足感と結びついて、自分の行動判断に即座に役に立つ概念である。

科学の用語である「原子」や「分子」が示す概念も、
人間にとってどのような役割を果たすかという目的意識を背景に、
物質の性質を簡単に割り出して判断を可能にする。

例えば日常では飲むための水でも、産業的には純度の極端に高い「純水」もあるし、
あるいは「軟水」か「硬水」かでも用途は違ってくるだろう。

このように同じ「水」でも特別用途の「水」があるが、
大部分が「H2O」であれば「水」であると判断できる。

それは、水素原子2個と酸素原子1個が結びついた水の分子であることを示す
「H2O」という概念が大いに貢献するところだと思うのだ。

そしてまた文字の問題がある。
文字そのものは物質が形状をなしたものであって、それ自体に意味があるわけではない。
人間の脳の側に、文字の意味の発生構造があって、脳内パターンと照合したとたん、
脳内で身体感覚や既成知識に連動するような、
意味の発生があると考えたら、わかりやすい。

また色の違いは、光の反射波長の違いに過ぎない。
波長の長さを、人間の識別の度合いに合わせて、それに数字を振ったって、
色の識別の目的のためには、一応は間に合いそうなものだ。

しかし、緑や青や赤という名称の代わりに数字を並べるなんて、なんて味気ないのだろう。
人間は身体感覚としては、色に特別な思いがある。

言葉はこのように人間の認識に大きな役割を果たす。
そう理解したことは、後の情報社会論への飛躍につながった。

言葉が表示する認識パターンの連想から、
情報というもの全体への連想に飛躍したのである。

 また、「机」の例からわかるように、
言葉の概念には人間中心の視点というものがある。
これも私にとっては、少し違った意味合いで、重要な考え方の軸につながって
くるものなのである。