6、科学と歴史学とマルクス主義
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科学と歴史学とマルクス主義。これらは高校時代には全く無関係に見えた。
しかしどうやら学問の世界でも何らかの関連性があると気がついたのは、
東大教科書であった林健太郎著『史学概論』が、
その記述の中で微妙にその関連性について示唆していたおかげである。
これまでに既に耳にしていたマルクス主義に関する思想関連の言葉の断片は、
すべて政治の問題であって自分には関係ないと思っていたことが、
急に目の前の切実な問題となって浮上してきた。
あわててマルクス主義に関する知識のおさらいをする。
よく考えてみれば、マルクス主義は科学的社会主義と言われていたのだった。
それは世界史にも登場する有名な話だ。
あらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である。
資本主義社会はプロレタリア階級とブルジョア階級の二大階級に分化し、
プロレタリア階級がブルジョア階級を倒して共産主義社会を実現する。
それは歴史の法則であり必然である。
そう言ってロシア革命が敢行されてソ連ができた。
また、世界各地で共産主義国家ができた。
そして現在、世界は共産主義国家群と資本主義国家群の二大陣営に分かれて対立し、
核軍備増大による均衡の上に、冷戦と言われる世界状況が出現している。
そういうことは、知ってはいたが、自分には関係ないと思っていた。
現在やっている世界的な二大陣営の対立というのが、
コマ取りゲームみたいに見えるのだ。宇宙から見たらそう見えるのではないだろうか。
資本主義と共産主義の対立というのは、私には、ちょっとマユツバもののように思われた。
当時の私には、思想や主義の対立が、戦争の直接的な原因になるというのが、
わかりにくかったのだ。
どちらかというと、国家間の勢力争いというのが本質のような気がした。
こうなるとマルクス主義というのは、私には、
はるかかなたに退場してしまったもののように見えた。
日本の政治状況でも、何かそれにからんで騒がしいようだったが、
とても本気でやっていることとは思えない。
ところが、大学でマルクス主義が講義として登場したものだから、
私の認識は一変することになった。
この事態をどう考えるか。共産党宣言って1848年だ。
今から130年も前のものだけど、これって勉強するものなの?
−−−どうも本当らしい。自分の中で時計の針が逆回転するような気がした。
これを正しいとして教えている立場の人が現にいる。
しかし、反対論者もたくさんいるではないか。
そんな決着のつかない問題に対して、片方につくのは御免だ。
なぜ、学問なのに真偽の決着がつかないのだろう?
そう思ったら、突然、日本の左右対立の政治状況や冷戦の状況が、
マルクス主義についての学問的未決着という問題とからんで浮上してきた。
マルクス主義と学問について、本や新聞、時事問題解説書、など、
あちこちつまみぐい的に調べてみると、
マルクス主義と反マルクス主義とは、政治だけではなくて、
いろいろな場面で対立状況を呈していて、
歴史学でも、唯物史観(マルクス主義)と実証主義(反マルクス主義)という、
大きな立場の違いとして表れているらしいということがわかってきた。
それにしても、東大教科書でもあった『史学概論』の、
自然科学に対する不寛容さは何なのか。
私の思考過程からすると、いかにも唐突な感じがして、不自然きわまりないように思われた。
そして、みんなそれに対して、澄ましているような感じがするのは何なのか。
西洋哲学では、「世界の根源」を「精神」と見るか「物質」と見るかで、
「唯心論」と「唯物論」の対立があった。
そしてマルクスは、その対立の中で「唯物論」の立場を選択したはずだった。
では、「自然科学」はどちらの立場を取っているか。
大抵の日本人は、感覚的には「唯物論」だろうと思うに違いない。
歴史学もまた、その学問の根拠として「世界の根源は何か」という問いに、
哲学用語で答えるならば「唯物論」、つまり「世界の根源を物質と見る」
立場を採っているはずだと、私には思われた。
しかし『史学概論』では、唯物論という表現も避けている。
もちろん、その言葉が当時はマルクス主義を指すことになったので、避けたのだろう。
しかし、「世界の根源は何か」という視点を省略して「自然科学」を省いてしまったのは、
自分の思考過程からすると、どうにも理解できないのだった。
また「注」には、「方法的には正しくない」と言いながら、
世界史の叙述を宇宙の発生から説きはじめるやり方について、触れてもいるわけで、
そうした知識がありながら除外してしまうというのは、私には全く理解できないやり方だった。
これに関連して思いつくのは、マルクス主義の政治宣伝の用語の数々であった。
歴史の必然、歴史の法則、歴史や社会を科学的に考えること即ちマルクス主義。
歴史の動きを考えるには、人間の意識よりも外側の客観的状況、
つまり物質関係である経済状況、階級対立を明確にしなければならない。
そして社会秩序を転覆させる実践に参加することが、
その正しさを証明することになるのだ???
最後の方はやや過激な文句だけれども、
マルクス主義が本来、思索の思想ではなくて行動の思想だったことは、
現に世界の各地で革命が起きていることから、推察できはする。
科学の名を冠したマルクス主義の宣伝文句に対して、
歴史学の筆頭者たる立場の者として、
不穏当な行動に走らせたくないという林氏の思いが、
自然科学排除の文句の中に、透けて見えるような気がしないでもない。
みんな澄ましているのは、そのせいもあるのだろうか
ただし『史学概論』では、マルクス主義が、
私が聞いた宣伝文句ほど明快な自然法則的な歴史理解をしているとは、
ほとんど書いてない。
唯一、決定論という言葉がそれらしく読めるくらい。
しかし私は結構、政治宣伝のレベルで、歴史の必然、歴史の法則的理解、
という文句を聞いたように思う。
こうして私は、日本の政治状況や冷戦の状況という、
世の中の喧騒の核心部分を学問の世界に見つけて、
一気に中枢に首を突っ込んだような気がしてきた。
しかしそのおかげで私は逆に、
かえって自分が考えてきたことの不思議さに強くとらわれるようになった。
自分が考えていることは、どう考えても何もおかしくない。
おかしくない話が、全く別の次元で成立しそうなのに、どうしてこれをやめられようか。
そこでこれまで考えてきたことを、もう一度組み立てて考えてみようと思いはじめた。