7、人体基準の認識枠
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宇宙から地球を眺める。地球を、社会を、物質だけの存在感で考えてみる。
衛星写真や航空写真でイメージを補強する。
その世界の内容は、極小粒子とエネルギーである。
こうして地球世界を極小粒子とエネルギーにしてしまった私は、
次には、生きている自分というものを考えはじめた。
自分も極小粒子とエネルギーになりうるけれども、
実際感覚にもう少し近づけるには、細胞の集合体くらいの水準で考えたほうが、
都合がよいと思った。
自分は膨大な数の細胞の集合体であり、常にその細胞を入れ換えつつ、
自分の体というものの恒常性を維持している、生物である。
細胞レベルでは、その細胞の交代率で考えると、
どこまでが自分で、どこまでが自分でないのか、判然としないながらも、
自分という恒常性は維持されている、一個の生物である。
そこで考える。自分とは何か。
考えている頭だろうか。しかし、頭で考えるためには、血を送る血管が必要だし、
血を送りだす心臓が必要だし、その心臓を動かすエネルギーを取り込むために、
口や消化器官がひつようだし、口に物を運ぶために手も必要だし、
食べ物に近づくためには足も必要だ。
目は、人体構造に規定された働きをする器官である。
光の波長の全てを捉えるわけではない。
見える波長もあれば、見えない波長もある。
錯視テストを行えば、みんな一様に錯視を発生させる。
(錯視テストは心理テストの入門書の中に載ってるかもしれない。)
このように人間の目は、人間固有の独特の見方をするのだ。
耳も、音波の全てを聞き分けるわけではない。
皮膚も、温寒を知覚する幅は狭い。嗅覚も限られたものである。
このように人間が知覚するものは、人体というセンサーによって、
極めて制限されている、固有のものなのだ。
あるいはこのようにも考える。
私はかつて一個の受精卵だった。
どっこいしょと、最初の細胞分裂を実行した。
それからどんどん細胞分裂して、栄養を吸収して、なにやら複雑な器官を持った生物に成長した。
最初の一個からすると、この膨大な細胞群の中で、私はどこ?
大事なのは心臓か?違う。どきどきしてるけど、その周りにある肉や骨や手足や目鼻がないと、私ではない。
では脳だろうか?違う。目や体がないと、感じることができない。感じる体がないと、脳だけでは私にはなれない
こうして、よく考えてみると、人体は全体として考えないと、
極めて都合が悪いように思われた。
また、前後左右上下という空間認知は、人体の構造を基本にした区分だとも言える。
なぜなら、もし認識主体である生物が、ヒトデやクラゲのように、前後左右が存在し
ない生物だったら、果して前後左右などという区分を、するだろうか。
前後左右は、人間のような体をした生物にとっては意味があっても、
ヒトデやクラゲのような体をした生物には意味がない、
というようなこともあり得るのである。
10進法が、人間の両手の指の数に対応しているから普及度が高い、
というのも、似たような理由が考えられる。
また、人体の大きさというのも、そこそこの大きさという水準があればこそ、
物が流通し、何に使えるかという目安もできる。
身近な身の回りの道具はすべて、人体基準の認識枠でできたものばかりだ。
鈴木孝夫氏が述べたように、言葉には確かにその言語固有の区分があるけれども、
私は、言語の働きを大きく考える立場の人達とは少し考え方が違って、
言語はそんなに固い認識枠だとは思えない。
なぜなら、それは最終的には、生物としての人体という共通基盤を基準にして、
修正可能になると考えるからだ。
例えば、色を示す範囲が言語によって違ったり、水と湯の区別がなかったり、
体の一部を指す名称が、言語によって範囲が違っていたりするようなことがあっても、
センサーである人体が、生物のレベルで共通なら、
何を指し示す言葉なのかは、理解できる範囲のものとなるではないか。
私は、このようにして人体は、その全体が認識の基準であると、考える。
デカルトは「我思う故に我在り」と言ったようだ。
しかし、考えるのは頭だけとは言えない。
知覚のすべてが人体という制限内であり、
また人体という基盤なしで考えることは不可能だ。
言語という他者から学習したものもある。
他者なし、言語なし、では考えることも不可能だ。