8 時間よ止まれ 
                             目次に戻る

私が既に高校時代から描いてきた物質関係。
それと、大学で学ぶ、物質関係だと言う経済関係。
この両者は、どうやったら接点が出てくるのだろうか。

『唯物史観の公式』などというマルクス主義では有名な文章が、
ちょっとした概説書には大抵載っている時代だった。

『史学概論』にも、経済史のテキストにも、載っていた。
その文章を文法解析みたいな方法で読んでみようと試みたりしたが、
お手上げだった。
どうにも、その『唯物史観の公式』の世界が頭に浮かんで来ないのだ。
浮かんでくるのは、自分が確実な存在世界だと思った、
空中写真でイメージする物質世界だった。

四苦八苦の挙げ句に『唯物史観の公式』理解の方向から考えるのを放棄した。
代わりに、自分が考えた空中写真的な物質世界で、経済とは何かを考え始めた

そもそも、経済史で使ったテキストの表題は、
『所有と生産様式の歴史理論』というのだった。

所有というのは、マルクス主義では重要視される「階級」の形成原因だ。
しかし、上空から見る限り、生物としての人の存在感はみんな平等という感じがする。

人が動いていると、その行動は確実にその社会的立場や地位を反映するけれども、
写真みたいに静止していると、そんなことは何だかわからなくなりそうに見えた。

時間を止めれば、人が日常生活で認識する程度の物体の存在感を損なわずに、
その見る光景をかなり再現できるだろう。

ここで思い出したのが、子供の時にテレビで見た『時間よ止まれ』という番組だった。

それは、主人公が「時間よ止まれ」と叫ぶと、周囲はみんな止まってしまい、
その間に主人公は、スーパーマンの如く大活躍ができるというストーリーだった。

こういう仮定だと、細かく言うと都合の悪いこともあるにはある。

たとえばテレビの画像。私たちにはそれが写真のようなものに見えるけれども、
時の流れが遅くなったとすると、視覚の残像効果を利用したテレビ画像は、
普段私たちの目に写るような具合には見えないから、
画面を見てもそこから情報を得ることはできないだろう。

が、それにしてもこのイメージは、空中写真と違って、
静止した等身大の立体世界を、観察者が自由に行動できるというメリットがある。

みんな止めておいて、自分は好き勝手なところへ行けるというのは、
ものすごくて恐ろしくもある。

しかし物体だけの世界というのは、そんなものなのだ。
私たちは、目の前にあっても自分には行けない所がたくさんある日常を暮らしている。
普段は制止する者がいるということである。

どんな偉い人もみんな止まっているわけだから、
誰が偉いのかは、にわかにはわからない。

お金持ちも止まってしまっていると、どれほどのお金持ちかはわからない。
所有している物やお金と、お金持ちとの間には、紐がついているわけでも何でもない、
ということに気がつく。

これは物質関係だろうか?
私が言うような意味での物質関係ではないのは、一目瞭然である。
一時的にでも止まっていると仮定すると、
経済関係を私が言う意味での物質関係と結び付けるのは、かなり難しいものに感じる。


まず第一に、マルクス主義では肝心な階級形成の原因である「所有」がさっぱりわからない。
日中活動している人々の、それぞれの家や土地はどれであるか、そんなことわかるわけがない。

では「所有」とは何か。
これはずっと後の考えだが、自他の脳と、外側の情報
(法律によって権利保証のある登記所の記録や、銀行の記録)との間で、
相互に情報処理が行われて初めて、所有が人間相互の間で確定する、
ということだろう。

人間社会において、個人個人の脳内の情報処理の方法をどのようなものにするか、
個人の外にある情報をどのようなものにするか、
これは、社会のあり方を相当部分決定するものではないかと思う。

事の始めは子供の頃に見たテレビ番組『時間よ止まれ』からであるが、
自然科学でも時刻を限定しての観測とか、その時刻の予想状態とか、
その一瞬の状態を捉えようとする場合があるものである。

「時間が止まる」というのは、
物理学的には、電子が止まっていたら
「原子は存在しようがない」「物質が存在しようがない」
という、
この宇宙世界の物質的「存在」というものと矛盾する概念だそうだ。

だから、物理学で私の考え方に近づけようとするならば、
それは「時間の断面を捉える」とか「時間をゼロに収斂する」という表現の
方が、よりよい表現だろうと教えていただいたことがある。

何万光年という宇宙の話はともかく、地球世界の話なら、
これでも相当役に立つと思う。

一度、闇の宇宙にポツンと浮かぶ青い地球の、表面に広がる人間社会の、
ある時刻のその一瞬の姿というものを想定してみて、
自分がその静止した社会の中を、自由に動いてみたら、
この社会がどのように見えるか。

それを考えてみるのも、社会とは何かを考えるために、有効な一つの方法ではないかと考える。