9 社会と情報
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 さて、宇宙空間から見たら、人は皆平等の存在感である。
しかし人が皆、宇宙から見た目のように平等かと言えば、
日常の事を考えれば、即座に違うという印象になるだろう。

そしてまた、歴史上の大きな流れとして学び、
またこれからも社会の中心的動きとされるであろう事柄は、
空中写真の中で特定しようと考えると、どうも極小のような感じがする。

例えば政府に幾人の人が携(たずさ)わり、政治に何人の人が携わるだろうか。

あるいは、マルクス主義が唱えて勢力二分と言われた、ブルジョア階級の人が何人いて、
プロレタリア階級の人が、日本の現状で何人いたと言えただろうか。

数で考えるなら、ブルジョアでもなくプロレタリアでもない人々の方が、圧倒的なような気がして、
どうしてそれが社会認識の役に立つのか、不思議だった。

宇宙空間からの視点という考えは、
ただ在る、という実態認識について強い自覚を促し、
自分のローカルな位置は、その認識を補強するものとして役に立った。

それは、歴史とは何かという問いとは逆に、
歴史になど残らなくても、あったものはあったのだ、という当たり前の事を、
最初に確認することとなった。

現代を上空から見ていて、歴史とは何か。
やっぱり普通に思う歴史というのは、そういう世界では、全く見えないのだ。

歴史にかかわることで重要に思えたのは、人だった。
上空から見えるものとしては、人体であり、一人一人の人だった。

しかし外から見る限りの人体は、
それだけでは人が一般に思うような歴史に関係するとは思えない。
物質世界の中で歴史とは何か。
それは頭の中の情報であり、認識のように思える。

人は地球上で生成し、多くの経験と知識を蓄えてやがて消滅する。
自分の生成をたどって考えると、
上空から見た物質だけの存在感「以外」の、
日常の社会生活に必要な普通の感覚・知識・認識というのは、
自分の体感を通して、他者から言葉を媒介として、
情報として手に入れたもののように思える。

 例えば社会用語だ。政府・首相・大臣・官僚・公務員。
財界・社長・平社員・労働組合。
自営業・農業・漁業。正社員・パート・アルバイト。
富裕層・貧困層。先生・学生。企業・財団。
社会的な地位の上下。階級。

こういう言葉が指し示すものは、空中写真で見る個人や集団を、
物質感以外の、人間相互の間に発生する、社会的な意味合い、で表現している。

 これなら、空中写真で見えなくても納得できる。
ただし上空から見えなくても、それは音波であったり、信号であったり、
文字という表示記号であったりして、物質世界に実在するものである。
あるいはまた、脳内の信号として存在したりもするだろう。

人にとって重要なのは情報だと思ったとき、現代は私にとって最もとっつきやすかった。

過去の時代なら大部分落ちて消えてしまっていることが、現代なら全部あるはずだった。
ならばどうして、歴史の動きを考えるために、
その豊富な情報を利用しないでいられるだろう。

創られつつある歴史時代を、これほど豊富な情報がかけめぐっていたことはかつてない。
かくして現代は、私にとって、最も有利な時代に思われた。

自分が未来の歴史家だったとしたら、その情報を使って、
今の時代をどのように描くだろうか。

それは、歴史というものが、過去のありとあらゆるものの中から、
現代の人にとって必要で重要と思われることをすくい上げる機能を持っている、
そういう認識によるものだった。

そう考えると、未来の歴史家が絶対に見るはずのない現在を、
今自分が見ているというのは非常に有利に感じられた。

自分が知覚するすべてのものの中で、歴史とは何か。
そう考えたとき、私に思い浮かんだのは、私の目の前の圧倒的大部分は、
歴史から落ちるだろうという予測だった。

しかし、自分の人生でも、歴史上の人物達と共有するものもある。
例えば、社会構造図。私たちはそれに沿って行動するだろう。

接触する、現代にあふれる情報。私たちの行動は、それに影響されるだろう。
そうした共有する情報の部分は、共通項として社会全体の枠組みを作るような気がした。

歴史からは消えるであろう部分に生きている自分でも、
極めて多くの人達と共有する情報に沿って行動しているのである。

影響の大きな情報、共有が大きければ大きいほど、それは社会を大きく動かし、
社会における物の考え方や行動の仕方の基盤となりそう
だ。

歴史家が見ることのできなかった消える部分を、
私は今生きているおかげで見ているような気がした。

消える部分にいるからこそ、時代を象徴するものが何かを考えることができる。
それは私の思考過程からすると、情報に見えた。
そして私は、情報によって形成される一人一人の頭の中の共通項が、
時代だと思ったのだった。

人体というセンサーを通じて手に入れる環境からの直接的感覚
(人肌のぬくもり、風景・気候のもたらすものなど)・
人と人との間の情報交換によって形成される概念・
その概念を組み合わせて作られた、もっと高度な、そして普通に言う情報・
それらをさらに組み合わせた認識。

認識を外に出せば、また情報にもどる。
人間が感じる意味や価値は、こうした中で形成された認識の一つだ。

社会を無意味な物質世界に還元してみて、
意味や価値を付加するのは人間だということに気付いたとき、
その意味や価値がどこから生まれるかと考えたら、
人間相互の情報のやりとりによるものは非常に大きいと見える。

もちろん個人的な価値基準も千差万別あるが、すべてがバラバラというものでもない。

通貨はその価値が全国共通だという認識があるから意味がある。
それは情報による認識だ。
通貨の物質的性質に価値を生み出す源泉があるわけではない。

言葉や文字や数の、意味や概念の形成も、情報によるものである。

私が言う情報とは、このように非常に基本的な認識を形成するものを含んでいる。
なぜなら、時をさかのぼれば、それすらすべての人が、
必要十分に身につけることの困難な時代が長かったのだから。

私は、物質だけの存在感という考え方の中でも、具体的・直接的には、
上空から見た空中写真のイメージを土台にいろいろなことを考えた。

人々の間を飛び交う情報の種類について考える時も、
具体的なイメージというのは空中写真による空間イメージだったのである。

それにしても知る限りの言語学では、言葉の意味構造ばかりを気にしていた。
なぜ、言葉がどこから来るのかということを、問題にしないのだろう。

言葉は生得的に備わっているわけではない。
そんなことは誰でも知っているのに。
わけがわからなかったが、とにかく自分は先へ進むのだ。


文字や言葉から、人はどうやって意味を読んだり感じたりするのか。

文字は平面状の形である。素材は何でもいい。

黒板の上の、白い線でできた形でもいいし、砂の上の窪みでもいい。
紙の上の黒い線でもいいし、布の上の糸でできた形でもいい。

そこに素材として、人間の外側に存在するもの(物質)の持つ多くの性質は、
文字を決定する要因ではない。

人が他者と共有している脳内の「パターン(型・類型・様式)」と、
素材の上の「パターン」が、一致しているかどうか

が問題なのである。

  *〔通貨:価値の数量化と自然科学の数量化の違いについて〕

   通貨も共通したところがあるだろう。
   ただし、その素材は、社会が公式に決定したものに限られる、という制約がある。

   決まった素材上の数量は、素材がバラバラでも、
   「通貨」という同一レベルの数量として、足したり引いたりできる、
   という人間相互の約束の上で、通貨は成立している。

   それは、自然科学が対象を数量化する時に、
   対象から一つの性質のみを抽象化し、
   それに対して単位を設定して、数量化を図る、
   こういう作業とは、全くの別物である。

   つまり自然科学の数量化の場合
   対象の中の、抽象化された一つの性質のみに着目して数量化が行われる。

   たとえば対象物の長さに対して、ミリやセンチメートルやメートルなどを設定し、
   あるいは対象物の重さに対して、ミリグラムやグラムやキロなどを設定する場合など。

   ミリやセンチメートルやメートルなどは、他者からの情報であるが、
   対象物自体に、それらが計ろうとする、抽象化できる共通する性質がある。

   しかし、通貨の場合、「円」の単位は他者からの情報であるが、
   それが表示されている硬貨や紙幣という素材には、
   その単位が計ろうとする、抽象化できる物質的性質などはない。

   また、100円のパンや、100円で買える卵などという、価値表示の対象物には、
   「円」という単位で計ろうとする、抽象化できる共通する物質的性質などはない。

   
文字や言葉から、人はどうやって意味を読んだり感じたりするのか。
また、どのように情報を受け止め、認識を作り上げるのか。

その過程はわからないが、実際問題として私たちは、
自分の外部にある情報に接しながら、生活している。

その点は、疑うことができない。

では現代日本の社会を考えた場合、その情報ルートという点に注意しながら、
自分の社会生活上の知識を主にモデルとして分析してみると、どうなるだろうか。

地球の表面に広がる社会。そこで生きるおびただしい人。
しかしその社会で重要なことは、そうした外見ではなく、
人々の脳の中の認識であり、情報である。

それぞれが、自分の成長の過程を思い出してもらいたい。
自分がどのように成長過程で情報を受け取ってきたか。
それがどれくらい他の人々との共通項であり得たのか。
そういうことを考えてみる。

まず子供時代。そこで受け取る情報は、非常に個人的なものである。
人間関係も、社会関係も、自然環境も。
しかし母国語の基本的な語法は、ここで身につける。
この母国語の基本的語法は、この段階では他の人々との共通要素の高いものだろう。

そして学校へ行くようになると、一気に大規模なスケールの情報に、毎日接触する
ようになる。それは何か。
学校の勉強内容のことだ。国語・算数・理科・社会。
日本の場合、何種類も教科書はあっても、
どれもその編集方針は文部省の教育指導要領に沿ったものだ。
社会生活準備段階の子供に、九年にわたって毎日のように施される教育。

ここには、他のルートではまとめて見ることのない情報がいくつもある。
言語・数の知識はもちろんだが、例えば自然科学の基礎知識。
民主主義社会の理論とシステムの知識。
子供のすべてに知らしめようと準備されているこれらの知識は、
時代を支える情報として非常に大きなものだと思う。

後に述べる他の情報ルートからの知識は、個人の経験によって蓄積してゆく。
しかし教育は、強制力があり、大規模であるという点で、
情報として第一級の性質を持つものである。
だから私は、義務教育を『基本情報』と呼んでいいのではないかと思っている。

社会が異なれば、この基本情報も、内容は別のものになる。
宗教が最優先される国では、基本情報は、その宗教らしい。
また国が違えば、宗教でなくても、盛り込む内容は大いに特殊なものとなり得る。
アメリカなどでは、州ごとに違う。
日本の事情がすべての国に通用する訳ではない。日本は日本なのだ。
しかしその分、その情報としての大きさと共通性が明白で、
基本情報という概念をも導きやすかった。

以上のことから、義務教育(1)『基本情報』と数えよう。

(2)次に、やはり広範囲で、誰もが生活に欠かせない情報として、
社会システムに関する情報を挙げたい。

例えば、交通機関を利用しない人はいない。時刻表は必要不可欠の情報である。
また成人は税金を納める必要があるが、これはどうするのか。選挙はどうするのか。
年金はどうなっているのか。電気やガス、電話の利用の仕方について。
銀行の利用の仕方。郵便に関する情報。その他、諸制度に関わるすべての情報。
官民に関わらず、具体的な情報は直接、機関の窓口から出ているもの。公共性の高いもの。

こういう具体的なことは、学校などでは間に合わない。
その都度、必要となった時に個人が努力して手に入れる必要があるものの、
社会生活では必須の情報である。

法律は社会制度を規定するものだし、通貨も経済を規定する。
これもみんなが使っている情報だ。

 こうした社会システムに関する情報を(2)『社会システム情報』と呼んでおこう。

(3)その次には、各々の職業、社会的立場による情報の偏りをマークする。
その職種、そのグループ、その地域内、では、日常流布しているけれども、
他には伝わりにくいたぐいの情報である。これを(3)『偏在情報』と呼んでおこう。
ただし偏在情報とは呼んでいるものの、個人的な直接体験に含まれる、
懐深くあらゆるところにある日本語の基本も含んでいるつもりのものである。

例えば、身内や隣近所、仲良しグループ、趣味、サークル、愛好家グループ、
通っている学校、職場、職種、○○会といったもの、所属する団体、
個人的に信仰する宗教グループ、あるいは町や市や県などの行政単位の中の情報。
さらに付け加えるならば、世代ごと、年齢別の情報の偏りがある。

この中で見つかる情報には、社会では決して表に出てこないのに、
確実に生き延び続けている情報もある。
例えばねずみ講に代表される悪徳商法のやり方だの、
ヒットラーに類するような権力的に人間操作をする方法だの、ニセ宗教だの、
数々のだましのテクニックだの、等々である。

こういうものは、公の情報だけに頼っているとわからない。

その論理も価値観も、公の情報とは、すべてにわたって全然違う考え方が実在する。
平穏な社会生活をおびやかす可能性のあるものを、
伏流情報とでも呼んでおこう。

ここにはまた、世代間のギャップというようなものもある。
戦前の教育を受けた人々と、戦後の教育を受けた人々の間には、
誰の目にも大きな隔たりがある。
戦前の考え方が留まっているのも、(3)である。

ここには、歴史的な社会制度のために存在していた考え方や知識で、
今なお残っているものもある。

(3)は、ある意味ではパンドラの箱のようなものだ。何が出てくるかわからない。

(4)最後が、情報という名では最も耳になじんだ、(4)マスコミ情報である。
現時点で、最も先鋭的な関心を反映しようとしているものとしておく。
時事問題ならば、教育でも、システムでも、伏流情報でも、その他何でも扱う。

これら四つは、どちらかと言えば、個人に対して、必要に応じて能動的に積極的に
情報源として活動する。

他に、図書館・資料館・博物館・歴史館などもある。
これらは、四つの情報源が出す情報の裏付けともなるものを、蓄える所だ。
そういう機能を持った所も、社会にはある。

あるいはまた書籍出版という分野もある。
しかしこれは、四つの情報源の影響を受けて手にすることが多いのではないだろうか。
個人的な関心によって手にすることも多いだろうけれども、
アピールとか実用とかいう点では、これも静かな情報源である。

社会論はいろいろあるけれども、日常語における基本語と言われるようなもの(山や
川・お父さんお母さん・机・水・歩くなど)や数詞、基本的な科学知識や社会知識、
こういうものを、伝播する情報として把握することはないみたいだ。

  
 しかし「無意味な世界」から「人体基準の認識枠」を立ち上げるには、
どうしても基本要素が必須である。

 ーーー無意味な世界に立ち向かう、膨大な細胞群の1集合形態である人体が、
「私」という意識を持ってこの世界で生き始めるには、
他者から伝達された「人体基準の認識枠」を、
自分も共有するところから始めなければならない。
 


** 現代の情報というものを、情報源を鍵として分類してみた。
ここで文明発祥以前から思い起こす。
この数千年の間、文明・文化の興亡を繰り返しながらも、人は進歩へと向かってきた。

進歩の概念についてもいろいろ取り沙汰されることはあるけれども、
とにかくある種の方向性は誰でも感じるだろう。
文明・文化とは、単なる流行ではないのだ。
後戻りを許さない何かがあるからこうなるのだろう。
それは一体何か。

まず、誰にでも検証できる確実な知識である。
これが増えてくると、後戻りはできない。
そして、人の生活を楽に豊かにし、行動範囲や活動量を増加させる技術が増えてくると、
これも後戻りはできない。

そして、それらの情報を伝達する仕組みが整うと、これまた後戻りはできない。
そして、それらの変化がもたらしたものを踏まえて新たな思想が出てくれば、
それが状況の変化に符号していれば、やはり後戻りはできないのだ。

確実な知識、確実な技術、これらは現代から振り返っても、
継続情報としてその発生から語り伝えられるものである。

人類はこれまで非常に多くの経験を積み重ねてきて、
その試行錯誤の形跡すらもたくさん情報として蓄えている。
継続情報は、それらの膨大な失敗の上に成り立つ貴重な情報なのだ。

私は、情報の種類と広がりと偏在について、そのルートを手がかりに、およそこの
ような見当をつけた。
私たちは、こうした重複し錯綜した情報社会の中で生きている。

私はできればすべての人を網にかけたかった。
すくいあげられる人の数が多ければ多いほど、
その認識には偏りがないと思われたのだ。

世界史の大きな流れという原則、存在する人すべてを対象とするという原則、
これらから離れまいとして考えると、
長期的広範囲な、社会の中に普遍的に存在している情報を把握することが大事だった。

必ずしも行動目的として浮かんでいるわけではない、人のものの考え方の大枠を、
その情報ルートという社会的形式で把握する。

私の考えによれば、ものの考え方の大枠は、
即座には行動目的として浮かんでこなくても、
その時代の動きの可能性を規定するものだった。

人が自分の認識として受入れ、あるいは信じていることで、
それ以外にはみ出す可能性の少ないことを押さえることがまず重要だった。

 **今はインターネットや携帯電話の普及による、能動情報にも配慮する必要が
あるが、それはまだ課題である。

 情報と同時に、急速に普及した技術と時代との関連も、考えるには考えた。
例えばテレビや冷蔵庫や洗濯機、車等々、これらの普及拡大のことは、よく話題になっていた。

マルクス主義が言う、物質関係による時代の規定という言葉から連想すると、
私の物質のイメージでは、むしろそちらの方がわかりやすかった。

  確かに文明の利器は人々の暮らしを変え、間違いなく歴史を変える。
暮らしが変わり、活動範囲が変わったら、
間違いなく人のすること・考えることは変わるだろう。
しかしどう変わるかという方向性の問題に、直接答えるものでもないような気がした。

 こうして私には、自分にしか見えないらしい分野の方が、
先に着手するべきものに思えたのである。