『モルガン家』ロン・チャーナウ著・日経ビジネス文庫より 
                                                    勉強のはしきれへ戻る

プロローグ
 アメリカ金融界に君臨してきたモルガン財閥

 JPモルガン1世(1837〜1913年)と2世(1867〜1943年)

 ニューヨーク本社   ロンドン 「モルガン・グレンフェル」
              パリ   「モルガン・エ・カンパニー」
              フィラデルフィア「ドレクセル・アンド・カンパニー」

初期のモルガン財閥は、中央銀行と民間銀行とを兼ねた存在のようなもの
金融パニックを阻止・金本位制を守護・ニューヨーク市を3度も破産から救済・
金融紛争を調停

政府との結びつき、アメリカ権力の海外における出先、
日常業務が国家の問題と密接に絡む

1933年・グラス・スティーガル法
業務の分離を決定
  商業銀行業務(貸付と預金)
  投資銀行業務(株券・債権の発行引き受け)

JPモルガン商会は商業銀行に
モルガン・スタンレー商会は投資銀行に

業務の主力は優良企業や各国政府を相手に大規模な融資を行い、
証券発行引き受けを取りまとめ、外国為替を取引すること。

     「金融王の時代」
     「ドル外交の時代」
     「カジノ経済の時代」

第一章 守銭奴

J・ピーボディ
どけちだった。
アメリカメリーランド州債の債務不履行という状況から、新規融資への転換に成功(1835年)

ロンドンのマーチャントバンクになる(1837年)

 貿易金融:商品を商いつつ、為替手形の引き受けなど、商品貿易の金融も手がける
「アメリカ金融市場はロンドンの証券取引所次第」
ロンドンに来るアメリカ知人の拠点

1840年代、アメリカ州債、半分に暴落、債務返済に努力
暴落州債の買占め分があったため、利払い再開で一財産形成

1850年代、中国絹貿易・アメリカへの鉄道レール輸出などへの融資で財産形成
1854年、ジューニアス・スペンサー・モルガン、ピーポディのパートナーになる
   クリミア戦争でアメリカ穀物急上昇、穀物輸送鉄道好況の狂乱景気で儲ける
1857年、クリミア戦争終結、穀物価格急落、アメリカ銀行・鉄道苦境に
1857年10月、ニューヨーク各銀行、金支払い停止。ピーポディ商会、資金難に。
イングランド銀行の緊急融資で救済される。
  **1857年金融恐慌
       1832年第二合衆国銀行廃止以来、アメリカには統一通貨なし。
       銀行は各州ばらばら、各州間の債務清算を外国通貨でできる状態。
1858年、
ベンチャー投資の大西洋海底電信ケーブル敷設計画投資が、一ヵ月後の断線で、大赤字。
アメリカ南北戦争(1861年〜65年)で北軍の債権を扱い、急騰によってひともうけ。
1864年、ロンドンでJ・S・モルガン商会発足


第二章 口やかましい人
 
J・S・モルガンの世襲事業計画
  ベアリング・ロスチャイルド、両商会の例にならって、
息子ジャック・ピアポント・モルガンをきたえる。

貿易金融では、自分の発行した手形の一覧払いを遠隔地で引き受けてもらう。
そのためには、自分の銀行の名前が信用の元だった。

1861年、息子ピアポント、J・P・モルガン商会を設立
ニューヨークから父親に政治金融情報を送る。
(必須情報の、政府の資金調達・得意先企業の信用状況)

<金融王の時代>ジューニアスとピアポントの父子の時代

鉄道・重工業など新事業の勃興期で、資金需要はふくらんでいたが、
金融市場は小さかった。

証券発行や目論見書を規制する政府機関がなく、
未知数の企業を評価するのは銀行だけだった。


 銀行が新しい各種事業を動かす中心となった。

 銀行家は、企業の有価証券発行を引き受けるだけでなく、企業が債務不履行になれば、結局その経営も引き受ける例がよくあった。

 <金融王の時代>が進展するにつれ、産業界の大部分が銀行の支配下に。

 政府は戦時に戦費をまかなうだけの高度な税制を欠き、
 マーチャント・バンクが大蔵省ないし中央銀行の代役を務めた。


 大規模な公債発行を引き受け、各国政府と密接に手を結んで、準政府機関的だった。

*ロスチャイルド商会  ウェリントン将軍の半島戦争出兵
            クリミア戦争の資金調達
            スエズ運河支配権入手の資金、政府へ融資

*ベアリング商会  ワーテルローの大敗後の賠償金支払い資金を、フランスに用立て
          1845年アイルランド大飢饉時のアメリカ穀物購入
          南北戦争の頃には、ロシアやアメリカ大陸諸国の代理銀行

政府との密接な関係はなぜか。
 同族的な共同経営で、好きな政治的立場がとれ、部外者の監視に服する必要がない。
 海外諸国を相手に金融活動をしていたため、英国の産業界や商店経営者相手の銀行より考え方が開けていた。

ジューニアスがつかんだチャンス
 1870年、ナポレオン3世が普仏戦争に敗れ、海外で資金を募った。
 1千万ポンドのフランス公債を何人かで組んで(シンジケート)協調引き受け
 1871年、パリ陥落、パリ・コンミューン誕生で、公債相場は80から55に下落
 1873年、フランスが額面で公債を満期前に償還、純益150万ポンド
 一挙にトップクラスの政府資金調達銀行の仲間入り


第三章 王子

ピアポントは、ロンドンにいる父の、ウォール街の代理人。巨大な英国資本を後ろ盾に

南北戦争(1861〜1865)直後の鉄道建設ブーム
   連邦政府の土地払い下げ、線路が8年間に2倍に延長、
   鉄道に沿って市や町が誕生

鉄道株への投機、株の売り込み屋と詐欺師の結託、
買占め屋と対抗者の間の暴力沙汰、

1870年、ピアポント、鉄道会社の経営の主導権争いで紛争解決
報酬と権力を入手(取締役就任)
  *金融業者が企業経営にかかわり、企業を支配する時代の始まり(当時は企業が弱かった)

1871年、ニューヨークにドレクセル・モルガン商会設立(J・P・モルガン商会の前身)
                 *以前の1861年J・P・モルガン商会は短命で終わっていた。

       ドレクセルとの合併で、モルガン側は
       ニューヨーク・フィラデルフィア・ロンドン・パリに拠点を擁することになった。

1873年、連邦政府が、南北戦争当時から持ち越した公債を、さらに低利の公債を発行することで償還することに決定。
それまでの業界の帝王、ジェイ・クック商会と争い、裏工作の功もあって、半分ずつ担当することにこぎつける。

鉄道建設株による買収事件発覚。アメリカ債権の信用下落。
9月、ジェイ・クック商会倒産
ブラック・サーズデー(暗黒の木曜日)、金融恐慌始まる。

ジェイ・クック商会がなくなったため、
ドレクセル・モルガン商会が、政府資金調達の頂点に立つ


   モルガン商会の営業方針
        最も強力な企業とだけ取引して、投機的な事業は避ける。
        (乱脈経営の鉄道各社の破産でだまされて懲りたため)

     自分が売った債券に責任を持ち、
     事態が悪くなったら、間に入って解決する、という考え方。

     このため議決権信託で、鉄道の直接経営に当たることになった。

1877年、アメリカ先住民と戦っていた部隊に、滞っていた兵士給与支払いを融資
兵士達の人気者に。

1879年、オーガスト・ベルモント、ロスチャイルドと組んで、
南北戦争の負債の最後の借款債の発行。大成功。

1879年、ニューヨーク・セントラル鉄道株25万株、当時史上最大の株式公開に成功(注:ヴァンダービルト家)
巨額の取り扱い手数料と取締役の椅子を得る。

        倒産・無配・乱脈経営などが激しかったため、
        債権者(主にロンドン)の利益を代表する必要があった。

        「英国の金融力の、アメリカでの代表者だ」と批判された。