オリエント世界形成期の諸民族
     岩波講座『世界歴史1・古代1・古代オリエント世界・地中海世界1」1969年版より
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オリエント世界形成期の諸民族 川村喜一・筆 (岩波講座『世界歴史』1969年版p7〜9)

オリエント世界における生活の基盤となったものは、
農耕生活を営んでいた者達と、遊牧生活を営んでいた者達との、相互の交渉であった。
これが平和の行われることもあったが、また交戦・征服の形をとったこともしばしばであった。

メソポタミアを例にとってみれば、ここに住むものと、隣接している山間地帯の住民と、砂漠における遊牧民との、
交渉や征服が、つねにくりかえされている。

歴史のはじめのころには、すでにここにはシュメール人、カウスス系のフルリ人、ドラヴィダ系エラム人
セム系のアッカド人などが、各都市に割拠していた。
それは、都市名や支配者名をはじめとする、地名や人名にあらわれている。

ことに遊牧民であるセム民族系では、最古のアッカド人の来住ののち、アムル人、アラム人などの西セム系人
が相次いで多数来住してきている。

最も東方の文化圏をつくっているインダス文明(インド)は、インド・ヨーロッパ民族の侵入によって滅びた文明である。
この文明の由来は明らかではなく、印章の使用、建築・技法そのほか文化の諸要素は、
明らかにアッカド王朝ころの西方のメソポタミア文化の影響のあとがみられる。

しかし印章にみられる古文字は、まだ全く解読の端緒も得られていない。
が、おそらく、インド・ヨーロッパ民族浸入以前に、インドにわたって広く分布していて、
また西方メソポタミアにまで拡がっていた
ドラヴィダ語族に属するものと考えられる。

この民族によってつくられたインダス文明(インド)の滅亡によって、
インダス川地方はむしろ東方のガンジス川地方と一体となってインド文化圏を構成するようになって、
オリエント文化世界からは、一応離脱してしまうのである。

ドラヴィダ語系民族(インダス文明・インド)は、古代オリエントにおいては、重要な役割を演じたものである。
インダス文明をつくった主要民族であるばかりでなく、
かつてはイランからメソポタミアにわたって分布していた、重要な民族であった。

その最も主要なものは、イラン高原の西南部に本拠をもっていたエラム人であった。

1899年におけるフランス考古学者ジャック・ドゥ・モルガンのスーサ遺跡の発掘によって知られた
先史時代のスーサT・U層文化の上に発見された多数の粘土板文書の文字は、

メソポタミア最古の楔形文字で記されたウルク文書の文字とも違っており、
「原エラム文字」と名付けられている。

文字が楔形をなしているけれども、ウルク文字や同系のメソポタミアの諸文字とは趣がちがっており、
いろいろと字形によって整備・分類されてきたけれども、
まだ音価も意味もわからず、解読の前途は全く暗い。

従ってこの「原エラム文字」で書かれた言語と、のちのエラム語とが同一であるかどうかも、
まだ全く手がかりがつかめていないし、
また同じ語系と思われるインダス古文字との関係すらつかめていない。

しかしインダス文字の数にくらべれば、はるかに多数の文字がわかっており、
表意文字と表音文字を併用していることも、ほぼ明らかとなってはいる。

エラム語は、メソポタミアのシュメール系の楔形文字のやや変体文字で記されてあったので、
比較的早く、バビロニア文字とほぼ同じ頃、19世紀の半ばころには解読された。

このエラム語の古い刻文は、スーサで「原エラム文字」と同じく発見されたのであるが、
前13〜11世紀ころエラム諸王の記録が主であり、
その後裔の新エラム語アカイメネス(アケメネス)王朝時代のイランの一つの重要な用語であったために、
ビストゥーン(ベヒスタン)のダレイオス大王の磨崖の碑文3種の内の一つに用いられた。

また、ペルセポリスの「宝庫文書」や「城砦文書」などで、王宮建設のときの賃金支払文書の用語であったために、
近年特にその研究がすすんだ。

以上の理由で古エラム語新エラム語の性格はよくわかっているが、
ボルクの主張するように、ドラヴィダ語族のブラーフーイー語に最も近いといえるであろう。

このようにエラム語ドラヴィダ語系であり、のちのちまでもイラン地方でおこなわれていた言語ではあるが、
エラム人独特の体質的あるいは服飾的性格は、スーサやペルセポリスの浮き彫りや彫刻からみて、
わずかに他とくらべて異なっている点がみられたに過ぎない。


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インドのドラヴィダ語系の内、タミル語については、
日本語学者・大野晋氏がその共通性についていろいろ指摘したので、それで知られている。