ペルシア帝国「王の目、王の耳」
中公バックス『世界の歴史1、古代文明の発見』昭和57年(1982年)より
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「王の目、王の耳」(p453)
前6世紀の中頃、メディアの臣従王として、
イラン高原のペルシス(ペルシアの名のおこり)に君臨していたキロス2世(前559〜529年)は、
メディア王位を奪い、アケメネス王朝を樹立した。
彼は、リディアやエラムを征服したのち、メソポタミア平原に進み、
バビロンを占領してカルデア王国をほろぼした。
二代王カンビセスによってエジプトが領土となり、
また三代王ダリウス1世(前522〜486年)によって、
インダス川に達する東方地域とバルカン半島のトラキアが、ペルシア帝国領に加えられた。
このような3大陸にまたがる大帝国が、わずか三代70余年の短期間に実現したのである。
これはペルシア帝王の武力と政治力とによるほか、アッシリア帝国時代以前から整備されていた
通商路兼軍用路の賜物でもあった。
ダリウス1世は交通路の重要性を深く認識し、中央と属州とをむすぶ大交通路の建設に努力し、
都のスーサから小アジアのサルディスまでには、立派な国道をつくった。
ダリウス1世は、世界帝国の統治機構として分治方式を、
統治機関として官僚制を採用した。
分治方式としてはアッシリア帝国の属州制を踏襲し、まず帝国を
ザクロス山脈を境として東部13州、西部9州の、22の属州に分割した。
アッシリア帝国の属州長官は、軍政両権を掌握したが、
ペルシア帝国の場合は、属州統治権は3分された。
徴税、裁判などの内政権は属州長官に、
軍事権は軍司令官に、また、
「大王」に提出する属州統治に関する記録事務は記録所長官にあたえられた。
ダリウス1世は、中央と属州との連絡のため、
「王の目」「王の耳」といわれた地方巡察使を随時属州に派遣して、
属州統治の情況を監視せしめた。
アッシリア帝国は、属州への税は帝王の任意のままに賦課したが、
ペルシア王ダリウス1世は、属州の貧富の差によって、
一定額を金納および物納で割り当てた。
物納は穀物が主であった。最高の割り当てのあったバビロニア州の穀物は、
帝国の全軍隊および宮廷で消費される量の3分の一と伝えられる。
ダリウスは、帝国の通貨として、リディアの鋳貨制にならって、
ダリウスの名を記念した金貨ダリク、
セム語のシュケルの名からとられた銀貨シグロスを鋳造した。
キロス、ダリウス時代の帝国統治は、
人道的なゾロアスター教(拝火教)の影響もあって、比較的寛大におこなわれたので、
帝国内の人民は「ペルシアの平和」を享受することができた。
イスラエル人に帰国を許したことは、はるかにキリスト教成立の源をつくったものとして、
人類にたいするペルシア人の最大の貢献であろう。
オリエント世界がペルシア帝国によって統一されたとき、
海をへだてたヨーロッパの東南の片隅には、
ギリシアの都市国家が発展し、アテネはすでに民主体制を樹立し、
スパルタは軍事国家の体制を完成していた。
そこでいよいよ東西の勢力の衝突がおこるのである。