両細川の乱

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           *「野州家」の細川「高国」と、「阿波守護家」の細川「澄元」の、
             宗家後継者としての正統性と、
             権力(人事を決定する力や、係争を裁いて決定する力)、
             の継承をめぐっての戦い。


1509年(永正6)6月、三好之長(ゆきなが)は兵3千で近江から兵を進めたが、
細川「高国」大内義興の兵2万に敗れた。

ついで、8月、三好之長は嫡男の長秀とともにふたたび京都に迫ったが、
またもや敗北を喫し、澄元を擁して阿波に帰った。

このとき、伊勢に逃れた之長の嫡男・三好長秀は、
「高国」と姻戚関係にあった北畠氏に攻められて自刃。     (長江著p21 )

阿波で兵を養った三好之長(ゆきなが)は、1511年(永正8)8月16日、
大軍を率いて京都に攻め上って、細川「高国」・大内義興らを、京から丹波へ走らせた。

しかし8月24日、足利義稙・細川「高国」・大内義興らが2万の大軍で反撃に転じた。
三好之長は船岡山で一大決戦を試みたが、大内軍に大敗し、阿波に逃げ帰った。

    このころ、三好之長には不運が続いた。

    船岡山の戦いの10日前、近江で前将軍・義澄が32歳で逝去。

    敗戦後20日もしない時に、「澄元」の祖父で、之長にとっても支持者であり、
    阿波国主として最盛期だった細川成之(しげゆき)が78歳で没した。
   
    ついで「澄元」の弟で阿波を継いでいた之持が翌年1月に死去。

    このような中、前将軍・足利義澄の子・義晴が、現将軍・義稙と和した。(長江著p23)

こうして之長は、京都奪回による「澄元」の管領就任を中止せざるを得なくなった。

以後、阿波に雌伏して兵を養い、
足利義稙(よしたね)・細川高国・大内義興の政権を打倒する機会をうかがった。


1518年(永正15)まで、京都は、足利義稙・細川「高国」・大内義興によって、
7年間平和が保たれた。

これには、中国・九州で6カ国を領し、かつ対明貿易の利益によって富強を誇る
大内義興
の力が大きかった。

しかし大内義興は、京都に駐兵すること10年に及び(1508年(永正5)から)、
軍資を多く消耗し、かつ、本国が尼子氏に脅かされることになった。

そこで1518年8月、大内義興は、将軍・足利義稙の許可を得て、周防山口に帰国した。

京都の情勢を睨んでいた三好之長は、これを好機と見た。
足利義稙・細川高国は対策に走った。

翌・1519年(永正16)11月、之長は1万の兵を率いて兵庫に上陸した。(長江p26)
そして、翌1520年(永正17)2月、「高国」を近江に走らせ、3月、京都に入った。(長江p29)

そして5月1日、細川「澄元」は、「高国」と不和をきたしていた将軍義稙の支持を得て、
宗家家督に返り咲いた。                                    (長江p30)

しかしその2日後の5月3日、六角定頼らの助けを得た「高国」が、反撃に転じた。
この時、之長方から高国に降る者が続出し、「高国」の兵4万、之長の兵4・5千。

5日の一戦に敗れた三好之長は、息子長光・長則と3人で、曇華院(どんげいん)という尼寺に
かくまってもらった。尼寺の一番偉い人が、将軍義稙の姉だったので、彼らを渡さなかった。

しかし「高国」が、彼らの命を補償して投降させ、その挙句に、3人とも処刑した。
                                             (長江『三好長慶』p33)

細川「澄元」は播磨を経て阿波へ没落、ほどなく失意のうちに死去した。


ふたたび管領職に復活した「高国」は、一度は「澄元」を受け入れた将軍・足利義稙と対立。
1521年(大永元年)、足利義稙は淡路に逃れた。(淡路の後阿波へ)           

そのため「高国」は、
足利義稙・細川「高国」・大内義興の3人で最初に入京した時に近江へ走った、
前将軍・足利「義澄」、の子「義晴」を将軍に擁立した。             (長江p36)



三好之長澄元らが死去したのち、三好氏の家督を継いだ元長は、
細川「澄元」の子・晴元と、足利義稙の養子・足利義維(よしつな)を奉じて再挙を図った。