第三節 錯誤と虚偽

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第三節 錯誤と虚偽

ここでは、史料の
   (2)史料が歴史的対象に対して、
      人間の認識を経由して、人間の論理で整理され、言語で表現されている、
      という関係にあるもの。

について扱う。

 言語によって表現された史料は、錯誤や虚偽によって、その信頼性が損なわれる。
したがって史料の信頼性について考える場合には、いかにして錯誤と虚偽が起こるか、を考える必要がある。 

 錯誤はいかにして起こるか。それには次の理由が考えられる。 

〈1〉 感覚の錯誤 

 人が事件を認識する時、それは多くの感覚的認知が基礎となり、それが統一されて事件の認識となる。
だからまず、感覚的認知に錯誤があってはならない。

 それにはその人間が、

生理的・心理的に病的でないこと、
また、対象に対する距離が正当であること、
妨害がないこと、
十分注意力が働いていること、

等の条件が整わなければならない。

これらの条件が欠ける時、当然錯誤が起きるのである。 

〈2〉 総合の錯誤 

 一つの事件は細かい個々の感覚的事実の総合である。
人の悟性が、その個々の要素を、論理的・心理的に結合させるのである。

 その総合において、常に前の経験や知覚に基づいて、類推が働く。
この際、主観的要素がともなうことは免れない。

 ことに先入観や感情などが働く時、判断を誤り、錯誤を起こすことになる。

〈3〉 再現の錯誤 

 人が事件を述べるには、過去に認識した所を、記憶によって再現しなければならない。

 しかしながら、完全な記憶などというものは、全く例外的なものである。

 そのために、前後の誤り、時と所との誤りなどが、常に起こりやすい。
覚書、自叙伝等において、誤謬のあることは、しばしば見る例である。

ことに時間をへだてる程、その記憶に誤りを生じ、思い違い、脱漏が多くなる。

これには感情的要素も働き、経験的事実に誇大美化等が起こってくる。

〈4〉 表現の錯誤 

 証言は言語的形式において表現される。

しかしながら言語には不完全性があり、内容が常に適切に表現されるとは限らない。

そのためそこに錯誤が入り、証言する本当の内容が、そのまま他人に理解されない、

ということが起こるのである。


 各人が、観察した事実を直接証言する時に、錯覚が起きる一般的な原因は、以上のようなものである。

 このように、直接の観察者の証言にさえ、錯誤が入ることは免れない。

 ましてや、証言者が直接の観察者でなく、その事件を伝聞した人である時、
誤解、補足、独自の解釈等によって、さらに錯誤が入る機会が多いのは、当然である。

 ことに噂話等のように非常に多数の人を経由する証言は、その間にさらに群集心理が働いて、
感情的に、錯誤はますます増加するのである。


 次に、虚偽にもまた種々の系統がある。

たとえば、
自己または自己の属する団体の利害に基づく虚偽、

憎悪心、嫉妬心、好奇心から出る虚偽、

公然あるいは暗黙の強制に屈服する虚偽、

倫理的または美的感情から、事実を教訓的にまたは芸術的に述べる虚偽、

病的変態的な虚偽等である。

また沈黙が一種の虚偽であることがある。

 歴史学の史料としては、利害関係に基づく虚偽、倫理的または美的感情から出る虚偽が、最も多いであろう。

 近代以前においては、歴史目的の誤謬、すなわち歴史を教訓的に、または芸術的に述べる傾向があり、
その記事が倫理化美化されていることが多数であり、
それらの記述を史料とする時は、常に警戒を要する。

また伝記の作者も、自然、この傾向があることを免れないだろう。

 このように、証言的史料には、錯誤または虚偽の機会が多く考えられる。

しかしだからと言って、全面的な歴史的懐疑、または歴史的真実の否定に陥るべきではない。

個々の史料について、その信頼性を吟味し、厳密に方法的にこれらを取り扱う事によって、
ある真実をその中に認識することが可能なのである。

 なお、証言に対して、遺物が補充手段を提供する。
それを利用することによって、証言に含まれる真実を確かめることができるのである。

時には、第二章で取り上げた史料「1のB」(当事者が作った史料の蓋然性を証拠だてる前提条件)が有益であることもあるだろう。



私注:
これは、ほとんどそっくり今井著の文章である。

実に簡潔で鋭く、また要素を網羅しているように思われる。
それなのに、こういう人間観察は、75年後の現在でも、滅多に見ることができない。

私は、何はともあれ、利害関係の錯綜する複雑怪奇な歴史事象を扱っていると、
このような非日常的な感じのする、普段では余り気がつかない文献にでくわすことも多いようだ、
という感想を持っている。

したがって、このような、日常生活からすると一見過激に見える認識も必要だ、と思っているが、
しかし、この文章に似たものは、まだ確認していない。