千年文字「かな」
      かなり古い2005年の文章である。自分でも何を書いたのか忘れたくらいだが、
      なくしては良くないと思って、順不同でUPしておく。  2011年3月23日

                      勉強のはしきれへ戻る        私の仕事内容へ戻る(2012年12月16日リンク追加)

女今川
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          (以下は私が、2004年に別のホームページに書いていたものを、順不同で移動させたものです。
           「変体仮名の読み方」の入門書みたいなものを書こうとしていたのです。

          2012年12月16日現在、まだ整理しないままです。

          私の感想はかなり目障りですが、そのままになっています。2012年12月16日)

2004年11月19日
  **近くの郷土資料館で『女今川寳嶋臺』(おんないまがわたからのしまだい)
  天保9(1838)年発行の本を借りてきました。解読文をUPしておきます。

 
 女性用道徳訓です。女性史では評判が悪い。実物内容を見たのは初めてです。
 
 読んで行くと、この道徳は、夫も両親も嫁ぎ先の舅姑も、
  全員が立派な人達でないと、成り立たないことがわかります。

 
 夫が間違って大変なことをしでかしそうになっても、妻はただつき従う、
  ということしか、浮かんでこない内容です。

 
 夫は天、妻は従えとしか書いてありませんが、世の中こんなに法を曲げ、
  間違っても襟を正さない、変な男が多いのに、一体どうしてくれるの、という気がします。

   
それでも、男をあがめ、つき従えというお題目に、迎合する女性もたくさんいます。
  それが美しい姿だと思いたいという風な。
  これでは一歩間違ったら前時代へ逆もどりです。

 
ダメ男が多いという事実について、新聞の社会面のニュースを大いに活用して、
 男の善悪の社会的観念を、よく考える作業が、必要ではないかと思います。

 
世の中、変な男などいないと思う女性は、全く運がいいだけ、あるいは、
 自分の観念の世界と現実の世界を、照合しないまま、その時々に別々の理屈を引っ張り出し、
 受けがいいと思える理屈の方を口にしているだけではないでしょうか。

 そこを考え直す機会が必要だと思います。事実として、男性も間違うのです。

 
これだけ短い文章の中で字を習うなら、もっと自分の判断力や知識を増やせる内容にしないとまずいでしょう。

 
女は駄目だから自分で考えてはいけない、なんて、
 女性の立場から考えた文章ではない。

 それを女の子が自分で手習うなんて、何だかとてもおかしな光景に
 思えます。

 送りがな、旧表記は今風になっています**

        

 
『女今川寳嶋臺』本文  六歌仙  仮名起の事  女手習絵解  本朝三美人伝

                       
貝桶の図  貝合の図  歌かるたの図  結び方の図

                       
大和言葉       女今川全体観察(研究経過)

  〔本文〕
 
今川になぞらえて自らをいましむ制詞の条々

一常の心ざしかたましく              *かだまし?(心がねじけている)
 
女の道明らかならさる事

一若き女無益の宮寺へ参り楽しむ事

一少しき誤りとてあらためず
 
破れに至りて人を恨むる事

一大事を弁(わきま)えなくうち解け
 
人にかたる事

一父母の深き恩を忘れ
 
孝の道おろそかに成る事

一夫をかろしめ我を立て
 
天道を恐れざる事

一道に背きても栄ゆる者を
 
うらやみ願う事

一正直にして衰えたる人を
 
かろしむる事

一遊びに長じあるいは座頭を
 
群(あつ)め見物を好き好む事

一短慮にして嫉妬の心深く
 
人の嘲(そし)りを恥じざる事

一女の猿利根(りこん)に迷い      *利根はかしこさの意。猿利根は猿智恵か?
 
万事に付け人をそしる事

一人の中事(なかごと)を企て  人の            *中事(中傷)
 
憂いをもって身を楽しむ事

一衣服道具己(おのれ)美麗を
 
尽くし召し遣い見苦しき事

一尊きも賤しきも法有る事を
 
弁(わきま)えず気隋(きずい)を好む事

一人の非を上げ我に智あり
 
とおもう事                  *気隋はおもうままにふるまうこと。わがまま。

一出家沙門に体面すと
 
いうとも側近く馴るる事

一我が分限を知らず或いは奢(おご)り
 
あるいは不足の事

一下人の善悪を弁(わきま)えず
 
召し遣い様正しからざる事

一舅姑に粗末にして人の
 
謗(そしり)を得る事

一継子(ままこ)に疎(おろそか)にて  他人の
 
嘲(あざけり)を恥じざる事

一男たるはたとえ間近き親
 
類たりとも親しみを過ごす事

一道を守る人を嫌い  我に
 
諂(へつら)う友を愛する事

一人来る時我が不機嫌に
 
任せ  いかりを打つ無礼の事

右この条々常に心に懸けらるべき事、珍しからずと
いえども猶(なお)以て慎むべき
ことなり。先ず家を守る
べきには心ざし素直に
して毎時我を立てず
夫の心に随(したが)うべし。夫(それ)
天は陽にしてつよく
男の道なり。地は陰にして
やはらかに女のみちなり。
陰は陽に従う事
天地自然の道理なるゆえ
夫婦の道を天地にたとえたれば夫を天の
如く尊ぶはこれ即ち天
地の道なり。されば幼(いとけな)き
より  操(こころばえ)やさしく素直なる
友にまじわり仮初めにも
猥(みだり)がはしく賤しき友に
近寄るべからず。水は
方円の器(うつは)にしたがい
人は善悪の友によると
いう事  実(まこと)なるかな  (ここ)
を以て能く家を治むる女は
正しき事を好むよし
申し伝うる也。人は善悪を
知り給うべきは  その人の
したしむ輩(ともがら)を見て
うかがひ知るという事
あれば  誠に恥ずかしき
事なり  家を乱す女は
かたましく気隋なる
ことを好むといえば
朝夕我と我こころを
かえり見てあしきをさり
善きに移りすすむべし。
五常の理をうけて
生まれたりとも  あるいは
善人となりあるいは悪人と
かわる事  皆いとけなき
よりのならひによるべし。
男子には聊?(いささか?)おとり
身を修むる道をならわ
しむるというもありと
いへども  女としては学ぶ
人稀なり。此の故に女の
法有る事を知らず、かた
ましく邪(よこしま)になり行く
事、誠に口惜しき次第
なり。いく程なく他の
家に行き、夫にしたがひ
舅姑に仕ふる身なれば、
父母の許(もと)にとどまるは
しばらくのうちなれば、
孝行をつくす事第
一なり。面(おもて)に白粉(おしろい)をかざり
髪かたちを粧(よそほ)ふのみ
にて、心のゆがみを揉(ため)ん
とする人稀(まれ)なり。心ざし
素直に貪(むさぼ)る事なく
ば、まずしく衰えたり
とも恥じならず。邪(よこしま)なれば
富めるといふとも智ある人に疎
まれぬべし。惣(そう)じて我が
善悪を知らんとおもわば、
夫の心穏やかならば、我が行ひ
善しと思うべし。せわしく
短慮ならば、我がこころ
正しからざると知るべし。
人を召し仕う事、日月の
草木国土を照らし
給うごとく心をめぐらし、
その人々に従い召しつかう
べき事なり。

 
(この解読文にはまだ迷いがありますので、その旨ご承知ください。)


  4女手習状絵解                                           200515
   
(おんな  てならいじょう  えとき)  

       

                                           千年文字かなへ       百人一首へ

 
江戸時代、子供たちは7歳くらいになると、読み書きの勉強のために塾や寺子屋へ
通った。身分や性別、それぞれの家の事情などで、学ぶ内容はいろいろだったらしい。

 
浅井潤子編『暮らしの中の古文書』吉川弘文館(1992)に、天保9年(18
38)以降の、群馬県の農村の手習い塾の履修内容の話がある。

 
それによると、まず人名、周辺の村名、広く日本国の国名、それから五人組帳前書、
商売往来、世話千字文といった高度な実学の履修へと移っていったとある。女の子の
履修例があるので見てみると、源平、村尽、国尽、年中行事 、女今川、で終わって
いる。

 
山川菊栄著『武家の女性』岩波文庫(昭和18年・1984年版)には、筆者の実家
が水戸藩で武家の子弟を中心とした塾を開いていたために、その塾の話が出てく
る。〔山川菊栄(1890〜1980)は、社会主義者山川均の妻で自らも論を張った
女性〕

 
ここでは、武家の子弟が学ぶものは専ら漢文の素読と手習い。13・4から講釈を
聞いて、おいおい漢詩漢文の作り方を習う、とある。農村の塾とはかなり様子が違う。
実学はなかったような書き方がされている。水戸と言えば、幕末を彩った水戸国学
発祥の地。それにしても算数なしとある。算盤のことも書いてない。そうなのだろう
か。

 
ちなみに江戸時代の教育家貝原益軒はその著『和俗童子訓』(1710年)で言う。
日本では大家は算数をいやしむが、これは間違っている。男女とも算数ができないと、
財の計算もできず、困窮する。国土の人民の数を数え、米穀・金銀の多少と、軍陣に
人馬の数と兵糧を考え、道里の遠近と運送の労費を計算し、人数をたて軍をやるも
皆算数を知らなければできない。臣下に任せては、おろそかになり、事を間違う。
百年も前に、そう説いているのだが。益軒は、教育世界では男尊女卑の元祖みた
いだが、こういうところはまともだと思う。

      *岩波文庫昭和36年版『養生訓・和俗童子訓』より。この中の最後の
        「女子を教えゆる法」が、後人の手で改修されて『女大学』となった。
     
  『武家の女性』によれば、女の子は、一般的にはいろはを習って、『百人一首』
『女今川』『女庭訓』『女孝教』などを習ったそうである。

 
安政生まれの筆者の母千世は、さらに儒者の娘に『孝教』『大学』『論語』を習い、
『新古今集』などにも近づいたそうだ。しかしこうしたことは、その昔は例外だったと
されている。
 
儒者の娘でも文字は「かな」のみで、漢学には近付かない者も多かったとされて
いる。千世の例は、幕末に至っての例外のひとつのように見える。

 
さて、これから読みたいのは、上記の例では女の子には共通の『女今川』の中に
ある、女子に対する手習い推奨文である。この文は、是非とも読み書きを覚えなさい
と力説している文である。

 
刊行年は天保9(1838)年。女に学問はいらないと言って育てられた、千世の
母の時代、つまり、筆者の祖母の時代に近い頃のものである。しかしながら、この頃
数年間は飢饉が続き、天保8年2月には大塩平八郎の乱、6月にはアメリカ船モリソ
ン号が浦賀に来航して、騒然とした世情であった。

  この手習いのすすめに、「見目形うるわしくても、読み書きができなければ、時の
話にも片言を言い、何となくふつつかな事が多い。目下に見下され、下々にさえ見下
げられ、恥を書く」と出てくるのは、そうした時代背景を踏まえて読む必要があるだろう。

 
また少し寄り道になるが、ここでは取り上げない本文についても、触れておきたい。
本文では、女子がやってはいけないことを列挙している。

 
無闇に宮寺へ参って楽しんではいけない。大事を弁えずに人におしゃべりしては
いけない。夫を軽んじてはいけない。道に背いて栄える者をうらやみ願ってはいけ
ない。正直にして衰えた人を軽んじてはいけない。遊びや見物を好き好んではいけ
ない。人を中傷して人が困るのを楽しんではいけない。人の非を挙げ、自分に智が
あると思ってはいけない。道を守る人を嫌い、自分にへつらう友を愛するようなこ
とをしてはいけない。

 
並んでいる「いけない」ことを見ていると、具体的に実際にそんな人達がいたん
だなぁということが強く思われて、興味深い。『武家の女性』が、藩改革の最中の
質実剛健を絵に書いたような下級武士の暮らしを描いているのに比べると、こちら
はまた何とゆるんだ世界なのだろうか。水戸と江戸の違い、武家と町人の違い、もあ
るかも知れないが、時代の違いというのは、どれほど反映しているものだろうか。

 
では、手習いの勧めを読んでみよう。

 
この文章で読む時に気を付けなければならないのは、(影印)(こと)という、
「こ」と「と」の合体した文字。うっかりすると現代文字の「を」と間違う。


       (この部分の解読は、石川松太郎先生の校閲済みです。私の入力間違いは、わかりませんが)

                 
「女手ならい教訓の書」
   
(本文上部の囲みの中にある文。すべてふりがな付き。左端に挿絵付き。
     
送り仮名、かな遣いも現代風にしてあるので、原文対照する時は注意)
                         


 
夫(それ)今のめでたき御世に住みながら、もの書く事かなわねば、人に
ひとつの疵(きず)にて、常に不自由のみならず、人の中へ出し時、姿容(すがた
かたち)はうるわしくめで度育てられし身も、読み書く事のかなわねば、時の
はなしの詞(ことば)にも、片言をいい、何となくふつつかなる事多き故、卑下
(めした)な人に見悔(けな)され、けしき賤しく見ゆる故、下々にさえ見下げられ、
座敷の付きの悪くして恥かく人ぞ本意(ほい)なけれ。
       
*座敷の付きが悪いという形容は、譬えだろうか?

 
ものかかぬをば、目の見えぬ人と世間に言うぞかし。ひしと目盲(めしい)で
いしゃことに、もはやあかぬという目さえあけて見たさのかなしさは、もしや薬も
あらんかと、神や仏へ祈るぞや。ならば我とあく目をば、一生明かでくらさんは、
かえすがえすも、薄情(うたて)しき。
       
*うたてし−−是非ともそうであって欲しい?

 
程なく頓(やが)てそだちては、もの縫うことを習うゆえ、手を学ぶ間はしばし
なり。猶々年もたけぬれば、彼よ是よと事おおく、筆とる事も疎くなる。幼きうち
何ごとも捨ててならうべし。

 
女たる身はいつまでも親の許にてくらさねば、ゆくゆくよそへ行きし時、他人の中
の住居にて、親類中の人にだに、ものをかかねば侮られ、気遣う方の返事にも拙き
筆の恥ずかしや。

 
急な用事のあらん時我が親里へやる文も、人に聞かさぬことあらば、人して言うに
やりにくし。なお仮筆はならぬゆえ、及ばずながら書きぬれば、こころの程は言い
足らで、里にて見るは、読めかぬる。我がおもわくも届かはで親の気づかうことぞ
あり。

 
人は海山国をへだてたる遠き所のたよりをも、逢て言うより懇ろに、筆にてことを
言いかわす。これ手ならいの徳にして、物書く事はたからなり。外(ほか)の宝は
時として、失う事もあるなれど、わが身の内の宝こそ、火にさえ焼けず失わず、我が
一代の宝なり。

 
古き歌に
「手のうちに  習い置きたる宝こそ  用心せねど  ぬすむ人なし」

 
また年を経し事も書きつけ置けば、幾とせ過ぎしことをも、今知るは、もの
書くことぞ、ありがたき。宮づかえする下々も、物を少し書きぬれば、賤(いやし)
められぬ物ぞかし。

 
ある方の女子(おんなご)の、物干しざおを「おはちか」といいしを、田舎の
ことばとてわらいしに、かの女子歌う。 
   
須磨の裏の  塩たれ衣干す時は  まつの梢(こずえ)も  葉近にぞなる

と源氏にも見え侍る故、どなたにもかくやと言いけるに、笑いし人々、面目なかりし
と聞こえし。
       
*『源氏』に見えるかと探したけれど、?

 
読み書きするうえからは、仮名書物も見ゆるゆえ、世上能(よ)き事悪しき事
悲しき事もたのしみも、人の語らぬ事を知り、自然と智恵も付くものを、世間の
ことを知る時は人の上をも思いやり、我が身の事も省み(る)に、人一代は夫々
(それぞれ)の心程にぞ世をば経(へ)る、身はならわしのものなれば、かしこき
うえも賢かれ。

 
もとより女子は天よりも陰気の生まれなる故に、よろず柔和に身をもてば人の
愛敬あるものぞ。気隋わがままに、猛々しくて気強(じょう)ばり賢やけたる
身持ちをば、人ら疎み悪(にく)むもの。それとて気さき健やかに生まれついたる
人のまた、我と気強(じょう)をおさえつつ、表へ出さぬ人は又、夫(それ)は
めでたき人にして、人の鏡となるぞかし。

 
世上を聞くに大方は家の主(あるじ)が下々の身持ちに悪しきことあれば、家内
おだやかならずして、日々よからぬ事出来て、家おとろうる基なり。また家主も
下々も、皆それぞれに正(し)くして、家内じゅんしゅくする時は、不断愛度(めでたく)
にぎわいて、次第に富貴するものぞ。万のことを知る事も、これ手習いの益なれば、
筆とる事におこたらず、萬(よろず)賢く身を修め、遣う者も慈悲深く、身の養生を
常にして、息才(そくさい)なるが孝行ぞ。千代万世(ちよよろずよ)の末永く、子たち
孫たち繁昌(はんじょう)し、目出度(めでたく)栄え給うべし。
 
女手習い状  終。
 
      (使用された変体仮名の字母の表をつける)





 
日本で「かな」が使われ始めてから千年以上になる。しかし、今でも時々目にすることのある古い字体の水茎うるわしい
「かな」文字の短冊や色紙など、きれいだなぁとは思っても大抵読めない。少し前の日本人は読み書きしていたのに、なぜ
こんなことになったのだろう。その辺の「かな」事情を探ってみよう。

 
現代かなは、明治三三(一九〇〇)年、小学校令施行規則によって制定された、一音一字の四八文字に始まる。(可成屋
編『すぐわかる日本の書』東京美術、江戸かなの本等)
 
しかしこれは、世の中の印刷文書が、すでに広く現行かなに近いものになっていたのを後追いした形であった。実は明治の
早い段階で、使用文字がほとんど現行かなという刊本が現れ、いろいろな字体を取り混ぜたものと競合しつつ、明治三三年
には、刊本の世界では、広く現行かなに近いものになっていたのである。

 
日本人に古い字体の「かな」文字が読めなくなった原因は、この明治初期から三三年までの間に起きた、世の中の字体に
関する認識の、決定的な変化にある。そしてこの明治三三年に確定採用された四八文字のうち、かなりのものが、江戸時代
とは違うものに変わったことで、昔の「かな」が読めなくなったのである。

 
文字の革命はもちろん「かな」だけではない。明治以前は、「私文書」のみならず「公文書」のほとんどが、毛筆による行草書
の字体だった。支配層から下に向かっての命令書も、下から上に提出される報告や願書、あるいは記録も、すべてが楷書体を
くずしたもので、現代人には得体の知れないくねくね文字だったのである。筆と墨を使う場合、くずし字の方が実用的だったのだ
。楷書は、漢籍や経典の中で座を占め、表題・看板・地名・著者名など、目立たせたい単語に使われたりはしていたが、必ずし
も日常的とは言えないものだった。

  明治になって印刷業が発展し、活字を採用するようになると、今度はくずし字ではなくて、カッチリした楷書が主流になった。し
かしそれを「書く」となると、画数が非常に多く、覚えるにも書くにも、きわめて都合が悪かった。

 
こういうわけで、「かな」の字体の比較的早期決着に比べると、なかなか改善が進まなかったものの、漢字制限論も戦前から
多かった。それは主としてビジネス社会からの要請だった。欧米と比較した場合の、事務効率の悪さが指摘されたのだ。

 
その声は第二次世界大戦後、連合軍の戦後処理の一環の中で生かされて改革が進んだ。漢字の字形の簡略化と、使用漢
字の制限という目的を持った当用漢字表が、昭和二一(一九四六)年に制定された。簡略化以前の文字は、旧字体と呼ばれる
ことになった。
 
こうして漢字学習の負担が減り、識字率は向上したが、その代わりに戦後世代は、ほんの少し前の戦前の文章が読めなくな
った。こうした文字改革のおかげで、大量・高速・高度な情報化社会が生まれたが、その代わりに現代人は、過去の世界と絶縁
してしまう事態となったのだ。先祖達が何を考え何をしていたのか、現代人にさっぱりわからなくなったのは、こうした文字改革
のためもある。

 
それにしても、漢字はともかく、せめて「かな」だけでも、読んだりたどったりできるようになれば、水茎うるわしい世界に一歩近
づける。短冊や色紙、掛軸、石碑など、名所旧跡を旅すると、旅先のいろいろな場面で、これらは今も見ることができるのだ。

 
明治三三年かな改革まで、日本人は、一音に対して五・六種類の「かな」文字を使っていた。なぜこんなに多かったのか。

 
そもそも「かな」の書には「字形を複雑にして変化の多様さを表現する」という考え方が存在していたらしい。書としての
「かな」は、書道家の好みの文字で書くことが多かった。つまりは日常あまり使わない草かな(漢字の草書体)も使われたり
した。水茎うるわしい文字が時として読みにくい原因には、こういうこともある。

 
しかし「かな」は、もともと易しさを求めたものだったはずである。実際、平安時代のかな発生の頃の方が、むしろ実用的で
やさしいことを目指したようだ。それが時代を経るにつれ、技巧を凝らした複雑な表現に変貌して行ったのである。

 
このように中には難しいものもあるけれども、まずはわかりやすいものから取り組んでみたい。かな改革の時の、使用頻度
の高い「かな」の字体の入れ代わりについて、例を挙げて説明しよう。

 
例えば別掲の「東海道名所往来」(仮に吉田豊著『江戸かな古文書入門』柏書房・P5)という江戸時代後期(1847年)に
出版された本を見てみよう。地名の勉強のために作られた本である。誰でも読めるようにと「ふりがな」が振ってあるが、この
「ふりがな」、現代人にいくつ読めるだろうか。

 
たったこれだけの文章で、現代文字と違う字が十二個もある。「か」「た」「わ」「れ」「し」「の」「は」「え」「に」「ほ」「け」「ね」。
「の」と「に」は「ふりがな」ではないが、ご存知、頻出の助詞だ。

 
「し」は「し」(字母「之」)と「志」の草書体の二つの使い方が続いている。「ゑ」は戦前まで使っていて、現在でも古文には
出てくる文字だが、版本の字は読みにくい。

 
その他の文字は、「志」ともども、明治三三年かな改革の時に捨てられた。代わりに、同じ音で違う字母・形を持つものが
採用され、その結果、捨てられたこれらの文字は現代人の目に触れる機会がなくなり、ついにほとんどの人に読めなくなっ
たのである。

 
ではここで少し、その他の十文字について検討しておこう。
 
「か」字母  現行文字「加」
                
例文    「可」    (ここに「変体がな」の影印)

 
「た」字母  現行文字「太」
                 例文    「多」      以下               

 
「わ」字母  現行文字「和」
                 例文    「王」

 
「れ」字母  現行文字「礼」
                 例文    「連」
 
「の」字母  現行文字「乃」
                
例文    「能」

 
「は」字母  現行文字「波」
               
例文    「者」
 
「に」字母  現行文字「仁」
                例文    「爾」

 
「ほ」字母  現行文字「保」
               
例文    「本」

 
「け」字母  現行文字「計」
               
例文    「个」

 
「ね」字母  現行文字「祢」
                例文    「年」

 
それにしても何と大きな変更だろう。明治の始めに現行かなの本が出た当時、皆少々びっくりしたに違いない。今まで
多くの人が馴染んだ、「ふりがな」に多用した字を、大幅に入れ換えてしまったのだから。

 
この例で他に注意すべきことと言えば、江戸時代の判本は木版刷りで、ルビでもかなの連綿を使うことだ。上の字の
終わりが下の字の始めになったり、一字を完全に終わらせずに次の字に移ったりして、一字としては不完全になったり
する。例えば「る」の字の上の横線がなくても「る」と読まねばならない。こういう部分も慣れが必要だ。そしてここにはない
が、現行かなに近いと言われればそうかと納得はするものの、字形が違うものもある。また、濁点を補わなければならない
こともある。

 
ちなみに、この文の中の「會(かい)」は、現在では略体の「会」になっている。またふりがなのかな使いにも時代性がある。

 
江戸時代、使用文字をかき集めれば、かなは一音につき五・六字あったというから三百字近くあったことになるが、現行
文字を「平がな」と言うのに対して、この多くの捨てられた文字を「変体がな」と言う。

 
明治の「かな」改革で、日常世界では多くの「変体がな」が捨てられたとはいえ、平安時代から現代まで、かな書道では「変体がな」なしでは都合が悪い。だからこれが読めると、書の世界に一歩近づいたことになるのである。

 
そしてまた戦前の有名人が手書きしたものには「草書」「変体がな」が多い。お札になった樋口一葉の手書き文字も、
女性ならではの優雅な「変体がな」である。それに漢字の「草書」が少し混じるといった具合。しかし大抵の人は、「読み」
を示されても、それをたどることも困難である。漢字はおろか、「かな」の部分もたどれない。書画骨董の世界では、古今の
名筆も有名人の書も、相当な高値を呼ぶ。こうした貴重な書の内容が、全くたどれもしないのは、残念ではないだろうか。

 
そして江戸明治の民衆文字として通用した文字も、先の『東海道名所往来』の例でもわかるように、消えてしまった
「変体がな」がかなりある。ルビの文字が読めると、江戸明治の民衆向けの文章はかなり読める。

 
「変体がな」三百字と聞くとたじろくが、誰でも読めるようにと漢字に振られた「ふりがな」や、子供用・初心者用・日用娯楽
の本の文字が、そんなに数が多いわけがない。かな改革で入れ代わった頻出文字から覚えれば、「変体がな」はもっと
馴染みやすいものになるはずだ。そして一度覚えるとそれは、時には全く判読不可能な難解文字を読ませてくれ、また時
には平安時代の文字さえ、たどる糸口になるのだ。

 
**漢字に関しては阿辻哲次著『漢字の社会史』PHP新書・1999年参照
     
他に参考にした本、小松茂美著『かな』岩波新書1968年


かな研究ノート
                                    『千年文字かな』へ

2005年2月1日

1月20日借り出し

1往来物大系57 地理科往来往来 石川松太郎監修 大空社(影印本)
2 86 女子用往来 女今川
3 87 女子用往来 女実語教・女大学
4句碑物語抄(東京句碑めぐり) 佐藤風人著
5東京文学碑百景 横山吉男著 東洋書院
6平安かなの美 村上翆亭監修 二玄社
7書の宇宙 石川九揚編集 同
8「勉強」時代の幕開け 江森一郎著 平凡社

1月27日借り出し
1往来物大系13 語彙科
2 14 同じ
3 22 教訓科
4 88 女子用往来 手習教訓書
5日本教科書大系 15 女子用 石川松太郎編纂 講談社

*〔文学碑〕
文学碑、都内に570余基あるとある。芭蕉の句碑は全国に1500ともある。
しかし誰も正確には数えたことがないのではないだろうか。鎌倉市内だけでもあち
こちあるようだし、京都や奈良その他を含めると、変体がなを使った碑だけでもた
くさんあるんだろう。しかしどうやって紹介するか、それともはしょるか。

*〔平がな〕
平仮名(現行文字に近いものという意味)は南北朝の尊円親王(1298〜13
56)によって制定されたという説が『平安かなの美』に載っているが、確かさを
確認する方法がない。

しかし往来物大系13には、鎌倉中期にいろは歌を書いたものを、江戸期に出版
したとされるものによると、「そ」が「所」、「お」が「於」、「え」が「江」の
変体がなである他は、現行かなというものが出ている。鎌倉中期というのが本当な
ら、現行かなに近いものが鎌倉中期には決まっていたことになる。

しかしながら、江戸時代を通じて、「そ」は「ろ」(字母曾の変体がな)のよう
な曲がり方をする字だし、「お」は「於」、「え」は「江」の変体がなである。

慶応3年、つまり明治維新の直前になって、現行の「そ」と「え」が出てくるが、
「お」は「於」の変体がなのままという状況である。

しかし明治6年になると、津久井郷土資料館では現行かなの活字の刊行本を確認
できるのだ。(館長さん、どうもありがとうございました)

これら語彙科の往来物では、いろは歌は、いろいろなことを順序よく整理するの
に使われているが、それにしてもふりがなは、自由自在に変体がなを駆使して、い
ろはの制定文字なんか、実用には全く関係ないかのようである。

*〔江戸時代の字典〕

往来物大系14の、江戸時代の文字辞典のいくつかが気になった。日用の熟語を
いろは順に並べたものなど、古文書の勉強によさそうだ。

典型的な行儀よくそろった文字の、江戸時代古文書頻出熟語集が欲しい。大冊で
ないのが望ましい。分厚くて高価なものは手に取る気がしない。

それから名前字典。古文書の署名の解読にはうんざりするが、江戸時代の一般的
な名前にはこんなのがあると知って読めば、かなり親しみがわくものである。

*〔女手習い教訓書〕

例文にしたい郷土資料館のものは、人目に止まっていないものらしい。『「勉強」
時代の幕開け』という本に、同じ挿絵の刊年同じというものが載っているのだが、
頭書きの手習い教訓書の方は省みられていないみたいだ。

しかしこの例文の文章は、他の手習い教訓書に比べて、何やら変におもしろい。
時の話がわからないと言ってなげくところ。座敷が付かないなどと言って、遊女
や芸者なども読者の対象かしらんと思わせるところ。「手の内に習いおきたる宝こ
そ用心せねど盗む人なし」と教訓を和歌にまとめたところ。

読み書きして世間のことを知る時は、人の上をも思いやり、わが身の事も省みる。
こうして、人一代というものは、それぞれの心の程に世の中を生きるものなのだ。
だから賢き上にも賢くあれ。

主人はじめ家中が正しくしていれば、次第に富貴になり、思いやり深く、子孫まで
繁盛するのだから、物事を知るための手習いを怠ってはいけないよ。

なんて、石田梅岩の心学の影響でもあるのだろうか。石田梅岩のことは辞書的
知識以外のものはまだ知らない。

西鶴の世間胸算用を読んでいたら、違う文脈の中ではあるが、主人始め家中が
正しくしていれば、次第に富貴するものだという話が出てきて、共通するものを
感じた。

**〔樋口一葉〕

にごりえと十三夜を再読。台東区の一葉記念館のホームページを見て、短冊と
絵はがきを購入した。一葉って、元々は短歌塾へ行っていて、4000首の歌を
作ったんですって。知らなかった。短冊の字は、江戸風の字に見える。

お札になったせいもあるのか、記念館は建て替えるらしい。




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2005年1月16日 謙堂文庫

13日、柏書房に電話した。ここは近世古文書についての入門書を
たくさん出している所。平安かな名筆の説明に、「弖」を崩した「て」だ
と説明のある字体が、柏書房では「天」の崩しだとなっている。

この「く」のように見える「て」は、平安時代のかなの説明に「弖」とある
から「弖」ではないかと言ったら、若い人の声で、何なんですかその変な字、
そんな変な字、「て」であるわけがない、内は近世が専門だ、
平安時代のかななんか関係ないと言う。

後で、国宝級の日本の名筆の説明がそうなんだから、間違っている
とは思えない、確認してほしい、私は困るんだからと、メールを送った。

平安期名筆に「弖」の崩しと伝承されてきている「て」音の字体が、
近世になったら「天」の崩しだということになっているのでは、
両方並べる私の本では具合が悪い。

来週は、名筆についての本を出している所に聞いてみよう。

14日、石川松太郎先生の所へ行ってきた。謙堂文庫のホームページを
見ただけで、先生のご自宅かどうか、先生がいらっしゃるのかどうか、
判然としないまま出掛けて、直接お目に掛かって、解読文を添削して
いただいてきた。

本当なら、誰か中間に立ってくれる人に、案内を乞うて出掛けるもの
なのだろう。他の方は、こんなことしないでくださいね。

都内は雪がないけれど、こちらは10センチの積雪です。風邪も引いて
いない内に、早く行ってこようと思いました。思いがけない前日のトラブルで
カッカしつつ確認もしないで出掛けてしまい、先生、どうもすみませんでした。

午後は東京都立中央図書館へ行った。入口でバッグ類をロッカーに
預けさせられ、手に何もないのが不安だった。他の人は、透明ビニール袋に
本類などを入れて歩いていた。

!今度行く時は考えておこう。それにしても、ロッカーからバッグを
盗まれないかと、ひどく心配した。小一時間ではすまないことだから。




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2005年1月11日

江戸時代の刊本のことは、検索でなかなか探せなかったのだが、ある時ふと
「往来」を入れたら、出てきた。実家から出てきた『庭訓往来』の内容を知りたい
と思って買った平凡社の本に、「謙堂文庫」というのがあって、どこにあるんだろう
と思っていたのだが、これも検索で出てきた。

瓦版利用の件や、明治の活字印刷のことで、横浜の「新聞ライブラリー」へも
出掛けたいと思っている。

「謙堂文庫」と「新聞ライブラリー」は、今月中にも出掛けたいと思っている。

年末に八王子図書館で10冊借りてきた。去年八王子図書館の利用ができる
ようになるまで、まるで闇の世界に暮らしているような感じだった。やれやれ
と、ほっとしている。

参考文献に入りそうな本。日本名筆選8『粘葉本和漢朗詠集(巻上)』二玄社、
古谷稔著『かなの鑑賞基礎知識』至文堂、前田とし子著『近世女人の書』淡交社、
『古筆半切臨書手本』二玄社、

上野原図書館で『書の日本史』平凡社を見つけた。9巻ある。

往来物大系の、東海道往来、女今川、女大学が載っている、翻刻本をリクエスト中。
鎌倉文学館へ『文学碑めぐり』という本を注文。鎌倉には数十個の碑があるらしい。

この分だと、東京・京都・奈良・奥の細道のルート案内にも、碑の案内があるかも。



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2004年12月27日 『千年文字かな』構成案

1、1章の文
2、かわら版
*1章のルビについての記述の確認の意味で、興味を引きそうな
かわら版を載せたい。
かわら版から新聞への流れについて簡単に触れる。

3、女今川手習い教訓書(津久井郡郷土資料館)
*女もしっかり勉強しようと、熱弁を振るっているのがおもしろいので。

4、小倉百人一首で読む、日本の原風景と鎌倉時代の政治がらみの人生と。
(小野鵞堂書『書道小倉百人一首』マール社1985年より
掲載の「今様百人一首吾妻錦」を使ってかな文字の読み方を勉強)

5、変体がなで書かれた歌碑や句碑の紹介

6、古筆を見る。
高野切・粘葉本和漢朗詠集
(『古筆半切臨書手本・作例147』二玄社2003年より)

元暦校本万葉集
(『文献史料を読む・古代から近代』朝日新聞社2000年P5より)
*古谷稔著『かなの鑑賞基礎知識』至文堂1996年を参考に文章を
考える。

7、女筆
(前田とし子著(ごんべんに央と書く)
『近世女人の書』淡交社1995年より)

秀吉の正妻ねね(北政所)、加賀前田のお松、寺田屋女将お登勢、
坂本竜馬妻おりょうの手紙などを見る。

これとは別に、樋口一葉の筆跡を見る

8、現代の書の中の変体がな

**明治33年、かな48文字(「ん」を入れて)を制定したのは政府だと、
どの本にも書いてある。それ以前から同じ一群の文字で統一された出版物があるのを
見つけたのは、私が最初なのだろうか。

かなの書の先生たちは、筆書きの書ばかり見ていて、明治の頃の印刷物を
見ていない?
新聞がいつから「現代かな」になったかわからないが、活字文化の人達は、
「変体がな」がなくなって、あぁすっきりした、くらいの思いしかないから、
文字文化の激変に関心がない? そういうことなのだろうか。



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2004年12月21日

八王子市中央図書館から借りた本
1、曲亭馬琴・江戸戯作文庫『傾城水滸伝』河出書房
2、新潮古典文学アルバム24『江戸戯作』新潮社
3、小松茂美『かな』(その成立と変遷)岩波新書
4、築島裕『歴史的仮名遣い』中公新書

かなを歴史的に知ろうと思った時、3は必見の文献だと思う。その渉猟した資料
・文献共に、他者にはまねのできそうにない範囲のものだと思うのだ。

初期かなの考察で見ているもの。各地石碑の文、鏡・仏像・刀等各種鋳造品の
銘文、刺繍帳、落書き、古事記・日本書紀、風土記、万葉集、正倉院文書、木簡。

そして言う。記紀・万葉集で一字一音に用いられた万葉がなの数は、973
(大野晋、P37)。その各文字の使い分けの方法を調べると、今の日本語の発音
では同じ「ひ」でも、奈良時代には「非」などのグループで書きあらわす「ひ」と、
「比」などのグループで書きあらわす「ひ」があって、この二種類は決して混用され
ず、つまりは発音が二種類あったことを示している。こういうものが他にもある。
そして「た」と「だ」のような、清音と濁音は、漢字の種類で書き分けられていた。

要するに奈良時代の発音は、使用漢字を一音一字に整理して、なおかつ濁点を
加える表記方法を採用したとしても、いろは47文字では、書き表せなかったのだ。

「平がな」は、最初は漢字で表記された「万葉がな」だった。それを崩した
「草かな」ができた。それをさらに大胆にくずして簡単にしてしまったものが
「平がな」である。

「片かな」は僧侶たちが仏典の講義を聞きながら、訓読を覚えるため、
テキストの行間や字間などに万葉がなを省略してふりがなのように書き入れる方法
を取ったことが始まりである。
『女今川』にで出てきた「いろは歌」の起こりの護命と空海説についても触れて
いる。(P148)音韻の歴史から見て、いろは歌は護命や空海の頃の発音を反映して
いないこと、七五調四句の形式が平安時代にはあらわれていないこと、などから、
この説はおかしいと言う。

とにかく、取り上げている資料・文献の数の多さだけでも、見てみる価値はある本。
それにしても、「いろは47字」の字体はどれ?

**
4は、明治末から終戦まで、日本を席巻した旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)
について。表記方法に国が関与したのは明治以降の話で、それまでは、表記方法に
統一などはなかった。

かな表記の歴史をふりかえると、平安後期以後、発音と表記が合わなくなって
きたのに対し、さまざまな仮名遣いが行われていた。それを、江戸時代の国学者が、
古代の表記方法を調べ始めた。皇国の言葉の始めはどうだったのか、という関心
だったらしい。それを現代かなの字体(ゑ・ゐ含む)+「ん」48字で表現した
のが、戦前行われた、社会的統一性を持った歴史的仮名遣いらしい。

要するに、字体を47字に制限しつつ、表記方法については、明治当時の発音
ではなくて古代の発音に近づけた表記をして、これが日本古来の伝統的な表記方法
だ、ということにした。

と、こう読んでしまっていいのかどうか、本の内容が今の私には煩雑で、
読む気がしない。「いろは47字」の字体はどれ?「いろは47字音」なら理解
できるが。



**
2は江戸時代の版本の写真が豊富。江戸時代の文学・読み物は、漢字かな混じり文
が多いのがわかる。1の草双紙は、もっぱら圧縮平仮名。

漢字で単語の意味とまとまりを一瞬にして把握することができないものは、
いささか読みづらい。
**
復刻本・宮内庁書陵部蔵青表紙本『源氏物語』に目を通すと、大半が「草かな」
と「かな」であるところへ、行・草書の漢字が、ちらりちらりと不意に出てくるの
で、「草かな」なのか漢字の草書なのかと迷い、学校の古典で勉強する『源氏物語』
とはまた一風変わった趣で、読みにくい。これ定家の本だろうか。位置付けがまた
わからない。そして使われた仮名文字の種類を調べると、これがまた意外にも多い。
要するに難しいのだ。

**
ここで歴史学で扱う近世古文書のことを思い浮かべる。江戸時代の人が書いた文書
って、実際に見たことがなくて、高校までの知識から想像するなら、漢字かな混じり
の、漢文読み下し文のようなもの、のような気がするではないか。

しかし実際に書かれた江戸古文書というのは、ほとんどが漢字で、上から下へと、
片仮名や変体がなの助詞でつないで読みつつも、再々漢文式に返って読む。農村文書
ですらそうである。平家物語や西鶴などを思い浮かべると、とんでもない間違いなのだ。

読み物やかわら版などで、かなの多い文章を読まないわけではなかっただろうに、
ちょっと威儀を正すと、皆そうだ。そして史料として残っているものとなると、
威儀を正したものが多いということになる。

この近世古文書の文体は、現代人の知識から脱落している文体だと思う。また、
人々が何を典拠にそのような文体を操ったのかも、私にはよくわからない。

証文文例とか、手紙文例とかで、古文書解読法に載っているような例文が書ける
だろうか。刊本の読み物の文章とも関係ない。

近世特有の言葉が並ぶ文章に、漢文の定型返り文句を使って、助詞「は(者)」
「え(江)」「も(茂)」などに変体がなを使い、漢文の助辞「之(の)」「而
(て)」「而巳(のみ)」「与(と)」などを使う。文末は「候(そうろう)」。
様々な日本的事情を表現する漢字熟語の字典もないと、具合が悪そう。昔の人
だって、状況を表現するのに、漢字には困ったに違いない。

2004年12月22日
「候文」の特徴は、林英夫著『おさらい古文書の基礎(文例と語彙)』の中の
「目次」に揃っている。

「候」は『平家物語』には頻出する、中世に出てきた丁寧語だ。しかし
『平家物語』では平安古典文の表記法の中で出てくるのである。漢文調の返読は
出てこないし、漢文の助辞も使わない。つまり、学校の古文で勉強する、中世の
和漢混交文として習う、漢字かな交じりの文章は、上掲本の目次にあるような
特徴を備えた、ほとんど漢字でできた文章とは、全く違う。

仮に、江戸時代の古文書の「候文」を「中近世公文体」と名付けよう。
なぜ「中近世公文体」は、こうまで文章としては省みられなかったのか。

かなや仮名遣い研究の本で、その日本語表記の研究の歴史をふりかえると、
まずは皇国の始めはいかなるものだったかという国学者の研究姿勢、そして天皇
中心史観が世論を圧倒し続けたことが、その原因として思い浮かぶ。

また歴史学は歴史学で、政治や経済中心の、実態研究が主だった。国語表記の
激変は研究者にとっても激変だった。政治経済に目をやっていると、戦前と戦後
世代の国語理解の断絶の埋め方が、わからなかったみたいである。

しかしながら、「中近世公文体」は、武士が尊んで、その支配のために大いに
活用した、独特の技巧を含んだ文章だったのだ。

それは、近世庶民が日常親しんだ、漢字かな交じりの近世文学や日用文とも、
全く違うものである。庶民は日常、漢字かな交じりの文章に目が慣れているのに、
「公」などのハレの場面では、ほとんど漢字、漢文技巧の交じる和文という、独特の
「中近世公文体」を使ったのである。

江戸時代にも、平安時代から続く和歌や『源氏物語』などの平安文学の流れが、
かな文字とともにあり続け、庶民文化の中で様々に形を変えて生かされ続けたが、
ひとたび「公」となると、威儀を正した「中近世公文体」が登場することとなった
のである。それは昭和の終戦直後まで続いた。




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2004年12月5日
*****
小松茂美著『かな』岩波新書1968年を読む。

この本では、明治33年に変体がなを捨てたことについては書いてあるが、
政府がやったと書いてある。しかし、近くの郷土資料館で調べたら、明治6年の
現行かな(ゑ含む)の本がある。明治23年?くらいになると、少年雑誌は、
しっかり現行かなである。
つまり、政府は民間刊行物の状態を追随しただけらしいのだ。
補強した表紙の上書きを見ただけなので、もう一回確認して書籍をメモしてこよう。
(それにしても単独行動をしていると、見当違いの中傷が広がりかねないのが問題だ。)

草かな...かなについて書こうと思ったら、
漢字の草書の歴史についても知る必要がある。
*中国式の草書と、日本式の草書は、同じかそれとも相当別のものか。
秋萩帖の草かなは、後世の日本で使われた草書と同じというような印象を
持ったけれども、これとは別に、漢字の日本式草書体というものが、
それと認識された上で、あったということを自分で確認しないと
いけない。

*唐様と和様の違いは、筆を立てるような筆法が唐様で、寝かせるのが
和様と理解したが(『すぐわかる日本の書』)、それだけではなくて
崩し方、筆順も違うものということか。
*以上、『かな』P84「止」の崩し方の例より、中国と日本では崩し方
が違うということについて、もっと詳しく知りたい。

P90、12世紀半ばの『夜鶴庭訓抄』の内容より。引用。
一冊の中に平仮名や草仮名など、様々に手を変えて書くのがよいという。
結局は、男手から移行した草は、女手の発生とともに忽然と消え、交替
したというものではないが、書跡の美しさを競い、字形を複雑にして変化
の多様さを表現したところに存在の意味がある。書芸の一つとして、王朝
貴族の美意識の奥底に永く命脈を保ったことが知られる。

********
自分の目的を遠望すれば、今現在自分が何気なく感じている、社会の各所から届く情報
知識についての認識を、過去に逆上らせて再現するとどうなるか、ということをやってみ
たい。
基本的な語彙に関する知識の集積はどうやってきたか。身内・近隣ルート。
学校ルート。テレビ・新聞情報。本情報。看板情報。道路情報。
これらを、明治、江戸と逆上らせたら、情報に類するものは、どのような形で
どこから手にするか。

また、現代社会を飛び交う情報の流れをあれこれ想像するような具合に、
江戸・明治の情報の流れを想像してみる。

現代では、コンピューター経由で情報が瞬間移動したり、テレビによる同時
共有だったり、新聞による一日遅れ情報だったり、大量の出版物だったりするもの。

情報の受信・発信・蓄積体である人体は、目と耳と口と手で、どのように
情報を操作していたか。情報のやりとりは、少し離れただけで紙と筆になる。
武家諸法度とか五人組帳前書などは刊行されていたようなのだが、法令集って
どの程度刊行されたり印刷されたりしたものだろうか。武家諸法度だって、楷書では
あるまい。
日々の用事に近くなるほど、行草書・変体がなになるようだ。
行政に関するものも、見た限りでは全部行草書だ。

決起文とか願文など、神社に奉納でもしたのかと思うような、あまり日常的でない
のが、楷書あるいは楷書に近い印象の文だ。使いわけがあるみたい。

これら農漁村や都市、そして織物・醸造・鉱業・林業などの産業、交通・運輸に
関する文書、商業・貿易、幕政・藩政に関する、行草書の手書き文書の行き交う間を
縫って、刊行物の本や文書がどのように流通し、人や物の移動がどうなっていた
のか、それを想像してみたい。

*****
活字印刷の始まりと、現行かなの始まりとの因果関係が、明確にできない。
平凡社百科事典で「印刷」の項を見ていて、「日本活版印刷の始祖」本木昌造の
名前を見つけた。1824〜1872年。長崎通詞。明治維新前後の通訳にふさわ
しく壮絶に忙しい。50年生きてない。印刷業はその仕事の一部。

1870(明治3)年、長崎。「新街活版所」創設。
同年、門下が大阪に「長崎新塾大阪活版所」を開く。
1870年、横浜に門下を派遣して、日本初の日刊新聞『横浜毎日新聞』の発行の実務に
当たらせた。

1872(明治5)年、門下が東京に「長崎新塾出張活版製造所」をつくる。
1873(明治6)年、同門下?国産初の本格的な印刷機を製造。

近くの郷土資料館にあった一番古い本が明治6年(1873年)だったから
新聞の歴史や印刷の歴史をもっと調べるといいかも知れない。

**** 江戸時代の草双紙の細かくつんだ奇妙な字体の「かな」は、板に「かな」を彫る際、
できるだけ文字を詰め込んで庶民に手の届く範囲の値段にしたいという要求や、判読
可能にしたいという要求などを総合した結果、案出された字体だろうか。

1825年刊の曲亭馬琴作『傾城水滸伝』の復刻本を借りてきた。挿絵の余白に
びっしりひらがなで本文を書き込む形式の読み物である。が、前書きとか後ろの広告
文などは、『女今川』程度の文字読解力がないと読めない。『女今川』、とても合理
的な表記法とは思えないのだが、世間に流通しているものがこれでは、寺子屋教科書もこうな
るだろうと納得はできる。

楷書は、表題・看板・地名・作者名・版元など、単語で囲みになるような部分に
使っていることが多い。
他にひらがなで関係しそうな文献に、女性仕様の手紙というものがある。
『すぐわかる日本の書』に載っている細川ガラシャ婦人の手紙とか、吉川弘文館
『演習古文書選』に載っている女性が書いた手紙とか、引き延ばしたり、不思議な
順序だったり、特殊読みの文字の活用文だったり、するものがある。これに比べれば、
和歌や俳句など、いかに読みにくくても、大したことはないように思える。


**ルビの変化として、江戸時代から明治までの例を並べたい。


5古筆を読む
2007年1月27日
1千年文字かなへ 3百人一首へ 4女手習い教訓書へ

古筆とは「古人の筆跡」の意味である。かな書道では、平安時代中期から鎌倉時代
のごく初期にかけて書かれた、かな中心の筆跡を指す。王朝期の古筆は、『古今和歌
集』や『和漢朗詠集』など、そのほとんどが和歌集である。

これらの歌集は、始めは巻物や冊子だった。装飾を施した優美な紙(料紙)に優雅
な筆跡という、極めて装飾的・調度的な豪華本として、平安貴族の間で珍重されたも
のだった。

こうした王朝時代の豪華本は、時代が過ぎると、当然のことながら残存するものは
数に限りがある。そのために、室町時代に発生した茶の湯の掛け物に仕立てるため、
あるいは江戸時代の古筆収集熱の高まりにともない、完本として伝わってきた古筆
も、どんどん裁断されていった。こうして切られて残ったものが古筆切(きれ)で
ある。

これから読むのは、こうした運命をたどって現代に伝わった、古筆のうちの数種
類だ。かな書道では、解読文は付されてはいても、読み方の説明はあまり丁寧では
ないようだ。

しかしここまで変体がなの読み方に取り組んできた読者なら、それほど難読では
ないだろう。平安古筆はそれなりに特有の文字使いがあるが、それらを押さえれば、
後は慣れ親しむことである。

現代の読者は、和歌自体にあまり親しむ機会がないので、ここでは文字の読み方の
習得と和歌に親しむという意味で、古筆を一首ずつ取り出して、ためつすがめつ読ん
で眺めてみることにしよう。

それが済んだら、カラー大判の平安古筆の入門書がいろいろ出ているので、それら
をたどって楽しんでみると良いと思う。大きな図書館や書店の書道コーナーにある。
こうした古筆の写真版入門書からは、工芸品としての料紙の美しさや豪華さをかいま
見ることができ、そしてまた筆法の解説や古筆の移り変わり、残存する名筆のことな
ど、様々な知識を得ることができるだろう。

予定しているのは『古筆半切臨書手本・作例147』二玄社から、高野切・粘葉本
和漢朗詠集・小島切・香紙切・針切
他に、継色紙・寸松庵色紙・升色紙・元永本古今集の散らし書き

○高野切
『古今和歌集』の最古の写本として名高い。筆跡から3人の書風がわかる寄合書。
その命名の由来は、巻9の巻頭の断簡が、豊臣秀吉によって高野山の僧に与えられた
ことによる。(秀吉の根来寺攻略の際の功により、木喰応其がもらったもの。)以来、
この最古の写本の残りのものはすべて「高野切」と呼ばれるようになった。国宝。

○粘葉本和漢朗詠集
『和漢朗詠集』は、藤原公任撰。当時愛読された和漢の詩集・歌集から朗詠に適す
る詩歌800首を選んだもの。粘葉装という装丁の冊子本で、上下二帖の完本。

漢詩と和歌の混在という性質上、漢字と和歌がなじむように、漢字がまろやかな
和様に変貌している。

**上記二点、全体がどんな感じかわかるような写真と、使用かな文字調査表を
付ける。

古筆の読み方について、簡単に気になる所を述べれば、まずは「よ」と「き
(字母・支)の区別がしにくいこと。第一画の上の横棒が縦線にくっついているか
否かの違いにしか見えない。現代かなの「よ」のような字は、かなりを「き」と読む
と思っていないといけない。

 次は「わ」と「れ(字母・礼)」と「り(字母・利)」が非常に似通って見える
こと。3種類の可能性があると見て、文意に沿う読みを取る。

それから「へ」と「つ」、「く」と「て(字母・弖)」が紛らわしい。

また現代かなの「ん」のような字形、高野切などでは「も(字母・无)」と読む
ものが、香紙切(古筆半切手本)例文6では「も」、例文11では「む」と読み、
寸松庵色紙の「むめのかを そでにうつして とめたらば はるはすぐとも かたみ
ならまし」の有名な書き出しでは「む」と読むという具合で、わかりにくい。