「阿波南部海岸地域の一様相」
ー芝遺跡を中心としてー 林田真典
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1、はじめに
芝遺跡は四国、徳島県南部海岸沿いの海部郡海陽町(旧海部町)芝・野江に所在する。
阿南室戸国定公園内の海岸沿いに位置し、高知県との県境に近い。
芝遺跡は、現在の海岸線より約2キロメートル程内陸に入り、海部川の右岸、
母川とに挟まれた沖積平野の微高地および尾根の先端付近に位置する。
海部川の河口では砂堆が発達し、ラグーンを形成していたと考えられ、郡内一の沖積平野を形成している。(海部町史1971、寺戸1995)
徳島県南部地域ではあまり発掘調査は進んでいないが、当地域では県内2番目の大きさの横穴式石室を備えた
古墳時代後期の大里2号墳(東1997)をはじめ、
中世には材木の生産地(1)、高知県境の防備(2)など、海上交通ルートを中心に注目されてきた地域である。
2、調査成果
芝遺跡では3面の遺構面を確認した(3)。
第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる
掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。
このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。
第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。
旧河道からは外来系土器が多数出土している。
第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃以降の遺構と遺物を検出した。
中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、
時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。
この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、
結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。
この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。
また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居33200では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。
そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。
この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている(4)。
したがって、竪穴住居33200では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、
阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。
3、旧河道出土資料について
旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。
報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239〜溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、
遺物の取り上げを行った。
特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。
下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が
考えられる出土状況が確認できた。
図3は旧河道出土土器の内、実測し、報告書に掲載している個体総数の内訳を表したものである。
この割合が遺跡全体の割合を表しているわけではないが、参考として提示した。
実測総数196個体に対して、
阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、
吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。
讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、
特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。
弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、
普遍化した出土状況は見られない。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる
ようになる。
以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、
吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。
吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。
第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、
なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。
朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。
吉野川下流域地域で、あまり搬入土器が見られない現段階では、吉野川下流域地域を主体とし、
間接的に阿波南部地域が関わっていた場合と阿波南部地域が直接的に交流・交易を行っていた場合が考えられる。
そして、土佐のタタキ甕や布留式土器などが本遺跡で出土したことは、吉野川下流域地域を主体とした間接的な
交流・交易を行いながら、他地域との直接的な交流・交易も行っていた可能性を示していると推定される。
4、周辺の遺跡の様相
本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において
若干の土器が採集されている。
東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。
時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992)
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに
限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。
5、まとめ
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、
本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、
出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、
芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、
本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿いルートを想定できる遺跡であり、
海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。
末尾になりましたが、調査・整理においてはお世話になった早渕隆人先生(海部小学校)、
原稿の機会を与えていただいた石野博信先生(徳島文理大学・香芝市二上山博物館館長)に深く感謝します。
(北島町教育委員会)
註
(1)「兵庫北関入船納帳」
(2)宍喰城・海部城・日和佐城などの城館が存在し、長宗我部元親による阿波侵攻においても、
阿波南部地域が真っ先に侵攻されている。
(3)本稿は2006『芝遺跡』海部町教育委員会発行の報告書をもとに考察を進めているが、紙面の都合により、
詳細な発掘成果については省略している。詳しくは報告書を参照していただきたい。
(4)『芝遺跡』掲載。魚島純一氏(徳島県立博物館)に分析していただいた。
引用・参考文献
東潮他1997 『阿波海南大里2号墳発掘調査報告書』徳島大学考古学研究室 海南町教育委員会
大久保徹也1990 「下川津遺跡における弥生時代後期から古墳時代前半の土器について」『瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査報告[
下川津遺跡』香川県教育委員会
岡山真知子1997 『辰砂生産遺跡の調査ー徳島県阿南市若杉山遺跡ー』徳島県立博物館
岡山真知子2000『鮎喰遺跡』(財)徳島県埋蔵文化センター
岡山真知子2002「弥生時代終末期における水銀朱の生産と流通ー徳島県出土資料からー」『論集 徳島の考古学』徳島考古学論集刊行会
近藤玲2002『矢野遺跡(1)』(財)徳島県埋蔵文化センター
菅原康夫1992「阿波弥生 時代終末期社会の特質」『考古学と生活文化』同志社大学考古学シリーズX
菅原康夫1989『黒谷川郡頭遺跡V・W』徳島県教育委員会
菅原康夫・瀧山雄一2000「阿波地域」『弥生土器の様式と編年 四国編』木耳社
出原恵三1997「高知平野の古式土師器T・U基について」『小籠遺跡V』(高知県文化財団埋蔵文化財センター
寺沢薫1986「畿内古式土師器の編年と2・3の問題」『矢部遺跡』奈良県立橿原考古学研究所
寺戸恒夫1995「地形 第一節・第二節」『海南町史 上巻』海南町史編纂委員会
古田昇2001「徳島県海部川下流域平野の形成と地形環境」『徳島地理学論文集 第4集』徳島地理学会
村上泰道1998『倭人と鉄の考古学』青木書店
柳瀬昭彦他1977『川入・上東』岡山県埋蔵文化財調査報告16 岡山県教育委員会
海部町史編集部1971『海部町史』海部町教育委員会
手持ちのコピーの表題が
「ふたかみ邪馬台国シンポジウム6・資料集」
奈良県二上山教育委員会・二上山博物館『邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和』 p177〜180より
*奈良県香芝市二上山博物館(香芝市ホームページ) *サヌカイトの奈良県二上山博物館
私感想:
自分勝手に想像するところによれば、魏志倭人伝に見るように、中国との交流が始まったことで、
対外的な緊張感を覚えた弥生人たちは、国家の元を作るべく、国土と住人の調査と交通路の確立を急いだのであろう、
と考えるのです。
それが3世紀のことで、海部もその活動の一端を担った地域ではないでしょうか。