芝遺跡の発掘成果 その1(全文)
2005年(平成17年)海部公民館報第145号 林田真典
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昨年度1年間の発掘調査で、
鎌倉〜室町、いわゆる中世(約700年前)と、
弥生中期後半頃(約2100年前)、
古墳時代初期(約1800年前)の遺構を主に確認しました。
今回はまず、古墳時代初め頃の芝遺跡を中心に概観していきます。
調査区の西端を、南北方向に流れる、旧河川跡を検出しています。
溝の幅は不明ですが、深さは平均して1.1メートル〜1.3メートルを測ります。
切りあっている個所もありますが、流路の変更、氾濫がかなり多くあったと考えられ、
時期差はあまりなく、一つの河川の跡と考えられます。
川跡からは当時、捨てられたと考えられる土器が大量に出土しています。
出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃に製作されたと考えられます。
徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、
他地域で製作された土器が多く出土しました。
最も多いのは徳島で、おそらく吉野川下流域や鮎喰川流域で製作された土器が運ばれたと考えられます。
この時期の代表的な遺跡をあげると、黒谷川郡頭遺跡、鮎喰遺跡、石井城ノ内遺跡などがあり、
特に黒谷川郡頭遺跡では物資の流通を担っていたと考えられており、
他地域で製作された土器の他に、水銀朱・蛇紋岩製の勾玉なども出土しています。
近年の発掘調査により、これまで不明であった、徳島の3世紀の歴史が明らかになりつつあります。
ところで、芝遺跡では3世紀の外来系土器が多く出土しています。
今の所、これだけ多くの他地域産の土器が出土した遺跡は、県内では見つかっていません。
特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、出土点数は限られてきます。
ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、多く土器が出土したと考えられます。
海部は徳島沿岸地域にあり、徳島ー高知間の海上交通の要衝地と認識されていたのだと考えられます。
おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していた。
現在、出土品の整理段階で調査面積も少なく、推測の域を出ないが、おそらく、
この3世紀の時期に徳島ー高知ルートとして、海上ルートが開発されたと考えられます。
このことは、銅鐸が吉野川上流域の西祖谷山村では出土しているが、県南部では、阿南市以南では出土していないことや、
芝遺跡で、突如として、他地域の土器が多く出土していることからも肯定できると思われるだろう。
(私注:同じ筆者による別報告では、弥生時代中期中ごろから後半にかけての
円形周溝墓4基、竪穴住居では鍛冶炉、鉄切片・小破片、サヌカイト片、水銀朱が確認できたそうだ。
土器の実測数196に対して、阿波97個体、畿内39個体、在地36個体、讃岐7個体、土佐3個体、吉備3個体。)
林田真典「阿波南部海岸地域の一様相・芝遺跡を中心として」
そして、この時期に海上交通ルートが整備されていき、後の「土佐日記」にも記載されるような
重要なルートになっていったのだと考えられます。
ただ、この時期に室戸岬経由であったのか、それとも、野根ー奈半利を抜けるルートだったのか、
また、他のルートがあったのかは、分かりません。
また、今回の調査では弥生時代後期後半〜古墳時代初め頃にかけての住居跡も見つかっています。
徳島県でが竪穴住居の平面プランが円形から方形に変わる時期が
弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃にかけてと考えられており、
芝遺跡でもほぼこの時期にあてはまっていると考えられます。
住居に伴う出土遺物は少ないですが、方形住居では台石が出土しています。
3世紀という時代は、各地で他地域の土器が大量に出土することが多く、
頻繁に人が行き来したと考えられています。
(私感想:この時代、自給自足的な定住生活の痕跡ではなく、移動・探検者たちが各地で痕跡を残したらしい。)
また、前方後円墳という、非常に特徴的なお墓が造られ始める頃でもあります。
今の所、阿南市の国高山古墳以南では前方後円墳は見つかっていませんが、
汎日本で移りゆく時代の中、海部の人々がどのような生活を送っていたのか等々、
発掘調査により、具体的な遺物・遺構から推測できるようになり、
さらに、詳細に歴史を明らかにしていけること。
また、貴重な祖先の遺産をどのように守り伝えていくか等、今後の課題と考えられます。
(私感想:3世紀から開拓されていたのなら、古墳時代には海上交通の要衝として、
ランドマーク的に国内に5200基も建造された前方後円墳が、
ここにあっても、何も不思議ではない、と思うのだが)