シンポジウム質問
        (「大航海時代と日本・スペイン関係」というタイトルで、スペイン人研究者の方たちが講演されたシンポジウムで聞きました)
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(1)四国の太平洋側、徳島県の「海部」という所の出身者です。

江戸時代の鎖国している日本へ、スペイン船が寄航し続けたという可能性について、お考えを聞かせていただきたいと思います。

スペイン船は250年間、毎年太平洋を往復しつづけました。しかもサンフランシスコ号のように373人という多くの乗船者を運んでいました。

そして、日本側では支配者の交代が相次いだ1600年前後に、今私がわかっているだけで、サンフランシスコ号を含めて6隻の漂着が確認できます。これからすると、ガレオン船の航路は日本に相当近いと思われます。

(よく考えてみると、長宗我部氏も、1575年に海部を落としてから、蜂須賀氏が入国する1585年までの約10年、海部支配の経歴があります。ガレオン船が1565年から海部の那佐に入港していたという仮説を前提とするならば、1596年にスペイン船が浦戸に行ったというのは、長宗我部氏をあてにしていた、ということになる可能性もあります。)

日本に安定した補給地があったからこそ、ガレオン貿易はなりたったのではないでしょうか。

 冷蔵庫のない時代、水や食料はすぐに腐敗したと思われます。人々の命を保証しないで、毎年航海できたとは、とても思えません。ガレオン船は、日本へ寄港していたのではないでしょうか。



(2)マゼランは、まずポルトガル艦隊で東回りでマラッカに行き、次にスペイン派遣の船隊で西回りでフィリピンに到達したわけですが、マラッカとフィリピンの両方で、毎年、琉球船が数隻の船団で来ていたという報告がなされています。(注1)その琉球と日本の交通は、盛んでした。

 つまり私が言いたいのは、マゼランがフィリピンに到達した頃に、琉球船を通じて、フィリピンと日本を往復する航路は、すでにあったということです。さらには、1565年以前に、日本人がフィリピンに行っていたという報告も、セビリアのインディアス文書館にあるようです。(注2)

 ポルトガルと衝突しないように、スペインは必死で、太平洋を東回りで帰る航路を探していました。しかし、北上して日本へ向かえば、航路も水・食料もあり、さらには、高い緯度の地帯には、西から東へ吹く風がある、という予想もあったようです。



(3)それから、1565年以前に、フィリピンでたくさんの金が見つかっています。(注2)現代も、地質学的に見て、金鉱脈がたくさんあるようです。(注3)ガレオン船は金を運んでいたのではないか、と思うのですが、こちらはいかがでしょうか。
                  (ただし3は、司会の方の判断に従って、質問していない)


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(注1) 的場『ジパングと日本』p90〜92、1518年「マゼラン報告書」スペイン海軍博物館図書館)・1521年「マゼラン遠征隊記録」
     
あるいは、ピガフェッタによるマゼラン遠征隊の記録(岩波書店の大航海叢書1)、p.583、
「レキー(Lechii)の住民たちが六隻から八隻のジャンク船で毎年この島(ルソン島)をおとずれる。」

(大航海叢書に1521年「マゼラン遠征隊記録」があり、琉球のことが、あやふやな形で出てくることについては、東京外国語大学A先生より情報をいただきました)



(注2)的場『ジパングと日本』p178〜181

(注3)『フィリピンの事典』の「金」項目、同朋舎1992



質問内容を事前に書いて提出したのですが、司会者は迷惑そうでした。

  「キミー、困るよ。ここは友好をうたう場であって、議論をする場ではない。」

私は、かくかくしかじかの理由によって、そのような可能性はない、
という回答でもあるならともかく、

聞いたことがない、というスペイン人の先生のお話では、

どうして可能性の是非が問題にならないのか、
と、そちらの方が不思議でした。

みなさん、興味深い問題ではないのでしょうか?

何だか、霧でできた雲の上で、この雲はしっかりしていて、上を歩けるね、

とでも言い合っているような、

非常に不安な感じがします。