秦始皇帝・ペルシアとの類似点
中公バックス『政界の歴史1』(1982年版)より
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(注意:私の仮説の「傍証となりそうな部分だけ」を抜粋)
ペルシア帝国との類似点
中央集権「郡県制」(p203)
始皇帝は、まず全帝国を36郡に分け、さらに郡を県に分けた。
郡には守(しゅ)という行政長官と、
尉(い)という軍政長官をおき、
帝国から任命する直接統治の機関とした。
この中央集権的官僚組織である郡県制は、
統治組織に関する限り、中国の最後の王朝である清朝の滅亡(1912年)まで、
多少の変更はありまがらもずっと続いた。
だから、その意味で、始皇帝を中国最大の政治家と言っても良いであろう。
度量衡・車輪の幅・文字書体・貨幣の統一(p204)
その頃まで天下が7国に分かれていたため、度量衡をはじめ、あらゆるものが
各国それぞれ異なっていた。これでは統一国家を運営していくには、まことに不便である。
始皇帝はまず度量衡の単位を統一した。ついで車輪の幅を統一した。
なぜこんなことをしたかというと、中国の黄土地帯の道は、車の通った後には深い溝がついてしまい、
ちょうど凹んだレールのようになるから、車軌が一定でないと具合が悪いからなのである。
次に文字の書体を統一した。各国それぞれの書体があったのではないが、
6国と秦とが違っていたのを、秦の書体に統一したのである。
統一以前は貨幣の単位も各国さまざまで、刀、布、円銭、銅貝などがあった。
刀は斉燕趙など北方諸国に流通し、
布は韓魏趙、円銭は秦などの西方に、
銅貝は楚などの南方に流通していた。
そのほか金も戦国時代から千金、百金といって高価な貨幣としてつかわれていたが、
これもその単位がまちまちであった。
このような状態を統一するため、始皇帝はまず金を上幣として単位をきめ、
つぎに半両銭という穴あき銅貨を制定した。
これこそ帝国全土を一つの市場とするための経済政策の基礎となるものであった。
当時の秦の領土は、東は渤海の遼東半島をへて朝鮮にせまり、
北は万里の長城の線、西は甘粛省の蘭州付近まで、
南は現在の北ベトナムにまでおよんでいた。
殷や周の領土が准水(わいすい)から揚子江流域、
つまり東は現在の北京まで、西は陜西省あたりまでであったのにくらべると、
秦の領土はその2〜3倍にひろがったわけである。
これは現在の中国人の居住領域である中国本部をおおってなおあまりがある。
その意味で、秦は地理的にも中国民族の居住区域を決定して、
現代中国の基礎をおいたものと言ってよい。
万里の長城と行幸道路の建設(p205)
統一が完了すると、始皇帝はただちに東方の新領土へ巡狩(行幸)にでかけた。
まず天下第一の名山である泰山にのぼり、
天地神をまつり封禅(ほうぜん)という盛大な儀式をおこない、
ついで山東半島の海浜や各地の名山をめぐった。
その後も毎年のように巡狩がおこなわれた。多数の人員をしたがえ、
何百台という車をつらねるこの巡狩のたびに、その地方には坦々たる大道がつくられ、
行く先々で盛大な儀式や宴会がおこなわれた。
巡狩の本当の目的は道路の整備にあった。大きな国家は、道路網は整備されていなければ
統一を維持することができない。
始皇帝が巡狩のためにつくらせた道路は、幅が67メートルもあり、
両側には7メートルごとに松を植えて並木とした。これを馳道(ちどう)といった。
これが領土内に四通八通したことは、ローマ帝国の道路を思いおこさせるものがある。
西周時代にも西安と洛陽をつなぐ周行という大道があったが、
全国的な道路網をつくったことは、始皇帝の大きな意義である。
(略:万里の長城)
石碑{p209)
始皇帝はさらに自分の功業を永久に遺そうとした。
この考え方は皇帝みずから自己を神聖にしようとしたものである。
これは泰山その他の名山にのぼると石碑、
といっても適当な自然石に手を入れただけのものであるが、
その上に自分が天下を統一しここに巡狩した功業にたいする自画自賛の文を彫りこんだ。
現在ではその原石の1部分が残っている。
また度量衡統一のとき全国にくばった権(おもり)などにも同様の文章が彫られている。
またそれらには各地方の人民にたいする道徳的訓戒も彫られていた。
石に銘文を彫ることは、この始皇帝にはじまったものである。
泰山の碑が紀元前219年であるから、
それ以前のものと称する中国の石碑はすべて偽作である。
西南アジアには有名なベヒストゥンにある
ダリウス王(前521〜486年)の功業をたたえた碑文をはじめ、
石刻が古くからおこなわれていた。
石に文字を彫る習慣は、あるいは西方から中国に伝わったものかもしれない。