史実の証明という考え方の社会的必要性
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私たちは、「歴史」と聞くと、それは「事実」だ、と考える。
しかし、なぜ事実だと言えるのか、と聞かれると、はっきりした考え方を持っている人は少ないだろう。
「歴史として勉強する事柄」を歴史だと思い、
「歴史として流通している事柄」を歴史だと思っていることが多い。
これは要するに、
「発言者が先生だから、著名な人だから、
あるいはメディアが言うから、メディアが取材するほどの権威者が言うから、
国が言うから」
歴史である、事実である、
と思っているに過ぎない、ということになる。
そして、では
「過去に実際にあったことだ」というのは、どのようにして「証明」されるのか、
となると、
一般社会向けには、大学の先生でも答えない。
それが、現代の状況である。
しかし、このような基本的なことについて、社会がそんなことでいいのだろうか。
誰もが、歴史的事実は証明される必要がある、と考えているのに、
実際となると、多くの人が「発信者の権威だけに頼る」ことになっているのだ。
これはおかしい。私は、「歴史」と「証明」の問題は、社会全体の問題であると思う。
いかなる権威者も、利益誘導や脅迫には弱いものである。
それは普通の人と、そう違うわけではない。
権威者が誘惑や脅迫に負ける可能性がある、と考えたら、
どうして安易に権威者に頼れるだろう。
私たちは、権威者に頼ってばかりでは、いけないのである。
誰もが、「事実」を巡る「証言」の周辺に、いかなる問題が潜んでいるかを認識しておく。
これは、権威者が誘惑や脅迫に負ける危険を、減らすことができる。
なぜなら、そういう状況ならば、権威者は、誘惑や脅迫に対抗して、
「それは世間には通用しない」と、言い通せば済むからだ。
世論操作、情報操作という事態を避けるためには、一般社会が、
歴史と証明の問題について、一通りの知識を備えておくことが大切だと思う。
では、「過去に実際にあったことだ」というのは、どのようにして証明するのだろうか。
それについては古くから、一部の歴史学者の間では、
その考え方や方法について、いろいろな考察がなされてきた。
私は、その考え方や方法について、今一度、簡単にその要領を確認したいと思う。