徳永道男氏の手紙

                                           父と特殊潜航艇に戻る


徳永氏は、私の父が脱出の時に指揮をとっていたのは間違いない、
と、手紙に書いてきてくださいました。

    「 沖縄脱出も、5期講習機関科教官佐藤満上機曹(死去)等による考えも、(私注:考えでも?)

     正夫氏は常にリーダーで、帆のつくり方、オールの作成、水、食料の確保、数日分の用意、又、舟の破損部分の修理等、

     脱出については、コンパスによる方向、沖縄本島から、東北、どこにどんな小島があるか調査していた。

     脱出については、陸地にいても心身ともに極限状態、いずれ死ぬ、

     海軍軍人であれば、海の上で死ぬも本望であるの結論(10パーセントの希望)

     荒れ狂う海で、舟の舳先に立って、褌一枚驟雨の中、

     「とり舵いっぱい」で大声で指揮をとるのは日浦正夫、今も目にうかびます。」



 日浦正夫という名前は、父が実家に成人養子として北海道からやってくる前の姓名です。
大正9年生まれ、21歳くらいの隊員の中では、経験豊富な年長者だったみたいです。

 添付の特潜会報(昭和61年4月5日)では、「数百隻にのぼる敵戦艦の間を脱出できた」とあります。


同じく添付の自筆資料には、山岳戦の様子を、以下のようにも書いておられます。


   「生きている日本兵を、米軍は連日のごとく、沖縄住民を案内人とし、軍用犬を連れて山狩りをする、
    そして銃撃戦を繰り返す、

   食料なく、夜は蚊の大群になやまされ、
   マラリヤにおかされて41〜42度の高熱でけいれんを起こす者、
   また、有る者は猛毒のハブにかまれて数時間で意識がもうろうとなって死に至る。

   草を食い、沢がにや、谷川の魚を食う、激しい下痢、傷口にはウジがわき、その肉の腐敗臭はやりきれない。

   髪もひげも伸び放題、ほほはこけ、目は血走り、あかと血によごれた形相は、正にこの世の鬼の姿なり。」



 山中ゲリラ戦で67名が戦死したそうです。


 『沖縄戦敗兵日記』にあった、為朝碑近くの、軍の食料備蓄が使えたかどうかは、以上の手紙の内容では、読み取れません。

 そういえば、私の父は、片手でヒョイと蚊を捉えるのでした。実に巧妙で、家族もまねしてみるのですが、難しかったです。