父と特殊潜航艇

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父と特殊潜航艇を結び付ける記憶というのは、私が10歳くらいのことなのだろう。

知り合いの大工さんに、酒の席で戦争中のことを聞かれ、
「もう『20年もたった』んだから大丈夫だろう」と言って話しはじめた
ように、思うからだ。(兄はそのころ、下宿して進学校だった。つまり兄は知らないのだ。)

私が聞いたと言っても、この父の特殊潜航艇がらみの話は、
酒の席のことが耳に入ったような気がする、という聞き方で
しかないので、はっきりとはしないのだが。

秘密兵器の3人乗りの特殊潜航艇に乗っていたこと。沖縄から脱出してきたこと。自分が脱出を指揮したこと。

大工さんは大層感心して「お前は英雄だ、すごい」としきりにほめあげていた。

ところがしばらくすると

「お前の話は嘘だと言ってる。

沖縄から脱出した人間なんかいない。

3人乗りの特殊潜航艇なんてものは存在しない。

軍隊は極めて厳しい上下関係があって、
小学校しか出ていない者が指揮をとる、なんてことはあり得ない、

とんでもない、真っ赤なウソである。

そう言ってるぞ。」という話が入ってきた。

祖母も母も困惑した。

「正夫さんが嘘をつくだって? 分からん。嘘をついたりするような人じゃない。
だけど、他の人が嘘をつくとも思えない。」

父は戦友の誰かに電話して相談したみたいだった。(私もどうしたのか、その場にいたような気がするのだ。)

相手の人は、どうやら「秘密兵器のことだから、言ってはいけない」と、答えたようだった。
「もう20年もたってるじゃないか」と
ぶつぶつ言いつつ、父は周囲の困惑をおさめるために、説明するのを、止めてしまったらしかった。


しばらくの間、大工さん仲間にひろがった、
沖縄特殊潜航艇の話と、それが嘘だという話は、混乱を招いていた。

結局、父という人間は信じるけれども、この話はもうやめだ、というところで収拾されたみたいだった。

大工さんたちはこれで良かったのだ。これで納まった。
しかし問題は、父の話は全部嘘だと言った、この話の出所である。


人つぶし教師・人つぶしの世界A            人つぶし教師・人つぶしの世界@

6年担任の寺島弘隆氏が、私たち小学校6年生に対して、随分と詳しく沖縄戦のことを語り、

沖縄はアリの隙間もないほどに米軍に取り囲まれていて、
沖縄を脱出するなんてことはできなかった、わかったね、と、執拗に説明していたからだ。

私の実家に、大工さん経由で入ってきた話では、大嘘だと断言した相手は、
本で戦史を調べて、父の話は戦史に載ってない、私の父は全くのまるごとの嘘を付いた、と判断したようなのだ。

体当たり攻撃の「回天」なら話が載っている。
しかし3人乗りの秘密兵器なんてものがあるものか。
20年もたって、本に載ってないじゃないか。

結局、何も知らない馬鹿な男だ、わからないと思って威張りたくて嘘を付いたんだな、
調べればそんなことはみんな分かるんだぞ、ということらしかった。

   (そういう話が、道行く会話として「聞こえた」ような気がするわけである。
   じゃあ一体、父は戦時中どこにいて、何をしていたと言うのか。

   言えないところで、いい加減なことでもしてたんだろう。
   だいたい、お国のために死んだのならともかく、逃げて生きて帰って来た話なんか、いいことであるわけがない。
   わかったか。そんな流れだったようだ。

   人によっては、逃げたんだな、軽蔑、という話に転換するのも驚きである。)

私は父を信じない理由などなかったので、担任が何を言おうと、父の話は秘密兵器のことなんだと、思っていた。
他人が何を言おうと、これは私の考えには影響しなかった。

しかし、この父が大嘘つきである、という話の出所は、私は寺島弘隆氏ではないかと、深く疑っている。
これが問題なのだ。

私が高校か大学一年の時に、『特殊潜航艇』の著者である佐野大和氏が訪ねてくるまで、
これが身内でも周知のことになるような気配は、全くなかった。
佐野氏の本の出版は1975年、終戦から丸30年のことだ。

兄が時々酒の席で父に戦争時のことを聞いていた。
その波打つ酒話を又聞きして、私は結構途中経過の違う話を作り上げつつ、
父が特殊潜航艇乗員で、沖縄を脱出したんだ、という理解で満足してしまっていた。

家族の誰も、佐野氏の本の該当部分をきちんと読んだ者はいなかった。

父は阪神大震災の少し後くらいに入院先で逝った。

私が中学校の頃、戦友の金近氏が、電話で、私に、父のことを説明しようとしていたことがある。
それによれば、父はスーパーマンだという話であった。

二度目の出撃で故障したとき、その状況は100メートルくらいまで?の沈下だったのだそうだ。
その危機を、父のとっさの処置で急浮上に切り替えることができたらしい。

米軍上陸後のことらしいのだが、
突然父が、金近氏の腕をつかんで沖縄特有の巨大な墓に引っ張り込んだそうだ。
直後に激しい銃撃にさらされ、それはまさに間一髪だったそうだ。

そして沖縄脱出の時に、指揮をとったのは父である。

以上は実家の酒席での話や、漏れ聞きなど、私の聞きかじりだが、
金近氏の話は、これらの事も含んでいるらしかった。

脱出の時に指揮をとったのは父である、ということについては、
特潜会員で、共に沖縄を脱出してきた徳永道男氏から、手紙で証言をいただいている。 徳永道男氏の手紙

父との軋轢がいろいろあったので、そこまで聞いたところで、私の心がプツンと切れてしまって、
徳永氏との連絡は、そこで切れてしまった。

父は説明ということをしない男だったので、何を考えているのかさっぱりわからなかった。 

沖縄では、日本兵が住民に対して被害を与えたという話がもっぱらである。
父達が食料がなくなって部隊を解散した後、8月まで、どうやって食料を手に入れたのか、
私も気になって聞いたことがあるのだが、「為朝のーーー」というつぶやきしか返ってこなかった。

『沖縄戦敗兵日記』という本を読んでいたら、源為朝の遺跡?のあたりに、
軍の食料貯蔵庫があった、という話が出てくる。
この貯蔵庫が、山中にこもった兵士たちに、かなりの食料を補給した話が出てくる。

父たちが最初にいたのは、まさに為朝碑のある運天港なので、
父達は、住民に迷惑をかけることなく、この貯蔵庫の食料で食べていけたのだろう、と、私は推測している。

脱出した沖縄の平良の港とは、現在の国東郡東村平良の平良湾のことだろうか。


  2002年4月出版の学研・歴史群像35・太平洋戦史シリーズ『甲標的と蛟竜』に私の父の名前が載っています。(p180)
コンピューターグラフィックスを使って、特殊潜航艇をリアルに再現した本です。

佐野大和『特殊潜航艇』沖縄蛟竜隊
                

 Yahooのページ検索で特殊潜航艇艇長の訓練を受けた方の手記を見つけました。「沖縄・特殊潜航艇・運天」で出てきます。
http://homepage2.nifty.com/rockshome/
 佐野著ではわかりにくい、心理というのが随分書かれていて、内省的な方だったのがわかります。
佐野著でも、「沖縄蛟竜隊の最後」の章の、一つ前の章に、この方の手記が使われているようです。