『土佐物語』1708年より
島弥九郎事件と『土佐物語』へ戻る
昭和46年版『海部町史』P46にある、島弥九郎事件の部分を転載する。
おもしろいが、だからと言って、内容を信用してはいけない。
これが史料に見えるようなことでは駄目だ。
都に上り治療せんと、元亀二年の春、浦戸より舟を出す。
阿波の沖にて風変り、浪荒ければ、
海部の城主
「長曾我部
宮内少輔(くないしょうゆう=元親)に宿意あり」
と弓鉄砲を放しかく。
弥九郎、病床を
と云うままに、主従
「我、弓矢の家に生れ、病臥に死さば無念ならん。戦場に命を落すは、武士の本懐なり。後代に名を汚さず、討死せよ」
と、真先かけて陸に上れば、郎党共、切先を並べ打上り、大勢の中へ駆入り、
越前は、郎党若干討たれたれど、弥九郎を討取り、
そもそも越前守、宮内少輔に宿意あるは、土州安芸の領主、
海部は国虎の一族なれば、安芸の落人、海部をたのみて居たりけるが、元親の舎弟と聞きて、
旧主の讐を報いん為、越前にすすめたりという。
元親これを無念とし、海部めが首取りて、仇を返さんと申されける。
疑問点
島弥九郎事件は、長宗我部氏が安芸氏を滅ぼした後に発生しました。このような時期、周辺国では警戒が高まっているでしょう。
本気で湯治を考える時期でしょうか。できることなら、征服後の安全な時期がいいでしょう。
そしてもし湯治が本当なら、予告・挨拶など、事前に安全を確認した上で行動するでしょう。
調査課題
『土佐物語』の筆者が、どういう人物かがわかっていない。