島弥九郎事件と『土佐物語』
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昭和46年版『海部町史』p46に、『土佐物語』の島弥九郎の部分が出ている。山川出版社『徳島県の歴史散歩』にも、同内容の文章が出てくる。
モチーフが同じでありながら、小説で海部に対してさらにひどいのは、著名な歴史小説家S氏である。阿波海岸の小城主たちは海賊働きをする、と、書いてある。さも卑劣な強襲らしく、書いてあるその様には閉口する。司馬氏は阿波藩関係者に何を聞かされたのだろうか。
高名な中世史家であり、私も参考にしているI先生も、海部住民の生業は掠奪であるかのような記述がある。山川出版社『高知県の歴史』もそうだ。紀貫之『土佐日記』以来、この調子の記述は、枚挙にいとまがない。
とにかく、島弥九郎に関する通説の典拠は、どうやら『土佐物語』のようだ。
『土佐物語』は、1708年に土佐で書かれた長宗我部氏の物語である。しかし130年も前の1570年代の出来事を、土佐で、何を根拠にしたら書けるのだろうか。
江戸時代の、書いている人の状況を想像してみよう。一生懸命資料を集めるが、130年も前の、敗者の側の資料なんか、持っている人はいないだろう。
今仮に、自分は負けた側だとする。勝者の世の中になっているのに、敗者が出した、自分の立場を保障する文書などは、持っていては、かえって自分の立場を危うくするだろう。捨ててしまうか、それでなくても、古い物を後生大事に持っている人、持ち続けていられる人など、あまりいないだろう。持っていても、勝者である山内氏や蜂須賀氏が支配する江戸時代では、警戒して他人には見せないだろう。
このように、敗者の場合は、火事や災害などで自然に無くなる以上に、資料消滅の動機が顕著である。敗者の側にいたことが、勝者の世の中で役に立つのは、両者に共通して有用であり、勝者にも用いられた場合である。
このように、敗者の側の資料は、残りにくい、ということが考えられる。島弥九郎事件の場合、かかわった長宗我部氏も海部氏も、近世の歴史から消えている。また、江戸時代のように交通不便な時代には、土佐と海部では、相当な距離感がある。
島弥九郎事件が本当にあったと信じるに足る史料というのは、例えば、鞆や宍喰で、海部氏が島弥九郎であると判断して討ち取った、という当時の記録があれば、それが一番だ。しかし、海部近辺には何も残っていない。
土佐でも、残っているのは、山内氏の領地経営に役立つ資料(長宗我部地検帳なんかそれらしい)、その他であって、それらも藩主が大事にしていたものもあるわけで、執筆者が見ることができたかどうか、怪しいものだと思う。
では、130年も前の他藩のできごとを、何を元にして書くのだろうか。以下は想像になりますが、多分、聞き書きや伝聞、勝者の側の弁明や歪曲、各自の自己宣伝、などを素材として書くことになると思う。これらの素材は、根本史料に比べて、より良い、とは言えない材料である。だから、何十年、100年と、時を隔てて文章に書き上げられたものは、そのまま歴史として使ってはいけない、と、私は思うのだ。
そして、古ければ何でもいい、というわけにもいかない。事件の当事者こそ、利害関係がからんで、違うことを言う、ということもあるわけである。大事なことは、証言者は、本当のことを言うことができたのか。本当のことを言うつもりがあったのか。だ。
根本史料というのは、「きわめて近い日時に近い場所で書かれたもので、本物であるもの」である。例えば、東寺百合文書の、細川氏が海部氏に出した命令書や、兵庫北関入船納帳のような、当時の台帳そのまま、というようなのが、何よりも尊重される。
『海部町史』P47には、『阿波志』『阿府史』も書き出されているが、後ろの方の参考文献の抜書きを見ると、これも後世に編集されたもののように見える。
後世に書かれたものというのは、山内氏や蜂須賀氏にとって、都合のいいような書き方になっている可能性がある。また、あとから考えて、この方がわかりやすい、と、作ってしまった部分も出てくるだろう。現代において歴史として文章化する場合には、注意する必要がある。
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