『土佐日記』の疑問

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 紀貫之の『土佐日記』は
承平
(じょうへい)
4年(934年)12月21日から、翌5年(935年)2月16日まで
である。

紀貫之は、60歳代になって土佐国司に任ぜられ、
4年半後に、船で、室戸岬を回って、阿波南岸を通って帰京する。

阿波南岸では、海賊の影におびえる描写が印象的であるためか、

この頃、阿波南岸では海賊が出没していた、

という書き方をされることが多い。

しかし私は、当地の出身者として、疑問に思うことがある。

「こわい、こわい」と言う割には、
警備の話が全く出てこないし、
実際には、影も形もない
のだ。

そんなに海賊が出没していたのなら、
警護を厚くして襲撃にそなえるのが普通である。

全く警護の話がない、ということは、

紀貫之一行は、海賊のことなど、
出発の時点では、全く認知していなかったのではないだろうか。


そして、土佐の地名は詳しく書いて、
阿波南岸の地名は全く書かない


というのは、理由はわからないが、顕著な特徴である。

早く帰京したいだけで、阿波南岸など、
途中の、どうでもいい場所だったのかもしれないが。

宿泊しても書くことがない?ということだろうか。

知る人もなく、粗末なだけの、一時しのぎの仮りの宿、ということだろうか。

海賊の言葉に浮き足だってしまって、何も見るものがなかったということだろうか。

『土佐日記』の描写は、この極めて主観的感情的な要素によって、
歴史史料としての扱いには、十分注意を要するものであると考える。


     また、海部・芝の、弥生後期の遺跡からみてもわかるように、3世紀後半から、県内随一とも言える
   関西・高知の中継地だった地点
は、935年でも、中継地ではなかろうか。
   
    中継地として確保しないで、海賊の住みかにしておくのは、阿波の国司としては、
    大きな損失・海上交通の障害だろう。

   地元情報としては、この頃海賊がいた、というような情報は全然ない。

   神社は延喜式式内社で、927年の延喜式完成のころには、
    この神社はすでに郡内第一の由緒と社格をもって鎮座
していた。(『海部町史』)

 (現在は大里八幡神社と名前を変えていて、秋祭りは「県内では有名」である。大里八幡神社秋祭り

   つまり、もっと古くからあったものが、927年には京都に聞こえて、記録に残っているのである。

   那佐湾に神功皇后がやってきて、皇子の御影を祀った、という伝説を持つ。

   真偽はともかく、海賊を良しとする土地柄ではない。