『土佐日記』の疑問
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紀貫之の『土佐日記』は
承平
である。
紀貫之は、60歳代になって土佐国司に任ぜられ、
4年半後に、船で、室戸岬を回って、阿波南岸を通って帰京する。
阿波南岸では、海賊の影におびえる描写が印象的であるためか、
この頃、阿波南岸では海賊が出没していた、
という書き方をされることが多い。
しかし私は、当地の出身者として、疑問に思うことがある。
「こわい、こわい」と言う割には、
警備の話が全く出てこないし、
実際には、影も形もないのだ。
そんなに海賊が出没していたのなら、
警護を厚くして襲撃にそなえるのが普通である。
全く警護の話がない、ということは、
紀貫之一行は、海賊のことなど、
出発の時点では、全く認知していなかったのではないだろうか。
そして、土佐の地名は詳しく書いて、
阿波南岸の地名は全く書かない、
というのは、理由はわからないが、顕著な特徴である。
早く帰京したいだけで、阿波南岸など、
途中の、どうでもいい場所だったのかもしれないが。
宿泊しても書くことがない?ということだろうか。
知る人もなく、粗末なだけの、一時しのぎの仮りの宿、ということだろうか。
海賊の言葉に浮き足だってしまって、何も見るものがなかったということだろうか。
『土佐日記』の描写は、この極めて主観的感情的な要素によって、
歴史史料としての扱いには、十分注意を要するものであると考える。
また、海部・芝の、弥生後期の遺跡からみてもわかるように、3世紀後半から、県内随一とも言える
関西・高知の中継地だった地点は、935年でも、中継地ではなかろうか。
中継地として確保しないで、海賊の住みかにしておくのは、阿波の国司としては、
大きな損失・海上交通の障害だろう。
地元情報としては、この頃海賊がいた、というような情報は全然ない。
神社は延喜式式内社で、927年の延喜式完成のころには、
この神社はすでに郡内第一の由緒と社格をもって鎮座していた。(『海部町史』)
(現在は大里八幡神社と名前を変えていて、秋祭りは「県内では有名」である。大里八幡神社秋祭り)
つまり、もっと古くからあったものが、927年には京都に聞こえて、記録に残っているのである。
那佐湾に神功皇后がやってきて、皇子の御影を祀った、という伝説を持つ。
真偽はともかく、海賊を良しとする土地柄ではない。