日本書紀に採用されなかった「倭王武の上表文」
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『宋書』倭国伝に出てくる「倭の五王」の内、最後478年の「武」王の上表文は
「昔より祖先自ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず」
で有名で、「高校史料集」にも掲載されている。
以下に引用した読み下し文で感じられるように、
国を挙げての外交用国書にふさわしい、格調高いものである。
宋書は488年に完成していて、正式な国交に用いられた国書(外交文書)を素材に叙述していて、
史料的価値はきわめて高い、とされている。(参考:森公章『倭の五王』山川出版社2010)
720年成立の日本書紀には様々な海外文献が参照されているが、
成立していたはず、でも、参照されていない文献がいろいろある。
高校日本史史料集に出てくる、古代の対中国外交の記録が、日本書紀には出てこない。
『漢書』・『後漢書・東夷伝』・『魏志・倭人伝』、そしてこの『宋書・倭国伝』が出てこない。
古代の記録で、日本関連ということで情報収集すれば、
抜き書きででも、これらの情報を手に入れることはできる、ような気がするのだが。
なぜこれらの記録は日本書紀に採用されなかったのか。
720年の時点で、天皇家の歴史として、
どう組み込めばいいのかわからないものは、不採用となったのだろうか?
しかし倭王武の上表文は、
これだけの漢文をあやつる組織を持っていた王朝が、なぜもっと多数多種類の文献を残さなかったのか、
という疑問が出る。これは不都合だ、
という理由で、不採用になった可能性があるのではないだろうか。
倭王武の上表文(宋書倭国伝・原文読み下し) (森公章『倭の五王』山川出版社2010より)
自ら
七国諸軍事、
「(1) 封国は
昔より
東は
渡りて
王道
(2) 臣、
天極に帰崇し、道百済を
而るに
辺隷
(3) 臣が亡考
居りて
(4) 今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。
義士
若し帝徳の
〔上表文文意〕
(1)わが国(累代倭国王として
外夷に対する天子の
わが先祖(
席を温める暇もなく戦ってきました。
東方の毛人を征すること55国、西方の衆夷を服すること66国、
海を渡って北方(海北は朝鮮半島をさす)を平らげる95国にものぼりました。
王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。
(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)
しかも歴代の倭王は、宗主〔たる中国の天子〕のもとに使者を入朝せしめ、
その年限を違えることはありませんでした。
(2)私はおろかしくもその器ではありませんが、かたじけなくも王統を継承しました。
統治するところを率いて天子にお仕えしようとし、百済からなおはるかな道のりゆえ、
航海の準備もおこたらなかったのです。
しかるに、〔高〕
殺戮をやめようとしません。
〔わが使者を天子のもとに遣わす〕たびに、途中で〔高句麗に〕押し止められ、
良風(年限を違えず朝貢する美風)を失っています。
海路を進むことがあっても、あるいは通じ、あるいは通じえないありさまです。
(3)私のなき父の済は、〔高句麗が〕入朝の海路をふさいでいるのをいきどおり、
戦備を整えた100万にものぼる兵士たちも義声をあげて感激し、
大挙出征しようとしていましたが、そのとき、にわかに父(済)と兄(
まさに成就せんとしていた功も水泡に帰してしまいました。
〔私は〕諒闇(君主が服喪する部屋)にこもって、軍隊を動かせず、
これゆえにいたずらに安息して、いまだに〔高句麗に〕勝利していません。
(4)今にいたり、甲を練り、兵をおさめ、父と兄の遺志を継ごうとしています。
節義ある人士も勇猛なる軍隊も、文官も武官も功を立て、
白刃が眼前に交わろうとも顧みはしません。
もし皇帝の四海を覆う御徳により、この強敵(高句麗)を打ち砕き、
わが国難を除いて太平をもたらしていただけるならば、
歴代天子への忠誠をかえることはないでしょう。
私はひそかにみずから
その余〔の官爵〕もみな仮授して、忠節に励んでいます。
***(註)
毛人と衆夷:ともに中華思想に基づく世界観から、辺境の人々を命名したもの。
毛人はエミシ(蝦夷)のことで、関東・東北地方の住民で、倭王権に完全には服属していない人々、
衆夷は中九州・南九州の熊襲・隼人などをさすと考えられる。
地位の高さを示す名誉称号で、開府府を設置し、その下に将軍号などの品階の高下に応じて、
長史・司馬・参軍などを府僚として置くことができる。