欠落部分を補った「仮説・古墳時代正史」

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                                       秦始皇帝の一族(西方から来た弥生時代の渡来民
                           2011.12

魏志倭人伝では卑弥呼と呼ばれている人物(日本での呼び名不明)の時代に、

<土地の主>の遺骸を巨大モニュメントに埋葬して、「この国や村の守護神」として祀る、
という宗教を始めた。            (広瀬和雄『前方後円墳国家』などを参考に)

<土地の主>は皆、かつては、
ある渡来一族と婚姻関係を結んだことがある、
という理由によって、血縁関係にあった。

その渡来一族は、在来住民とはかけ離れた高文化を持っていたので、
在来住民からは、神のように尊ばれた人々だった。

<土地の主>は、<神>の一族の血を分けてもらったという理由で、
在来住民からは一目置かれていた。

 (「地域首長たちは祖先を共通にするといった同祖意識で結ばれ」白石太一郎『古墳とヤマト政権』文春新書p13)

しかし<土地の主>同士は、血縁関係とは言え、それぞれの立場を背景に、衝突を繰り返していた。
そうした中で、卑弥呼は、中国への遣使や大陸事情の内偵によって、大陸の武力に脅威を感じた。

そして、身内でもゴタゴタが止まず、今も多くの疎遠な地域を抱え、
一国としての統一には程遠い日本の現状を憂えた。

なんとかして日本の統一を進める方法はないかと思案したあげく、考案したのが、

<土地の主>の遺骸を巨大モニュメントに埋葬して、「この国や村の守護神」として祀る、
ということだった。

これを、全国に広げることによって、

原初渡来一族の全国的繁栄を目に見えるものにし、

造営活動によって、人や物や情報の移動を活発にして、全国的な均質化を進め(共通語としての日本語の普遍化)、

中国や朝鮮から来る人々に対しては、威圧感、畏怖の念を抱かせて、侵略が容易でないことを知らしめ、

目に見えるモニュメント祭祀の共有によって、共通感覚を養う、

そして地方首長たちを武装化し、侵略や地方警備の備えとする、

という、多種類の目的を達成することにしたのだ。

万が一の侵略に備え、また地方警備のために、地方首長たちを武装化する必要に迫られ、
当時の国内では調達し難い「鉄」を求めて、朝鮮に出兵した。                        

朝鮮攻略の成功は、日本に夥しい鉄器をもたらした。

               *朝鮮攻略はなかった、という説もあるが、
                『宋書倭国伝』など中国側が、倭国の要求として文献に残そうと思ったほどの、
                倭国の拡大意志の見える文献があることに依拠して、私は「あった」ほうを採る。

それは、ヤマト政権の権威を高め、前方後円墳の副葬品の潤沢化、
地方首長たちの武装化の進展、供給側と受容側の結束を促がした。

全国に数千の前方後円墳が築かれ、多くの目的が達成されつつあるように見えてきた頃には、
原初渡来一族の血縁同士、などという話は、はるかな昔のことになってきて、形骸化してきた。
当初の身内同士という結束感や、中国の脅威などという危機感も、薄れてきていた。

そこへ起きたのが、系譜の断絶という問題である。

継体天皇は傍系だった。
中央から遠かった家系の登場に、ヤマト本拠地の重臣たちは、迎え入れつつも困惑した。
古墳時代の大王家とは言い難い感じがつきまとう。

天皇家からすれば、何か含みを持った有力者たちに、終始監督されているような気がする。
相互不信と腹の探りあいが続く。これは、天皇家から見れば、かなり危険な状況にも見える。

継体天皇の「数代後」の後継者は、
いつまでも傍系首長のように遇する重臣たちに業をにやして、革命を起こした。

しかしその時、蘇我氏滅亡の記事に見えるような具合に、
天皇家は大王家の歴史的文献を継承するのに失敗してしまった。

それはともかく、天智天皇の革命は功を奏した。
焦った中央勢力はみな、天皇家を継承者として認め従うようになった。

前王朝のことなど、なかったことにしてしまおう、ということで皆が一致した。
そこで記憶されている歴史を練りこみつつ、新しい歴史を作った。
仏教の導入強化には、前王朝の影響力を弱めるという目的も含まれていた。

地方首長たちは、中央で起きたことが何であるのか、わからなかった。
数代前からの大王家の継承者である。何がどう転換したのか、よくわからなかった。

中枢権力を握った天皇家は、その勢力基盤である、服属中央貴族を優遇する政策に転換した。
古墳時代の地方首長優遇策が終わったのは、こうした権力変動が原因である。

地方首長たちは、律令制への大転換を、大王家の政策転換と受け止め、
地方の支配と警備の実質的担当者として、生き延びることになる。

天皇家と中央貴族たちにとっては、系譜の継続こそが、全国地方首長たちを掌握するための、要だった。
したがって、武力による政権交替など、表に出すわけにはいかなかった。
これが、中国ほか、諸外国との大きな違いである。

地方首長たちは後に、武士となって日本史に登場してくる。
「御恩と奉公」という武士の主従関係は、実は古墳時代から続いていたものなのである。


〔日本書紀に書いてない、中国への朝貢記事のことについて〕

日本書紀には、中国文献にはしばしば登場する、日本側からの朝貢の記録がない。

高校日本史資料集に載っている、紀元前の朝貢も、卑弥呼の朝貢も、
倭の五王の11回の朝貢も、全く出てこない。(失礼、魏志倭人伝というのは神功皇后・39年にある)

本来なら日本書紀に書いてあるべき重要事項だと思われるが、

この「書いてない」ことについての考察というのも、私は今のところ、見たことがない。

倭の五王の上表文の内、最後478年の「武」王のものは
「昔より祖先自ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず」
で有名だが、

それ以前、413年の東晋向けに始まり、宋への10回の朝貢というのは、
日本を代表する一貫した政権という内容を持つ、純漢文だったらしい。

つまり、継続する文官組織の存在が伺われるのだが、この倭の五王の記事さえも、日本書紀には存在しない。

日本書紀には、こうした朝貢記事も「書いてあるべき」である。
中国王朝の権威を借りて、朝鮮への権益確保を目指す、国家的外交戦略だったのだから。

書いてないのは、前政権からの継続性が失われた、ということではないだろうか。

また、倭王武の上表文は、格調高い文である。
478年という時代に、このような文章があったということを示すのは、新王朝としては不都合だったかもしれない、
ということも考えられる。     倭王武の上表文(読み下し)

倭王武の武力的な雰囲気は、
全国数千基に及んでいたはずの、後に武士となる前方後円墳被葬者の子孫たち、

その人々の統率者として見て、初めて、その実態が理解できるのではないだろうか。






以下は関係ありません。ただ証拠として残しておく必要を感じるので、メモとして残してあります。
********YAHOO警告により投稿不可、ID削除も、とのこと、
IDがなくなったらホームページもなくなるのではないかと思うので、
とりあえず、係争の件について言い分掲載********係争の件「YAHOO掲示板・女性宮家 内閣の対応が焦点」内

私は、日本の政治システムの根幹は、
  「日本社会を、より良い、住みやすい社会にして行こう」
ということで「認識を共有している人々の存在」だと考えます。

以下に「日本の上空からの空中写真」をご紹介しますが、
このような国土に住んでいる1億人以上の人々が、日本の政治システムの根幹だと思うのです。
日本上空の空中写真

疑問のないことをシステムの根幹とすることは、社会を安定的に運営する上で重要なことではないかと思います。

私は、誰がどう影響しあって「天皇家」という政治要素を形成しているのかと、
それぞれ影響しあう、いろいろな層を思い浮かべます。

ですから、あなた様が「他人を決めつける」という表現で私に感じさせるような、
ごく狭い範囲の人々のことを考えるわけではないのです。

私は、誰がどう影響しあって「天皇家」という政治要素を形成しているのかと、
それぞれ影響しあう、いろいろな層を思い浮かべます。

ですから、ごく狭い範囲の人々のことを考えるわけではないのです。

私はむしろ、保守の方々には、はっきりしていること継体天皇以降は明白な血脈である、
ということを基盤にして、政治体制を考えるわけにはいかないのですか?
とお聞きしたいです。