『高知県の歴史』山川出版社2001年の「海賊」記事の検討
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『高知県の歴史』p60より
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『土佐日記』の読解をつうじた当時の歴史状況のの把握として、海賊の動向にもふれておきたい。
紀貫之が海路で帰京したこの時期は、ちょうど承平・天慶の乱が勃発し、
社会情勢の混迷化が進む端緒であった。
承平5〜天慶3(935〜940)年には坂東で平将門の乱がおこり、
新在地層である平氏一門の争いから、将門が「新皇」と称し、
坂東の諸国司を追却するという朝廷に対する反乱に発展している。
瀬戸内海を中心とする西国では、天慶2〜4年(939〜941)に前伊予
一時は畿内に迫る勢いを示したが、追討されるという大事件がおきた。
土佐国でも、天慶3年(940)12月19日には幡多郡が海賊に焼亡されるという被害をうけており(日本紀略)、
その際に海賊と合戦した土佐国の人々には、箭(や)による死者が多数でたとある。
土佐国と関係する西日本の海賊についてみると、こうした海賊発生の一因として、9世紀後半以降、
上述の山口のちみねのような新土着者の出現、あるいは後述の荘園制の展開にともなう中央の政治勢力
(王臣家)の在地進出や在地の人々の王臣家人化が進展したことが指摘されている。
彼らは中央の権威をかりて、国郡司に対捍(たいかん)し、租税納入を拒否したり、
納税を強制執行しようとする国司に武力で対抗したりと、
地方社会の紛擾(ふんじょう)の、もとになった。
西日本の場合は、海上交通が発達しており、海賊という行為で国司の政務に対抗することになったのである。
貫之が帰京したのは、承平・天慶の乱の少し前であるが、それでも西日本ではすでに海賊の跳梁が盛んで
あったらしく、藤原純友の乱の素地はできあがっていた。
『土佐日記』にも海賊の動向を警戒する記述が散見している。
(私注:他のところでも言っているが、それにしては、土佐を出発する時に、警備の話や警戒がなさすぎて、
おかしいのではないだろうか。
海賊が恐いなら、そもそも、なぜ海路を選んだのか。出発の時は、安全だと
思っていたのではないだろうか。)
承平5年(935)1月23日〜25日には徳島県の日和佐付近に停泊しているが、
これは風待ちとともに、「このわたり海賊の恐れあり」「海賊追ひ来」という風聞があったためであった。
(私注:これが日和佐とすると、追ってくるというのは、ちょうど海部から、という想定みたいである。
しかし、海部・芝の、弥生後期の遺跡からみてもわかるように、3世紀後半から、県内随一とも言える
関西・高知の中継地だった地点は、935年でも、中継地ではなかろうか。
中継地として確保しないで、海賊の住みかにしておくのは、阿波の国司としては、
大きな損失・海上交通の障害だろう。
地元情報としては、この頃海賊がいた、というような情報は全然ない。
神社は延喜式式内社で、927年の延喜式完成のころには、
この神社はすでに郡内第一の由緒と社格をもって鎮座していた。(『海部町史』)
(現在は大里八幡神社と名前を変えていて、秋祭りは「県内では有名」である。大里八幡神社秋祭り)
つまり、もっと古くからあったものが、927年には京都に聞こえて、記録に残っているのである。
これは、紀貫之の航海の、わずか数年前であることから、そんなころに京都に知られた土地が、
海賊の住みかだったとは考えにくい。
那佐湾に神功皇后がやってきて、皇子の御影を祀った、という伝説を持つ。
真偽はともかく、海賊を良しとする土地柄ではない。)
1月30日に土佐泊から和泉の灘に移動した際には、当時の航海技術では危険な夜間航行を行っている。
これも「海賊は夜歩きせざりなりと聞きて、夜中ばかりに船を出だして、阿波の水門を渡る」と記されており、
鳴門海峡の難所よりも、海賊を恐れての行動であったことが知られる。
こうした海賊に対する恐怖は、太平洋岸を航行しているときには話題にのぼっておらず、
徳島県に入ったあたりから畿内までが危険水域だったようである。