フィリピンには貴金属の鉱産物はなかった

                                  池端雪浦編 『東南アジア史U島嶼(とうしょ)部』山川出版社1999

                                               スペイン太平洋航路へ戻る


p100より、後ろから4行目

ーーーーレガスピは初代フィリピン総督(在任1565〜72)に任ぜられた。

だが、フィリピンでは、スペインが期待した香辛料や新大陸で発見されたような貴金属の鉱産物は、
ほとんど発見できなかった

スペイン植民地統治による徴税収入だけでは、カトリックの布教や遠征と戦役の費用を捻出するには不十分であった。

こうした状況下において、スペインの活動を経済的に支えることになるのが、
マニラとアカプルコをつなぐガレオン貿易であった。

ガレオン貿易

メキシコとフィリピン諸島とは、季節風を利用した大型帆船で結ばれていた。

ガレオン船は年に一度、数ヶ月から10ヶ月もの日数をかけてマニラとアカプルコとのあいだを往復した。

ガレオン貿易は、福建沿岸地方から中国帆船によってマニラにもたらされた、生糸・絹織物・陶磁器などの奢侈品を、

ガレオン船でアカプルコに運び、

中国商品の代金としてアカプルコからマニラに舶載されてきたメキシコ銀を、

中国帆船が福建に持ち帰ることを基本的内容とするものであった。

福建沿岸地方の中国商人は、マニラ市設立以降、主要な交易相手をスペイン人に転換し、

彼らの日常生活に必要な物資を舶載する一方、

ガレオン貿易が開始されると、

生糸や各種絹織物など、アカプルコへ中継輸出される商品を大量にもたらすようになった。

スペイン王室は、植民地フィリピンの財政的基盤を固める必要から、植民地間貿易であるガレオン貿易を容認し、

フィリピン在住のスペイン市民に貿易に投資できる特権を付与した。

ガレオン貿易は、スペイン世界と中国世界の金銀交換比率の差によって、中国から金を効果的に引き出すことができ、
投資者に莫大な利益をもたらした。

******引用終わり***


私コメント:

ここには、ガレオン船が「毎年」往復していた、と書いてある。

フィリピンが大量の産金地か、そうでないか、全く逆の情報であることに注意する必要がある。