ヤマトの語源ヤマトバル  (中公バックス『世界の歴史1』p350)

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ウル第3王朝を滅亡させたアムール遊牧民は、シュメール・アッカドの地にしだいに定着し、
占領した都市の支配者となって都市国家をつくった。

前1950年ごろには、南方のシュメールの地にはラルサとアムール人王朝が樹立されている。

それから約1世紀ほどおくれて移動してきた別派のアムール人は、
アッカド地方のバビロンその他両河流域の中部以北の地に、多くの王朝を樹立した。

それゆえ、ウル第3王朝の滅亡から、
バビロン第1王朝の6代王ハンムラビによってメソポタミアが再び統一されるまでの約250年間を、

最近の学会ではアムール民族の歴史的主導性を認め、
2王朝の名をとってイシン・ラルサ時代と呼んでいる。

この時代は政治的にはアッカド帝国出現前の都市国家時代のように、
都市国家間に覇権争いがしきりに展開され、
文化的には野蛮なアムール人がシュメール文化を吸収同化して、文化人となっていく過渡期であった。

当時ユーフラテス川中流にあったマリという都市国家の遺跡から出た「マリ文書」によると、

イシン・ラルサ時代末期の政治情勢は、北シリアからペルシア湾にかけての両川地方全域では、
「最高の王は一人もなく、10名ないし15名の」臣従王を支配下においた、有力君主の争覇戦が展開されていた。

かれらは互いに合従連衡し、メソポタミアの天下を統一して真の「四方世界の王」の地位を得ようとねらっていた。


覇王を南部からあげていけば、イシン・ラルサのアムール族王朝に変わってその支配者となった、
エラム出身のラルサ王リム・シン
バビロニア王ハンムラビ、マリ王ジムリ・リム、アッシリア王シャムシ・アダド、
オロンテス河畔の現在のミシュリフェフのカタヌム王国のアムト・ピ・エルであった。

          中略(シャムシ・アダド1世のおもしろい手紙の紹介)


シャムシ・アダドの後を継いだ第一王子も、ハンムラビに屈服してしまった。

これよりさき、ハンムラビ王は強敵ラルサ王リム・シンをもやぶり、その本拠地エラムのヤマトバルで捕虜とし、
シュメール・アッカドの統一を完成していた。