ヤマトの祖先
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日本人・ヤマトの祖先は、
メソポタミアのヤマトバルを本拠地としたエラム人である。(*1) (*2)
*エラム人はインダス文明との交流も指摘されている。
土着勢力としてアケメネス朝ペルシア建国を支え、(*1) (*2)
その領域拡大に伴って、中国西方の秦とも深く交流した。
*ベヒスタン碑文に彫られている文字がエラム文字
(上記参考文献は1970年代の本。ペルシア系の内容がこのような形で載っているのは、
「日ユ同祖論」を気にしためであって、現在は「ない」のは、そのためだろうか。
現在の歴史記述になくても、過去の文献に書かれた内容が消えるものではないと思うので、
参考文献としている)
アレクサンダー大王の遠征でペルシアが滅亡した時、秦へ亡命した。
(エラムの王の名前には「シン」が多い。秦に通じると考えれば、姻戚関係の可能性もなきにしもあらず)
ここで漢文を使うようになったので、フェニキア文字(*)(あるいはエラム文字?等)のイメージから、
記号としての「原始カタカナ」や、さらには漢文訓読用の「ヲコト点」も作り出した。
*日本で漢字に自国の言葉をあてはめたように、
古代エジプト文字を取り入れた地中海の古代国家でも、
絵文字に自国語をあてはめた。
古代バビロニアの楔形文字にも同じことが起きている。
参: 『古代日本の文字世界』大修館書店、2000年、p209より
秦王家へ一族を送り込みつつ、ペルシアの知識を注いで中国統一を支えた。(*1ペルシア帝国)
(*2秦始皇帝の中国)
秦の滅亡に際して、王家につながるヤマト族の一派が、朝鮮を跳び越して日本へやってきた。
始皇帝は山東半島も巡行している。(岳南『秦始皇帝陵の謎』講談社現代新書p161地図)
後期縄文人が住む日本へやってきたヤマト族は、後に弥生人と呼ばれるようになった。
*「秦」の名を使うと、さらなる追っ手がやってくる恐れがあるため、故地ヤマトバルの名を使った。
江南の米を持ってきた(*)が、貯蔵方法は華北方式も使った。(*朝鮮に存在しない「袋状竪穴」)
初期弥生人は、遠距離移動や探検を強烈に記憶していたので、
その一部は、弥生人形質が消えない数世代のうちに、東北から北海道に達した。(*国立科学博物館サイト)
生き延びはしたものの、失われたものは多く、残された記憶を頼りに、1からの再出発となったヤマト族。
このように、ヤマト族の祖先は、はるか西方からやってきて秦の王族に連なった人々ではないかと仮定する。
絶滅の危機をくぐりぬけた記憶を持つ、遠来の人々が作った国、という仮説です。(よく指摘される「菊花紋」の共通性)
前方後円墳がやたらと大きく、始皇帝陵に匹敵するようなものもあるのは、そのせいではないかと思う。
古墳時代と、その後の天皇家の時代への転換については、以下のページ。
「仮説・古墳時代正史」
仮説:武士の起源 全国5200基の前方後円墳の被葬者たちの子孫は、武士となって登場してくる。
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〔カタカナや漢文訓読法の返り点等の記号の発明についての仮説〕
エラム人のような、一文字に母音を含む文字を使い、多くの民族の文字を知る民族が、
日常的に大量の漢文に接して、その意味と、音を説明するために、自民族文字を使っていた。
それがやがて、漢字の一部を採って、カタカナを作る元になった。
エラム文字からカタカナに変わったのが、
中国にいた時(つまり紀元前200年ごろ)なのか、
それとも飛鳥・奈良時代なのかで、
文字と認識できる度合いが違ってくると思う。
また意味の説明を脇に書いたものが、訓読になった、と考えるべきではないだろうか。
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秦の都・咸陽にいた頃は、西方民族との交流もまだ必要だったので、エラムなどの西方系文字は捨てられまい。
日本に逃れてきた時、持っていたのは、漢文とエラム系文字だったのではあるまいか。
後期縄文人?に、連絡用に教えるのは、漢字とエラム系文字ではあるまいか。
それとも、漢字から採った「カタカナ」を、この時に発明するだろうか。
秦との関係者であることを知られたくなければ、エラム文字をこの時に捨てて、「カタカナ」を発明するかもしれない。
読まれたくなければ、神代文字みたいな文字を発明して、お互いに秘密通信をしたかもしれない。(?)
ひらがなは、中国で草書が発達して、それを学んでから、
そして、紙がかなり自由に使えるようにならないと、発生しない、と思う。