有力者が歴史を歪曲する現象
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現在、私が関わっている、歴史の歪曲に関する問題、は三つある。
一つは、古墳時代は天皇家の時代ではない、ということ。
二つ目は、スペイン太平洋航路の発祥と継続は日本と関係がある、ということ、の問題、
三つ目は、南京事件元兵士日記の偽作問題である。
1は、天皇家がらみとする前方後円墳のことは述べても、
全国に5200基も作られた前方後円墳の、
その圧倒的多数については何も語らない『記紀』に対する疑問に始まるものである。
古墳時代を特徴付けたものが、5200基に及ぶ全国の前方後円墳である。
その全国的築造の意味を語らずして、古墳時代の統治に関わった、と主張するのは、
無理があるのではあるまいか。
これは、記紀から抹殺された、「前方後円墳5200基築造社会」の問題である。
2は、日本史から消される、南海路とスペイン太平洋航路の問題である。
太平洋側の重要拠点「海部」の情報が、消さたり歪曲されたりすること、
応仁の乱以降、何度か使われた南海路のことが研究から除外されていること、
スペイン太平洋航路のことが歴史記述の対象にならないこと、
フィリピンの産金情報が、歴史研究者とその他の関係者との間で正反対になること、等々。
3は、普通なら大抵の人がおかしいと思うような南京事件の手書き日記でも、
「専門家」の名によって本物として通用し続けたという問題である。
ここでは、以上3点の問題の「中身」ではなく、
「有力者が歴史を歪曲する現象」という点に問題を絞りたい。
有力者が自分たちのために歴史を歪曲することや、
社会と真実とは、どのような関係にあるのか、
また、社会には、真実よりも虚偽の方が大事である、ということが通用するかどうか、
そういう問題を考えたい。
1の有力者は天皇家である。
2の有力者は蜂須賀家とスペインである。
3の有力者は、「大虐殺あった派」であり、
その背後には、マルクス系学派、さらにその背後には、第二次大戦中の敵国、中国とアメリカの存在があるように思われる。
事実の歪曲には、特定集団の利益擁護という目的がある。特定集団の利益に預かる者には、その特定集団と共通の利益が発生する。
騙されて利益が発生する、ということがあるだろうか。
つまり、事実とは違うことを信じて、誰もが良くなるということがあるだろうか。
1について。天皇家が国の肇というのは、日本の統合のための神話であって、不可侵だ、というのは、
全員のためである、という理屈の大きなものだ。
しかし外国から見た場合、7世紀に登場した天皇家が、
古墳時代の前方後円墳5200基築造の社会の統治状況について全く語らないのに、
天皇家が国の肇である、として国のトップに戴いている日本という国は、
日本古代史の不可解を知る外国人の「通」には、極めて不自然に見えるだろう。
(今のところ、そこまで知っている「通」は極めて少ないから、問題にもならないかもしれないが)
それは、3世紀から作り始めた全国5200基の前方後円墳を、歴史に位置づけない社会であり、
他の世界との共通時間を、持とうとしない社会である。
この頃、西洋ではローマ帝国が巨大な建造物を造っていた。中国では後漢の時代も過ぎ去ってしまった。
日本では3世紀以後7世紀まで、延々と前方後円墳築造の時代が続く。
しかし、7世紀に登場した天皇家は、前時代の古墳時代の全国的な様相については全く語らないまま、
私たちがこの国の肇であると主張して、以後1300年続いてきた。
この「天皇家が国の肇である」を文字通り信奉して、わが国は、私たちは、安全だろうか。
事実であるという確証なしに、そのようなことをするのは、安全だろうか。
もちろん、7世紀から今日まで、曲りなりにも天皇家を推戴してきた、という事実にも、重みはある。
しかし、天皇家が古墳時代形成の中心的な担い手であったという確証はない。
確証を求めずに、国の肇だから、という理由で天皇家中心の社会を作ろうとするのには、根拠を求めない危うさがある。
7世紀から今日までの推戴を根拠とする、と言うなら、それはそれでいいと思うのだが。
根拠があるなら、もちろん、それはそれで重視するべきだ。
2について。これには最大の被害者らしき人々が存在する。
理由なき攻撃と侮辱と抹殺を被った「海部」の人々である。
これは、双方が完全に利害が対立する問題である。
日本国民には適正な史実を知る権利があると思うのだ。しかしその権利も侵されていると思う。
太平洋側の僻地に、都に進出する航海民がいて、
1445年という昔に、四国でダントツ1位の回数で兵庫にまで出かけていたという事実は、
それなりに興味深いものではないだろうか。
1467年の応仁の乱以降、堺から出る船の、南海路の開拓が進んだことも、知る権利を阻害された事実である。
フィリピンの産金情報に、立場によって正反対の情報が見られることなど、国民には迷惑至極ではないだろうか。
国民は知らされないことを良かったと思うだろうか。そんなことはないと思う。
3について。これは国家的に大損害を被った事例ということになるだろう。
上記のように考えてきて、騙されて利益が発生する、というようなことは、あまりなさそうに思われる。
そうであれば、騙されないようにするのが、一番ではなかろうか。
人が一人ひとり、「自分で事実を確認する姿勢を保つにはどうすればいいか」、
ということを、知ることが大事なのではないだろうか。
子供の頃には、権威者の言うことをよく聞き、素直に従うことが「良い子」であるとされる。
権威者は、みんなのことを考え、良かれと思って事を図るのであるから、悪いようにするはずがない。
だから権威者を信じ、疑うようなことは、してはならないことである。
そう教えられる。
だからそういう子供への教えから抜け出せない間は、権威者が嘘をつくとか、人を騙すとか、
そういうことはあり得ないような気がする。
しかし、どうして権威者が嘘をつくようなことになるのか、それが想像できるようになった時、
人は、正しい事とは何かと、自分で考えざるを得なくなるのだ。
〔錯誤の例〕
1.感覚的な錯誤
2.総合判断の際の先入観や感情による錯誤
3.記憶を再現する際に感情的要素が働いて誇大美化が起きるような例
4.言語表現が不適切で証言がそのまま他人に理解されない例
直接の観察者でも、錯誤が入ることはよくある。ましてや証言者がその事件を伝聞した人である場合、
誤解・補足・独自の解釈等によって、さらに錯誤が入る機会は多い。
ことに噂話のように非常に多数の人を経由する証言は、
その間にさらに群集心理が働いて、感情的になり、錯誤はますます増える。
〔虚偽の例〕
1.自分あるいは自分の団体の利害に基づく虚偽
2、.憎悪心・嫉妬心・虚栄心・好奇心から出る虚偽
3、公然あるいは暗黙の強制に屈服したための虚偽
4、倫理的・美的感情から、事実を教訓的にまたは芸術的に述べる虚偽
5.病的変態的な虚偽
6.沈黙が一種の虚偽であることもある
このように、言語史料には錯誤・虚偽が入る機会が多い。
事件の当事者の報告は、その事件を最もよく把握している人の証言だ、という意味では最も価値がある。
しかし一方、当事者はそのことに最も大きな関心を持っているために、
時として利害関係虚栄心などから、真実を隠す傾向がある。
この点においては、第三者の証言の方が信頼性が高くなる。錯誤はなくても虚偽が入るのだ。
(以上「史料批判・要諦」)
経験上、他人が自分に対して間違った観念を持っていると感じたことは山ほどある。上記で言えば「錯誤」だ。
人は間違う。恐ろしいほどだ。そして絶対にその観念を変えない。
そしてまた、虚偽なんか自分には無縁だと思っていたはずの人々が、虚偽を為さざるを得ないのだろう、
と思われるような場面にぶつかるようになると、
この世界の構造に打ち込んでいる、「クサビ(楔)・杭」としての「虚偽」、というものを考えざるを得なくなる。
****(yahoo掲示板「歴史教科書問題」2012年4月2日発言より)
学者先生が証拠だと言えば、
学者先生が言っているのだから、間違いない、と、
自分では考えても見ない人が、結構多い。
学者先生は嘘はつかないのでしょうか。
学者先生も人間です。
お金も地位も名誉も権力も、自分が所属する集団の利害も、その発言には影響します。
仮に、先生の所に大きな影響力のある人物がやってきて、こう言ったとしましょう。
言うとおりにしないなら、あなたには、職もあげません、お金もあげません。研究の利便も阻害します。
人を左右する影響力も、全部私が邪魔するから、あなたには何もできません。
それよりは、私の言う通りにして、よりよい社会的地位と安定した職を手にした方が、
よっぽど楽な人生が送れますよ、と言われて、
さあ、あなたはもう私の言葉を聞いてしまったのだ、と、
大きな力をほのめかしつつ、暗黙あるいは公然の脅迫を受ければ、
良い条件の方を、棒に振らない人間がいたら、よほどの傑物でしょう。
学者先生は一生懸命考えます。
私には家族もいるし、これからのことを考えたら、そうするしかないのだよ、
許しておくれ、私を信じるみなさん。
私が悪いのではない、脅迫する人間が悪いのだ、みんな脅迫する人間のせいだ。
そう思いつつ、自分でも信じもしないことを、雄弁にまくし立てるようになります。
学者先生の言うことが事実かどうか、
少なくとも、どうすれば、「事実である」ということが確認できるのか、
学者先生に、それを質問できるだけの、方法的手続きを、
みんなが身に付けることが大事です。
それが、学者先生に、真実を追求するという、
本来の姿勢をとりもどさせる力になると思います。
学者先生の話を鵜呑みにする、
これが一番、先生自身を迷わせてしまうものだと思います。
みんなが自分について走る。それは恐ろしくも面白い話です。
誰も疑わないなんて。
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私が思うのは、これを、
権威者(大人)が子供に言って聞かせる場面、
無心に信じた子供が大人になって、権威者によって騙す側へと誘導される場面、
こうして、騙す側と、騙される側に分かれる社会、
という、観察基準を設けてみたらどうか、ということだ。
日本の今日を考えると、意思決定が早いか遅いか、秩序があるかないか、という問題に対して、
この「騙す騙される」という新基準を設定した場合、これは社会運営にどのような影響を与えるだろうか、
という疑問が沸く。
「騙す騙される」は、力関係の場面で言うならば、「教える教えられる」の変形である。
テーマによってその力関係の逆転は考えられるが、
どれだけ多くの人に影響を与えることができるか、という視点を加味すれば、
社会機構に沿った流れは、相当力を増すことになるだろう。
「教える教えられる」が「騙す騙される」になったら、社会はどうなるのか。
特定の強者集団が、内々で談合して、一般社会に向かって虚偽情報を流す。
強者集団には、真実を語ると標榜する学者集団が含まれている。
その状況は、3例とも変わらない。
真実を語ると標榜する学者集団が、
脅迫や賄賂やポスト供与、研究費や材料提供の有無など、さまざまな方法で陥落させられる存在ならば、
一般社会は何を信用すればいいのか。
何はともあれ、学者先生といえども、必ずしも信用するわけにはいかない、見えない社会的な圧力がかかっているものである、
ということを、社会観察の常識とするべきだろう。
結局、だから、社会的圧力を排したところにある、「事実」の確認から、
各勢力の主張を見直すのが、一つの方法だと私は思うのだ。
「事実」でさえ絶対的ということはない、というのが、昨今の学者先生の主張になり始めていた。
(歴史学の主観性を強調するようになったのはEH・カー、林健太郎あたりからだと思う。
参:私の反対意見:「史料批判・要諦」より、史料の2側面)
拙著よりカー批判 「揺らぐ客観的な歴史」ページの下から探した方が早い項目
以降、歴史学は、まるで、いかに読み替えるか、が歴史学の仕事だと言わんばかりだ。
実証主義が敗戦国ドイツ系で、
主観性認識論が、戦勝国イギリス、そして天皇神話を護持したい日本保守、
と、思えないこともないのが気になる)
しかし「事実」は物質的な現象を伴うものであって、それを伴わないものは「事実」とは呼ばない。
学者先生を右派(保守)か左派(革新)かで分類し、
右派なら国家主義者で金持ちの味方、
左派なら貧乏人と弱者の味方、という通念があったような気がする。
しかし、歴史の歪曲という観点からすれば、こういう分類は不適当。
「騙す騙される」の関係をキーポイントにしてみるとどうなるだろうか。