大日本史料6篇16巻
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平成7年版『海南町史』p188に出てくる、1352年2月25日の、細川顕氏の海部氏に対する命令書、大日本史料6篇16巻115〜116ページである。
これが、現在国宝指定となっている東寺百合文書を、活字に直したものである。(原文)
短いが、「観応の擾乱」の一方の当事者、足利直義が翌日2月26日に急死、同日、南朝の後村上天皇が京都に向かい始めたという、重要な時期のものである。
後村上天皇の進路方向である、京都の山城国久世荘に行き、乱暴人を排除せよという内容である。
この時期、噂が飛び交い、情勢は非常に流動的で、後村上天皇は、和睦のために京都に向かってくるのか、それとも戦闘のためか、不明だったはずである。結局、南朝軍は京都に攻め入り、足利義詮を追い払い、北朝方の3上皇と親王を、南朝の根拠地へと拉致する。『太平記』30巻あたりの話である。
文中の「乱暴人(濫妨人)」は何を指すのかわからない。天皇警護のために治安維持に当たれということかもしれないが、状況によっては、南朝軍と一戦を交えることを覚悟の上で事に当たれ、ということだったと、解釈している。
南北朝時代の戦闘に参加するに足る、長大な刀剣を持っていたからこその前線?投入、根本史料登場だと考えている。
「海部刀」が、この時代に、すでに生産されていたことの、傍証と考えている。
*南北朝時代の刀剣は、非常に長大であることが特徴である。
*京都での戦闘登場に先行する事実として
1、3世紀海部の海運
2、大里古墳
3、1290年代に、若き日の瑩山(けいざん)紹瑾(じょうきん)禅師が来ている。
4、『本朝鍛冶考』(1795年刊)では、1300年頃から海部刀が作られたことになっている。(注)