マルクス主義が多用した「客観的」という言葉
「私が考える物質世界」へ
マルクス主義というのは、歴史の動因が、「客観的」な経済現象にある、と考えたものである。
経済現象は、生活に関わる物質的な問題である。
物質的な問題を歴史理解の根本に置くということだから、これを「唯物史観」とも言う。
(わかりやすくした、簡略説明である!と、おことわりしておきたい)
歴史が激しく動く、その根本的な原因とは何か。それは経済的要因である。
経済は、人間の意志に関係なく、人間の外側に、客観的に存在するものである。(比較:自説「空中写真の世界」)
人間の思いよりも、人間の外側に客観的に存在する経済問題を考えることのほうが、
問題の本質に迫るための、より良い方法である。
このように、歴史が動く原因は何か、という、歴史に対する問いかけが根本にあった。
したがって、歴史学とは、切っても切れない関係にあった。
このマルクス主義の「唯物史観」に対する批判としては、
例えばその発展段階論の検証の仕方について、
まず最初にマルクス主義の認識枠があり、
事実をその中に押し込めることで「検証された」という主張がなされていて、
それは全然検証ではないのだ、
という非難になる。
例えば日本史でも、
原始共産制・奴隷制・封建制・資本主義・社会主義という発展段階がある、
という主張がなされたこともある。
それはマルクス主義に則して考えれば、生産様式に着目した、「客観的」な歴史観として強く支持された。
「客観的」と見なされた経済の部分を、理論に合うように拾って、
理論が事実によって検証されたとする、
そう見えることがよくあった。
これは「理論」や「客観」という名の「主観」である。
「事実」が「客観的」に存在するというようなことはない。
「客観的」という名で「主観」を押し付けるのは間違いだ。
批判の内容はそういうことだった。