空中写真で見た世界
北天翆翔へ マルクス主義の「客観的」という言葉 素朴客観論
社会の外観
私は、社会を観察するに当たって、学校で勉強した科学の知識を組み立てて、
自然世界における社会の形状を、つぶさに、できるだけ正確に描いておくことから始めた。
闇の宇宙に浮かぶ青い地球。
自分を含む人間は、この地球世界から出ることはできない。
そしてこの宇宙は、基本的には、
極小の粒子とエネルギーの世界と見ることができるだろう。
上空から社会を眺めるように、空中写真的世界を念頭に置いて考えたとする。
これが社会の物質的姿であり、実在の姿であろう。
私が考える物質世界
国土地理院の空中写真閲覧コーナーで「東京駅周辺」を見てみよう。
空中写真「東京駅周辺」
所有関係も、この空中写真の中で複雑に錯綜している。東京駅周辺の建物や土地が、誰(あるいはどの法人)のものか、実際に利用しているのは誰(あるいはどんな人々)で、どのような形で利用しているのか、想像してみてほしい。 その上で、所有とは何かと、考えてみてほしい。
所有関係と実際の利用が常に一致するわけではないだから、誰のものかを最終的に確認しようとすれば、人は法務局へ出かけるだろう。
不動産の所有の根拠は、法的に疑いのない場合は、常に法務局の記載事項である。
所有とは、登記所(法務局)の記載を、人々が相互に情報処理することによって成立しているのではないだろうか。
「社会」に関する大抵のことが、音・紙・電波・電子などを媒体として伝わった記号信号による情報でできている。
例えば憲法は、言葉で書かれた社会制度についての情報として、人々の間に流布し、
社会や法律や人間関係を考える際に、参照情報として頭に思い浮かぶ基本事項だろう。
制度とは、「ある事柄についての共有認識の発生の事実」を前提として、
社会的強制力を背景に、発生した共有認識の相互実現を図ろうとするものである。
その共有認識を発生させるためには、人々の間に、情報の周知徹底がなされることが、重要な問題となってくる。
そしてそれは、世界に対して建設的に関わっていくための情報でなければならない。
錯誤や虚偽は、このような意味で、不都合な情報であると言えるだろう。
日本列島に乗って暮らしている1億の人に(空中写真を思い浮かべてほしい)、
共有認識としての「憲法」などがあって、
相互実現を図るための強制力の仕組み(合意による強制・法的強制執行・警察など)があれば、
「制度」成立である。
それは、人体外の記号信号を、人々が相互に情報処理することによって、成立している。
ただし、人体外部にある情報記号というのは、単に現在行動を導き出す直接情報だけを指すのではない。
それは例えば、赤子が母親から学ぶ初期の一語一語、また幼児期に学ぶ日本語の基本、
学校で学ぶ社会言語、メディア経由の用語、個人が参加している集団内の情報など、
およそ個人の認識を形成する情報のすべてを予想する必要があるだろう。
所有権侵害に対する権力の発動も、それぞれの人の、
外部情報(法律・社会認識を築くために与えられた社会情報)から築き上げた社会認識による、
脳の情報処理が原点となって、違法行動を排除する行動に至らせるのである。
お金とは何か
ニホンザルに1万円札と10円玉を渡しても、その差1000倍というのは、ニホンザルにはわかるまい。
ニホンザルには紙と金属の銅くらいにしか識別できないでしょう。 数を理解する人間だけが、1000倍を理解する。
1000倍というのは、印字してある数字の問題です。 それを見て、脳で情報を処理しているから、お金の価値の違いがわかるわけだ。
紙と銅にそのような違いを示すものはない。
人が、価格の変動する「金(ゴールド)」を見ている構図を、物質世界の変化として考えるなら、
激しく変化するのは人間の「脳の活動」のほうである。「金(ゴールド)」は変化しない。
それが物質世界で起きている現象である。
結局のところ、お金の本質は数量情報ではないだろうか。
人間が共有する、通貨についての数量情報であって、物質ではない。
物質主義とは、お金のことしか考えないことを言うことが多い。
しかし、物質だけの世界で起きることを考えると、お金は物質ではない。
西洋哲学で言う唯物論は、お金と物質を混同し始めるあたり(特にマルクス主義あたり)から、間違っているのではないだろうか。