素朴客観論

                             「私が考える物質世界」へ    


1素朴客観論
事実は外部から観察者にぶつかってくるもので、観察者の意識から独立に客観的に存在する」

2私
「物質世界は、人間の意識に関係なく、それ自体の性質によって客観的に存在するものだが、
事実は、言葉や認識枠による、人間の側の都合によって把握されたものである」


こうして比較してみると、素朴客観論者には、「事実」というものが、
「人間の側の認識枠によって切り取られるという側面」や、「人間の側の関心という側面」が、
意識されていない。

 つまり、人間が認識したものがそのまま、人間の認識に関係なく客観的に存在し
ていると考えたのだ。

  例えば
「A首相が国会で演説した」という場合。

素朴客観論者」は、自分の認識に関係なく存在している事実だと考えた。

  しかし「」は、
「首相」とか「国会」とかいう概念は、近代法制度によってのみ成立する概念であり、
特定の個人や制度の呼称としては、ある時代に固有のものであり、
認識者の知識に依拠するものである、と考える。

  また「首相・国会・演説」という概念で事実を捉えることは、
認識者から見た重要性からくる判断というものが含まれる。

したがって、物質現象としては認識者に関係なく存在していることであっても、
「事実」として意識されたものは、認識者に無関係ではありえない。

そういう見解をとるものである。

「空中写真で見る世界」で考えると、
「首相・国会・演説」という言葉の記号的側面は、音・紙・電波などの形で、
人と人の間を飛び交っている物質現象の側面を持つ。

これらを受信した人間は、相互に共通部分を持つ概念を思い浮かべる。

たとえば、「首相」という言葉を受信しても、受け止め方は人によって千差万別であろうが、
国家組織の最重要人物の一人、という観念は変わるまい。

この共通部分は、社会全体の共有観念として、一人ひとりが、自分の外側から取り入れたものであり、
その意味では、他者依存、社会依存の部分である。

言葉はこのように、他者依存・社会依存の性質を持つ。

認識者固有の観念は、認識者の個人的な経験・知見を背景として発生するが、
道具として共有する言葉には社会性があり、
それを使ってこそ形成した固有の観念であって、

個人が持つ主観性の基礎部分には、他者から与えられた部分において、社会性も含まれている。

言葉を使う人間である限り、孤立した人間、などという観念は、比ゆはともかく、原則的にはあり得ない。


3主観性認識論
「人間の認識に関係なく、外部に客観的に存在する事実、そのようなものはない」

ここ2・3十年、流行していた考え方。
素朴客観論を批判しつつ、結局はマルクス主義を批判することが多かった。

この論では、私が言うような「絶対的に存在する物質世界」には、言及しない。

例えば、AさんにはAさんの見方・見え方、BさんにはBさんの見方・見え方があり、
ある理論にはその理論の見方・見え方があり、ある言語体系にはその言語体系の見方・見え方があり、
犬には犬の見方・見え方、アリにはアリの見方・見え方があって、
(あいにく、動物の認識を引いている例はあまり知らないが、自分の話の流れで書きました)

絶対的な認識、客観的な認識など、存在し得ない、
という論理なのである。

とは言っても、自説のみを主張する展開が多く、結果的にマルクスの批判となっている、
というのが多くて、

それぞれを比較考量し、思想史を語る、というような、便利な本は、まだ見つけていない。

私の方法論と主観性認識論の違いは、
私言うところの物質世界が、あると前提するか否か、それとの整合性を目指すか否か、
である。


経済は私にはちんぷんかんぷんだった。しかし、上空から見ていると、
確かに人間の作り出した物はたくさんあるし、人が大量の物を動かしているが、

どう考えても、棒で突いたら玉がころがる、ような動きでないことは明らかである。