第5回レガスピ艦隊(帰還路はウルダネータ隊)

                 
松田毅一著『慶長遣欧使節』より・5回の探検隊へ戻る
                          伊東章『マニラ航路のガレオン船』ウルダネータの帰還路発見航海へ戻る

第4回ヴィジャロボス探検隊はカルロス5世の時代だった。
隊員帰還後、カルロス5世は、これ以上話題にしないようにという命令を出し、
議会の動きを封印してしまった。そのために、この話は沙汰やみになってしまった。

しかし1558年、カルロス5世薨去。
翌年1559年には、後継者フェリペ2世が、第2代メキシコ副王ヴェラスコを動かした。
                    (私注:スペインは1521年より前からメキシコ征服の意図)

フェリペ2世はヴェラスコに、
海上で新たな発見を行うべく、船舶を派遣するように命じた。

ヴェラスコは、そのために集めさせた人物が出した意見、派遣すべき船舶の仕様、
その数、金額、人員、装備に関する覚書を、フェリペ2世に送付した。

彼は、フェリペ2世に、行うべき航海の内容だけでなく、指示書まで突きつけられており、
協議を重ねて充分に検討した上で回答したのである。

1559年9月24日、フェリペ2世は、そのヴェラスコの答えに対して、書簡で回答した。

  指示書の諸条件に基づき、われらの主神と朕への奉仕に最もかなうように、できるだけ小額で、
  モルッカ諸島方面の西の島嶼の発見へ向けて、2隻のナオ船で、ふさわしい者を派遣せよ。

  ポルトガルとの合意に違反しないように、モルッカ諸島へは絶対に入らず、
  朕の境界内で協約の外にある、その周辺にあるフィリピン諸島とその他を目標とすべし。

  やはり香辛料が採れるように、分析用の若干の香辛料を持ち帰り、
  非常な苦難が伴うのを承知の上で、帰還の確実性を極める、という任務を課す。

  本航海で意図する主要事項は、往路はわかっているから、復路を知ること。
  取引や交易で留まることなく、直ちにメキシコへ戻るべし。

ヴェラスコが送った覚え書きに対するフェリペ2世の最大の関心は、
大砲、交換用品、その他が、派遣する船舶にとって、往復路とも有用性があること。

そして誰をも攻撃せず、陸海で攻撃しようとする者から防衛できる、態勢の整備である。

持参する交換用品は、ヴィジャロボス隊生還者の一人で、本件で信頼できる、
カリオンと会って、それについて話し合い、聞いてから、の準備を命じている。

聖アウグスチノ会派のウルダネータへ宛て、書くべし、と示されたフェリペ2世の書簡には、
ウルダネータが滞在して香辛料諸島の事情に通じているから、ヴェラスコにも異存はない。

  それらの船で行かせるために、僧院長宛に別信を出すよう汝へ命ず。
  任ずるように履行する手はずを取るように。

  さらに、与えるのが適切である人物宛用、
と依頼のある、白紙の書簡も送付されてきた。

同日付でフェリペ2世は、メキシコにいるウルダネータに宛てた書簡で、

  汝は普通人としてロアイサの船隊で行き、マゼラン海峡を抜けて、
  香辛料諸島に、朕への奉公で8年いた、

と、言及している。

  モルッカ諸島方面の西の島嶼の発見を副王へ命じたから、
  送付してある指示書に従うべし。

  多くの情報では、かの地の事情を知り、理解しているという
  ウルダネータが、当該船で赴くのは大いに効果的である。

  その航路もよく存じており、優れた地理学者であるとなれば、
  われらの主神と朕への奉仕のために欠かせない。

  当該船で行くように願い委託し、副王ヴェラスコが命じる事項を行い、
  神父としてさらにわれらの主へなす奉仕も行い、
  航海が実施されることで、慈悲が授かるように、

と求めている。

モルッカ諸島から生還した当時満28歳だったウルダネータは、
およそ3ヶ月後の1536年9月4日に、メキシコへ戻るサーヴェドラ隊の、  (参:松田毅一著:1526年第3回サーヴェドラ隊
二度目の試みの航海士を務めた、ポジョと一緒に証言した。

その翌年、1537年の2月26日付けで、遠征に関する報告書を作成しており、
1530年の半ばまでポルトガル人と戦をした、勇士の一人である。

両親も生地もわかっているが、生年月日はわからない。そこの町長を務めた父親は、
ラテン語や哲学を学ばせて僧職に就くのを願ったが、軍人を志してドイツやイタリアで戦い、
一方で学識を買われ、ロアイサ隊へ加わった。

一時帰国中のグアテマラ総督、アルヴァラドと面識ができ、副王メンドーサの下では
アヴァロ地方の行政官を務め、インディオの反乱鎮圧に出動していて、
ヴィジャロボス隊へは参加していない。

計画の継続性のためにメンドーサがウルダネータへ白羽の矢を立てたが、
このときはなぜか受諾を断っている。

アウグスチノ会派神父のアウグスティンの『フィリピン諸島征服史』によると、

  「ウルダネータの拒絶がわかって、副王はヴィジャロボスを選んだのである。
  副王が申し入れた総隊長の役職を、別のいっそう重要な遠征へ彼をとっておき、
  辞退し断るのをお許しになられた、神の行為だった」
ということになる。

そのウルダネータは、1553年3月20日になってから、
「死ぬまで自我を捨てて、聖アウグスチノ会派の規則に従って美徳に生きる」
という宣誓をしており、そこへ至る心の経緯については謎である。

このイエスの名の修道院の院長コルーニャと、同席の神父たちの前で、
全能の神と栄光の聖母マリアへ宣誓し、従順を約束して、遂に僧衣をまとった。

このように僧職に身をゆだねており、しかも加齢のウルダネータを航海へ出すには、
会派上長の院長の承諾を必要とし、国王といえども一存では命令できない。

1560年5月11日、「陛下が私どもへ恩賞を下された」と、
副王ヴェラスコ経由で通知された、ウルダネータと他3名の僧職は、
すべて当会派から選ばれる光栄に浴した、と欣喜した。

そして「神と陛下へ、この上なく心地よくご奉仕する」と了承した。
ヴィジャロボス隊の神父たちも、やはり同会派からであったから、
院長が本部の承諾を得るのは困難ではない。

航海と当地への帰還の明確な情報がもたらされるまで、神父の人数はヴィジャロボス隊と同じで、
目下は4名しか赴かないと、副王から提示された。

神のご加護と、ウルダネータの実行力と才覚、それに大経験がものをいい、
サンティステバン神父らの実績が重ねられ、帰還は確実である、と期待されたのである。
                            (私注:ヴィジャロボス隊の帰還路探索航海だけ、では、航路はまだ、全然わかるまい。
                             それなのに、帰還は確実、と期待があるのに、私たちは注目するべきである)


ウルダネータは、1560年5月28日付け国王あて返書で、承諾の意思を表明し、以下のように言う。

  モルッカには入らず、限定的にサマル島を意味する、
  「フィリピナス」を求めて直行せよ、と言われるが、

  そこは協約の規定内にあるばかりか、当該島の東側へ突き出した岬でさえも、
  モルッカ諸島の子午線にある。

言い換えると、当該島の大部分がモルッカ諸島の子午線より西に位置し、
明らかにサラゴサ協約に抵触する、と彼は言うのだ。

  赤道を測ってモルッカ諸島から東側へ17度、1度を17レグア半として297レグア、
  そこへ極から極へ経線を引くと、その半球のこの線から西に存在している。

  いかなる陛下の船隊と臣下も、売却、すなわち協約を解消するまで、
  立ち入り、居住し、取引ができず、何か合法的な理由を占めさないままでは、
  なんらかの不都合が起こりうる。

ウルダネータほどに正確な地理的概念を有している人物は少なく、
すべての記述が正しいわけではないが、良心に反して片棒を担ぐわけでもない。

われらの主神と陛下への奉仕に、最も適った船隊として派遣するため、と名目が立つ形を考える。

フィリピナス島とその周辺の島嶼で、陛下の臣下のスペイン人が行方不明になった、とか、
異教徒の間で囚われているとの通報を受け、その救出の形を装う案、などである。

これには、ロアイサ隊、サーヴェドラ隊、ヴィジャロボス隊だけでなく、
ある意味でコルテスが派遣したことになる、グリハルヴァ隊と、
弁明の理由はいくらでも事欠かない。

  グリハルヴァの航海は、コルテス個人が費消した航海である。

  コルテスはペルーの混乱に対処するため、ピサロから支援を求められ、
  「大砲11門、馬17頭、胸甲60着、弾道器、火縄銃、大量の鉄鋼品、その他を送ることにした。

  二隻での輸送をグリハルヴァが命じられて、3ヶ月ほどで任務を終えると、
  1537年4月某日、単独で西に発見を試みたのが運のつきだった。

  逆風で戻れなくなり、モルッカ諸島を目指すしかなく、飢餓が引き金となって反乱が起こり、
  病んでいたグリハルヴァは殺された可能性も否定できない。

  新隊長は西進し、ニューギニア付属の小島で原住民に捕らわれた。
  生存者3人がポルトガル人に救出されてモルッカ諸島へ移され、
  その一人が報告書を作成する機会に恵まれて、その苦難に満ちた航海を語っている。
  ほかにも生存者がいた可能性がうかがえる。


副王ヴェラスコも、前年(1559年)の9月14日付け国王書簡に対し、(1560年)5月28日に、
モルッカ諸島の近辺にあるフィリピナスのような別の島嶼を、と打診している。

  このメキシコにいる最良かつ最も確実な地理学者ウルダネタと、私のみで行った検討結果では、
  フィリピンはポルトガルの領域に属する。

  紛争の解決は国王へ下駄を預けるしかなく、
  フィリピン諸島とその周辺にいるスペイン人の救助であれば、協約に違反しない。

  2隻のガレオン船と、パタチェ船が、61年の春に進水する予定である。

  大砲、弾薬、交換用品については、それなくしては航海できないが、
  当地では調達できない、という物が多く、目下は大砲と犬釘しか届いていない。

  当地で製造すると高い。運搬すると、海と川を経て、陸路は荷車・馬車のほかに、
  原住民の肩を使役しなければならない。インディオの犠牲なしに費用を抑えることは不可能である。

国王がヴェラスコに送った白紙の書簡は、時に応じてふさわしい人物宛てに使うものであった。
役職者へ指示する際の主要点は、取引や交易で留まらない、という命令のことである。

可及的速やかにメキシコへ戻る、ようにさせるのは、
国王が最も知りたいことが、復路の確保のために何ができるかということであって、
これが船隊に課せられる目的であることにほかならない。

要員の構成に、その点を優先するように配慮したものの、
斧と金槌が動くのを秘密にはできず、ペルーの取引と沿岸の安全のために行う航海、と偽装している。

1561年2月9日、副王ヴェラスコは国王へ宛てて、1月中旬で合意していた出帆の、
遅延理由を説明せざるを得なくなった。

厳冬と、河川の氾濫と豪雨で、あちこちの鉱山が水浸しとなり、船舶が持参するはずの銀が出ない。
艤装のための装具、錨、帆、そのほかの必需品が足りない。

航海士を3人揃えているが、往復二重の航海となるから、万一の欠員がありうる場合を考慮すると、
どうしてももう二人必要だ。

兵士、水夫、役務要員を含め、250から300人の派遣を予定し、その統率者で長には、レガスピを決めた。

50歳で、このメキシコに29年以上おり、担っている役職と重要な案件をこなし、
これ以上ふさわしい人物は選定できず、ウルダネタにも大いに満足できる選択だった。

首脳陣をバスク地方の出身者で固め、船隊での摩擦を最小限に減らして、        (私注:フランシスコ・ザビエルもバスク人)

運営に支障が生じないように配慮することは、計画の機密保持上からも理想的である。(p90)

  (ずっと、飛ばす)


第3章 (メキシコ)行政院の、封印し密封した指示書

途中!で開封するようになっていた指示書の内容が続く。飛ばす)

(指示書の内容に日本情報あり)

(p119)9行目:「地球儀によれば、本航海で日本の諸島へ到達する可能性があり」

(p120)4行目:「日本諸島、その他周辺および大陸の沿岸では原住民が海上で大取引をし、
大型船で航海するといわれ、遭遇すれば丁重に扱ってやり、絶対に悪行を働くのに同調しないで、
むしろ友好を交わすのに努める

(飛ばす)
(p124、中ごろ)   秘密の保持について

当該船隊が言葉のわかるインディオの通訳を乗せる場合、同行のあらゆる者に厚遇させること。
逆になんらかの冷遇をすると、マゼランの船隊で起きたように、大損害が生じるのが常である。

順守しなければならない本指示書の内容が、風のために航路を継続できずに針路変更するとか、
他事項で指示を変える必要がある場合など、風と事件へは臨機応変に対処する。

神と陛下への奉仕に適っているかどうかどうかが、その判断と決断をする基準であって、
汝のキリスト教信仰、沈着、熱情を信じ、全権と指揮を委ねた次第である。

フィリピン諸島およびその周辺へ赴く意図を絶えず懐き、志半ばで断念することなく、
早期にメキシコへの帰路を発見し、香辛料その他をもたらすのを、期待している。

派遣する船の1隻でウルダネタを戻らせ、代替はあり得ない。

その方面での長い経験と体験、有するほかの特質から、航海で帰路を確かめるのに不可欠で、
彼が汝へ指名し願う隊長を任命する。

戻る船へ託する陛下とその御名の行政院あての書簡を、船隊で率いる者へ自由に書かせること。
そして、やると悪事と不忠となるから、誰も絶対に途中で開封をしないこと。

メキシコのいずれかの港か場所へ到着し次第、善処間を残さず集めて、行政院あて封筒へ密封して封印し、
陛下の代理の任にある者が知る前に、発見の事項が公になる被害を回避する。

指示書を与えて、かかる任務を課する首脳へは、行政院が到着を知って、書簡を受領したと通知するまで、
誰も上陸させないようにし、上陸してもいっさいスペイン人や、メキシコの人間とは接触させない。

滞在した土地、持ち帰った品、航海中に発生した情報を、何も言わせず、喋るのに同意させず、
口が堅く何も喋らない、信頼おける使者へ書簡を託し、陸へ上げる。

徒歩で集落へたどり着き、インディオか代官を見つけ、到着がわかると連絡がなされ、
行政院の命令か書簡を提示する者を信じて手渡す。

開けるのは勿論のこと、その者たちに何も言及しない指示をし、通知を示して書簡を渡すだけでよく、
船の要員には土地の代官がしかるべく食品や必需品を供与する。

(飛ばす)p129
公式の出帆日は1564年11月20日月曜日真夜中の2時(つまり21日の早暁)。