伊東章『マニラ航路のガレオン船』鳥影社2008年 2012.3.20
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ウルダネータの発見航海(第5回レガスピ艦隊内)
この伊東著はスペイン語文献を基本にした本らしく、日本では貴重な情報らしい。
(以下のように、詳細な記録があって、出帆6月1日は間違いない。どうも、他に一致する文献があるようだ。
帰還日も、それを証明する文献が、他にもありそうである。
無寄航ということになっているが、
本当に4ヶ月も全く補給なしでは、壊血病だけでも全員死亡の原因になり、目的の達成は不可能だと思う。
日付は確かだろうが、その点だけ考えても、記事の 中身の信頼度 は落ちるのではないかと考える。)
ウィキペディアが、ウルダネータの発見航海、出帆7月1日と、
一ヶ月も違うデタラメ情報を書くので、 (これは2008年以来ずっと)
詳細な文献があることを証明する必要があると思った。
郷里の人達や、これまでこのホームページを作るのにお世話になった方々も、
この航海記録を元にした記事はとても興味があると思うので、
この部分を転記させていただこうと思う。
少し読みやすいように直してある。「改竄」?が心配な方は、元の伊東著に当たってください。
鳥影社に引用掲載許可をいただきました。(2012.3.26)
比較:松田毅一『慶長遣欧使節』より、「5回の帰還路探検航海」(記事内容が違って見えるので)
比較:伊東章『マニラ航路のガレオン船』より、第4回ヴィジャロボス(ビリャロボス)探検隊の記事、先行隊の情報
伊東章『マニラ航路のガレオン船』より第5回レガスピ探検隊
第4章
(p182)
メキシコへの復路を発見する航海へ、ウルダネータを派遣する。
(p183)
サン・ペドロ号の整備が整い、乾パン、米、粟、えんどう豆、ガルパンソ豆、食油、酢、
8か月分の葡萄酒、水200樽を搭載し、
二人の兵士と二人の神父を含む200人が乗り組んだ。 (私注: しかし、兵士はあとでたくさん登場)
6月1日金曜日、
帆を上げたものの、引き潮と風がなく、1レグア沖で碇泊を余儀なくされた。
レガスピ(フィリピン総督)の孫フェリペが指揮し、国王から命令されている通りに、
ウルダネータが航路発見の任を担い、
二人の航海士ロドリゲスとエスピノサが補佐する。
夜通し眠らずに、航路、風向き、岩礁へ目を光らせ、地理学と海洋学の権威者として、
国王とメキシコ行政院の期待に、ウルダネータは応える必要がある。
(中略:しばらく陸上支配開始と経営の話が続く)
第5章 最高で39度半前後へ上るーーー黒潮の発見
(p196) (以下は航海士エスピノサ・ロドリゲスの記録かららしい)
セブ島とマクタン島との間を航行して、二つの島の間を日曜日の朝(6月3日)に抜ける。
「セブの川」と称される海峡で、狭いところでは火縄銃の弾が届く。
3日を費やして沖へ出る。
北東への進路を取って、レイテ島西側の陸地へ接近した。
海岸線が12レグアほど北微北西に走っているから、二つの島の間を北へ向かうと、
セブ島の北端へ達する。1レグア先に、2レグアはある岩礁がある。
この岩礁とレイテ島の間に丸く小さな木が密生した小島があり、この2島の間を進むと
聳え立った土地が見え、こんもりとした聳える土地が、そのまま山麓が海へ落ちているような具合だ。
レイテ島の南端で、サマル島へ行く水路、サン・ファニコ海峡の入口があり、
2島が形成するこの水路の入口で、東西へこの海岸がくっついていて、全体が東の方角となり、
11度3分の2のフィリピナス島こと、レイテ島沿いへまた逆戻りする。
1レグア半ほど北の方に聳えた真ん丸い島が見え、最高部は大きさの違う二つの島のようで、島の南側は平地になって人家が見える。
東側には多数の大小の島嶼が点在しており、西側には三つの頭の形をした石の島があり、
この島との間に水路があると考えられ、
さらに6レグア西には平野のある南北へ伸びた島がある。
セブ島が南の方角となり、この島の北には別の島が見え、西にもいくらか大きい別の島があり、サン・ペドロ号は北への針路を取っている。
東西にある島の間を、航行して北東へ転じると、12度4分の3のフィリピンナス島の、その岬にある大きな波止場へ到達した。
エスピノサの記録から、正確な航路の把握が困難なのは、
レイテ島とサマールシマ島が混同され、フィリピンナス島とのみ言及されているからで、
緯度上からは、サン・ペルナルディノ海峡へ向かっている。
フィリピンナス島と小島の間で7、8隻のインディオのパラウ船が漁をしており、
5レグア先の北東の方向に、二つの聳える火山がある大きな島が見え、
岬へ至ると海流で6、7レグア以上も南西へ流された。
三つの小島の間に漂泊し、その一つの3レグアほどの丸い、火山のある島へより近い島で、
給水に約四十人を派遣している。
岩礁と命名した島の海浜には、数軒の家屋とパラウ船があり、家にはおよそ40人がいると推測され、
上陸するとインディオが現われ、一人の兵士へ重傷を負わせた。
そのあとから、20人の火縄銃兵と20人の刀剣兵が続いて上陸すると、原住民は有している砦へ逃げ込み、
出てきた2,3人のインディオを殺して、船へ引き揚げている。
この島には水がなく、砦にあった彼らの小間物すべてと大量の椰子の実を集め、
いくらかの米、魚、1頭の小さい獲物を、戦利品として持ち帰ってきた。
この砦には一人のインディオの死骸があり、血で満ちた砦に変わったのであれば、
殺害した数は過少に報告されており、集落の原住民すべてを虐殺したことになる。
(私注:エスピノサ記録に「血で満ちた砦に変わった」という記述があって、
それが「一人殺害」という報告と一緒に出てくる、という意味なのだろうか)
北風と海流に乗って、正午にサン・ペドロ号は帆を上げ、北東へに針路を取って、
サマール島の西側に接している12度4分の3に位置する、
アセンションと名付けた小島で漂泊した。
この島は住民が多く、海辺に二つの小集落があり、陸から4分の1レグア離れた、20尋の深度がある沖合いにいて、
少ししかなかったが、豚、椰子の実、水を補給している。
20人が端艇に待機し、22人が上陸したもので、集落のインディオが集落を空にし、
あった米、大量の椰子の実、豚、鶏を略奪した。
これらをわれわれの船へ潤沢に積み込んだ。肝心の水はここに少ししかなかった。原住民は遠隔から運ぶからである。
だから水は、各家屋が蓄えた飲み水を集めたに過ぎない。
南北へ2グレア半ほどの、アセンション島を7日木曜日に離れ、
北東の方角へ舵を切って、外洋へ出るためサマール島へ向かい、
9日土曜日に13度を越え、そのサマール島も背後になった。
火山の島までおよそ6,7レグア、北西の方向に2,3の小島、この距離の中間にも小島があり、東微北東への針路を取り、
サマール島とこの島との間を抜けた。
サマール島の沿岸は、10レグアほど東西へ走っており、その東側から外洋へ抜けており、
このときはマヨン火山のある場所が、ルソン島の南端であるとは、理解していない。
翌日曜日(6月10日)、正午、サマール島からおよそ12レグア離れた。
西微南西へ位置してまだ見えた。
11日月曜日の正午までの航路距離は、東微北東へ32レグアである。
12日火曜日、14度6分の1に位置し、北東へ28レグア進んで、
翌水曜日(13)と木曜日(14)に東微北東へ各15レグア、
金曜日(15)は南東の風で南へ12レグア航行した。
16日土曜日、再び東微北東へ25レグア、緯度は17度を越えており、
翌日曜日(17)に同じ距離を航行して、18度へ達し、
月曜日(18)に30レグア進んで19度にある。
1日の航続距離も、エスピノサとロドリゲスに食い違いがあり、
たとえば18日月曜日の場合、ロドリゲスの記録では27レグアとなっていて、
同じではない。
19日火曜日、22レグア航行して20度へ達し、
20日水曜日は東へ16レグア、
キリスト昇天祭の21日木曜日、25レグア航行している。
ロドリゲスとエスピノサが一緒に、この日羅針盤がある操縦室にいると、
右舷側に、停泊している船を思わせる岩が見え、
この数日来風雨のため太陽の高度を計測できず、
海図に記されているのは20度である。
ロドリゲスが見張り台へ上がって、
北東と南西へ伸びている2レグア半の岩礁へ引き寄せられ、
波が砕け船首もろとも運ばれる危険性を確認した。
ごく小さな石でできている岩礁で、そのほかは波が砕いた浅瀬で、
セブ島からは300レグア、サマール島の岬から240レグア離れている。
別途にエスピリト・サント岬と名付けた岬から見ると、
この地点は同じ20度を越えて位置する、パレセ・ヴェラこと沖の鳥島ではなく、
マリアナ諸島の北端ファラジョン・デ・パハロで、実際には400レグア以上である。
翌22日金曜日、東北東へ20レグア、
23日土曜と24日日曜日は南東の風で、それぞれ東微北東へ18レグア、
25日月曜日には14レグア航行した。
(p200)
26日火曜日に東へ16レグア、
27日水曜日と28日木曜日はいずれも北東微東へ12レグアへ進み、
29日金曜日は北東へ30レグア、
30日土曜日は20レグアである。
サマール島をあとにして以来、今月最後の日の本日まで、
絶えず右舷側へわずかな風を受け、基本的には北東への航行を続けて、
徐々に緯度を上げていることになる。
7月1日日曜日、その緯度は24度6分の一で、北東へ15レグア進んで、
2日月曜日は北東微北へ24レグア、
3日火曜日には30レグアで、27度強に位置して、
4日水曜日は30レグア航行した。
この日の夜、日中に太陽の高度から緯度を割り出すのに加え、
本航海では初の北極星を観測し、その結果では、29度へ4分の1度足りない。
翌5日木曜日、太陽の観測では29度3分の1で、夜間の観測と全く符号し、
北東の風で南東へ、11時に南東の風で北東へ転じ、
北北東へ24レグア進んだ。
6日金曜日、緯度は30度へ達しており、北東微北へ17レグア、
7日土曜日には14レグア、
8日日曜日は西風のために、それも南西から南南西へ巻いていて、
東へ8レグア、のみ航行した。
9日月曜日は18レグア、31度へ4分の1度欠け、
隊長が3航海士に対して、持参の航海図に従って航路を測定する要求を出している。
目下いる位置が、果たして正しいのかどうかを、よりよい報告を陛下へ行うため、
それぞれの見解を質したもので、「海図の数字」を照合する必要がある。
ラ・ナヴィダ港とセブ島の間は1850レグアの距離があり、実測値は2000レグア内外であると、
公証人アセンソ・デ・アギーレの前で、ロドリゲスが述べて署名した。
エスピノサの見解は、持参している古い海図では1370レグアを越え、
2030レグア航海しており、
アスティガリビアの見解は海図上1850レグア、実測値は2010レグアである。
10日火曜日、東へ30レグア、
11日水曜日は45レグア航行し、30度3分の1へ位置しており、
12日木曜日の観測では、30度3分の1へ達した。 (日本ではこの緯度だと屋久島あたり)
羅針盤が北東を指すから、東へ航行して緯度を減らす必要があり、
この日は38レグア航行し、
13日金曜日は東へ27レグアである。
翌14日土曜日の太陽では、31度へ6分の1度足りず、
東微北東へ18レグア進んで、わずかな風で夜間の2,3時まで北東へ、
その後も15日日曜日の朝まで、北東への舵を取った。
それ以降も風が不足し、北微北東へ22レグア航行し、夜明け前の北極星では31度半、
太陽では31度3分の2で、16日月曜日も同様に風が不足している。
北および北微北東の針路を取り、北東の風で直ちに東南東へ転じ、この日15レグア進んで、
17日火曜日の朝の北極星観測では、32度6分の1を示しており、
羅針盤が1ポイントほど北東を指しており、
東南東の針路から南東へとしたため、船体が傾いて舵を北東へ変えている。
18日水曜日、強弱のある東風で、正午までジグザグに航行し、その日17レグア進み、
19日木曜日夜明け前の北極星では、32度半に位置しており、正午の太陽観測では32度3分の2である。
この日は北東へ18レグア航行し、
20日金曜日の太陽の高度計測では、33度5分の3へ達し、北微北東へ20レグア進んだ。
(徳島県 海部郡海陽町四方原字杉谷
北緯33度36.7分 東経134度21.3分)
21日土曜日は22レグア、夜間の観測では35度半に位置し、
22日日曜日は太陽で36度3分の1、北極星で36度半で、南の風で東へ押され、
北北東へ22レグア航行している。
23日月曜日の朝の北極星では36度3分の1の緯度にあり、太陽では36度4分の1、航続距離は14レグア、
24日火曜日は東へ22レグアである。
25日水曜日、太陽の高度で36度、羅針盤が北東を指すため、緯度を修正して東へ32レグア、木曜日には26レグア、
翌26日金曜日は東と東微北東へ30レグア航行した。
27日土曜日は、南東と南の風で、北東へ35レグア、太陽観測では36度4分の3にあり、
28日日曜日は南西の風で、東微北東へ16レグア進んでいる。
29日月曜日は東へ10レグア、太陽では37度5分の1、
30日火曜日は無風と午後の北北東の風で、12レグア航行して、 (私注:7月31日が抜けている?)
8月1日水曜日に東微南東への針路を取った。
あるときは東南東へ、東風で正午までは南東へ、北北東へ変えながら8レグア進み、
2日木曜日の太陽観測では38度弱、北北東および北微北へ、17レグア航行している。
3日金曜日は北微北東へ20レグア、39度強の位置にあり、 (緯度だけで言うなら、岩手県 陸前高田市・大船渡市付近)
4日土曜日に北微北東へ3レグア、北北東と北東の風で南東へ進んだ。
しばしば針路の変更を余儀なくされ、東の方向へ12レグア進み、
5日日曜日に東南東と南東微東と入れ、南東へ30レグア航行している。
羅針盤が北東を指すから、これに合わせて南東の針路を取ると、船が傾いて転覆の危険を直面し、
6日月曜日は南東微南へ27レグア進み、
7日火曜日は南微南東へ22レグア、太陽観測では35度である。
8日水曜日も南東へ同距離を記録し、緯度は34度へ5分の1度足りず、
9日木曜日は南東へ20レグア、
10日金曜日24レグア航行した。31度4分の3と緯度が下がっているのは当然で、
11日土曜日は波静かで17レグアに過ぎず、30度3分の2に位置している。
距離の記録は、その日の正午から翌日の正午が原則だが、
12日日曜日の場合は異なって、前日の真夜中までの南東の方角へ10レグアと、
土曜日正午から日曜日正午までの、北北東への5レグアである。
13日月曜日は無風で、
14日火曜日東へ6レグア航行し、
15日水曜日は南東の風で東へ16レグア進み、緯度は31度弱に位置している。
16日木曜日は北東微北へ15レグア、31度半の位置にあって、
17日金曜日は同緯度を北東へ17レグア航行し、
18日土曜日は北北東へ29レグア進んだ。34度に達し、
19日日曜日には数度の方向転換で、北東の方角へ10レグア、
20日月曜日は南東へ20レグア、
羅針盤の針は北へ固定してあるのに、見張り星が南西にある。
21日火曜日、2度針路を変えて南南東へ15レグア、北東微北の方角へ6レグア、
総合すると東の方角へ12レグアで、太陽の高度計測では30度3分の2に位置している。
22日水曜日、風向が定まらずに北東、北東微東、東へ進路を変え、
北東へ30レグア航行し、緯度は34度強にあって、
23日木曜日は15レグア進んだ。35度強に位置し、
24日金曜日は北東へ5レグア、緯度は35度4分の1、
25日土曜日は西の風で波静か、東へ6レグア航行したに過ぎない。
26日日曜日、北北東もしくは北の風で波高く、東ないし東微南東への針路で、東南東へ16レグア進み、
35度に6分の1弱である。
27日月曜日、無風と何度かのにわか雨で、前日と同じく16レグア、
28日火曜日は南東と東南東の風で南へ3レグア、
北東と東北東の針路で16レグア、緯度は35度に6分足りない。
29日水曜日は南東の風で北東微東と東北東へ30レグア、
30日木曜日は強風とにわか雨で、主帆を下ろして航行させられ、北東へ24レグア進んだ。
31日金曜日は南東の風のため、北東微北へ18レグア航行した。
9月1日土曜日は22レグア、太陽による緯度は37度3分の2である。
元は南半球での公開用に開発された方法で、風が静かであるから南北を入れ替え、偏差値を修正した結果であって、
エスピノサの測定では緯度が38度半強、3日の距離も高波のため上回っている。
2日日曜日、正午まで東北東へ3レグア、そのあと南東の風となり、
にわか雨で主帆を下ろし、真夜中には強風で補強帆を下げ、
3日月曜日は強風と高波に警戒し、北東へ24レグア航行した。
午後に濃霧の中で帆を修理し、真夜中に南南西の風となり、南東微東への針路を強いられ、
4日火曜日に帆を張って南東へ12レグア、39度3分の1に位置している。
118レグア先の41度に、海図上では陸があるはずで、
ウルダネータの計算によると、同緯度上210レグアである。
5日水曜日、南東微東へ32レグア、位置は38度4分の1強で、
6日木曜日は南西の風で、南東へ25レグア、37度3分の1にあって、
正午以降は東南東へ針路を変えた。
7日金曜日、南風で舳先を南東へ向け、同緯度にあって東へ16レグア進み、
8日土曜日歯東へ25レグア進み、風がしばしば東への航行を妨げ、緯度を37度半弱へ上げている。
9日日曜日、同緯度を東へ20レグア、
10日月曜日は東微南東へ5レグア、
11日火曜日は東南東へ6レグア、
12日水曜日は南南西、南、南西の風で、東へ23レグア進んだ。
13日木曜日、南東へ27レグア航行し、夜間に南東微東の針路を取った。
これは海図上23レグアに最寄の陸地があるからである。
74レグア先の北東および東南東に目的地があり、
14日金曜日は東微南東へ14レグア、羅針盤は3分の2ポイント、
その夜は半ポイント弱北東を目指した。
この磁気異常は、ラ・ナビダ港と同程度で、近くに陸地がある証拠と捉え、
15日土曜日は30レグア航行し、行程の半分は東微南東へ、もう半分は東南東へ針路を取っている。
36度強の位置にあり、この地点までセブ島から1545レグア、8レグア先の東にラ・ガレーラ港があり、
セブ島とラ・ナヴィダ港の間は2000レグアである。
16日日曜日は北の風で、東へ28レグア、35度4分の3に位置し、
17日月曜日は強い北風のために主帆を下ろし、東南東へ36レグア進んだ。
18日火曜日午前7時、操縦席から右舷に陸地が見え、
そのとき左舷に風を受けていて、直ちに舳先を向ける操作をしている。
この島は北北東、南南西へ伸び、真ん中が高くなっていて、両端は先細りの岬を形成し、
北西の側1レグア半は、水面へ出ている石を思わせ、33度4分の3に位置する。
狼煙が上がっている、5レグア先のガダルーペ島へ、「待望した島」と名付けて、
強風のため探索は諦め、南微南東へ舳先を向けた。セブ島から1650レグアにある。
サルセドが、この日ロドリゲス、エスピノサ、アスティガリビアへ、セブ島からこの地点までの距離と、
加えて上がる緯度に関し、証言させた。
ロドリゲスはメキシコの西海岸の本土の近くにおり、直線距離で1740レグア航行し、
最高で39度半前後へ上がったと述べ、
エスピノサは1650レグアの直線距離を示し、
アスティガリビアの場合も同様である。
月曜日の正午から火曜日の正午まで、東南東へ30レグア進んで、
19日水曜日には46レグア、太陽の観測では31度に位置する。
20日木曜日、南と南微南東へ半々ずつ36レグア航行しており、
羅針盤が半ポイント北東へ傾き、実質は全行程が南微南東である。
セドロス島との位置関係は東西で、南東への針路を取って、
21日金曜日に南東へ8レグア、東南東へ20レグア、あとは陸地を求めて東微南東へ、合わせて38レグア進んでいる。
28度弱の緯度にあり、磁気異常を考慮して東への針路で、
22日土曜日に20レグア航行し、27度3分の2にあり、舵を取っていた水夫が午前8時に陸地を発見した。
エスピノサが見張り台へ上がると、やはり島のような陸地が見え、東北東の16レグア先で、やがて隠れてしまってわからない。
正午から4レグア進んで、午後3時に北東の方角12レグア先に高い円錐の陸地が見え、位置する緯度は28度強である。
明くる23日日曜日、高い土地でいくらか丘状のある海岸線が見え、前日に見えた陸地も北微北東で、
南東微東のサンタ・カタリーナ岬が4レグア前方の27度5分の1に位置する。
その岬を曲がると、波止場を形成していて、中間にあるのが最大の、三つの岩礁があり、それぞれ乳房の形をしており、
南側のが中間の大きさで北側のが一番小さい。
サンタ・カタリーナ岬から、東南東の方角へ13レグアほど海岸が伸び、
浅瀬か砂地で海上の岩礁と陸続きで、湾曲した土地の岬を形成している。
24日月曜日、25度5分の3にあって、南東微東へ51レグア航行し、その間約15レグアの沿岸の果てに、
すでに夜で島とは断定しないで、島のような高い土地と遭遇した。
沿岸から2レグアでが、15から20尋の深度があるが、砂地の浅瀬のため南南西へ舵を取ると、
東南東の方角2レグアに、7レグア強の別の高い陸地がある。
24度4分の3の地点で、見張り星は南西の空に見え、波止場と8レグアほどの高い土地が続き、
その岬にピラミッド型の岩がいくつか突き出ている。
翌25日火曜日に全容がわかり、この土地は南東に走っていて、岬は24度ちょうどに位置し
これを曲がると入江と低地がある。
26日水曜日、23度4分の1にあって3レグア離れて東に高い土地が見え、
南東の方角の9レグア先に浅瀬の岬があり、23度へ8分の1度欠けている。
カリフォルニア海流に乗って、
海岸線に沿い東微南東へ15レグア、そして南東微東へ舳先を変え、
この日、36レグア航行し、23度に8分の1足りない。
カリフォルニア半島の突端へ達すると、高い土地から南東の方角2レグア強の低い土地の岬となり、
岬の上に、島のように見える丸いパンを形成している。
本土の陸側の海の上へ、パンの半分に白い部分のある、砂糖パンのような別の特記した岩で、
黒い睫毛がもっと海へ注目し、白い部分がある故にブランコ岬と命名したのは、 (元の文のママ)
半島の南端サン・ルカス岬である。
羅針盤は北を指し、この日の夜に船の管理人イバラが死亡し、
当然のようにこの岬の海へ投棄して、
27日木曜日はこの岬と北東と南西へなるまで、南東へ航行している。 (元の文のママ)
22度3分の1まで、東南東への針路を取って、総合すると南東微東へ、28レグア進んだことになる。
大航海士ロドリゲスが、この日の午前9時と10時の間に、中途までの航海日誌を残して死に、
やはりイバラと同じく海中へ葬られ、本航海中の死者は16人へ達している。
28日金曜日、東南東へ28レグア、21度半へ二分不足し、午後の2時と3時の間に、
一つは11レグア先の北東の方角に、もう一つは東微南東に2島を発見した。
正午の観測時に、前者の島は15レグア離れており、東の針路で5,6レグアへ近づくと、
日没となって南東へ舵を切っている。
ウルダネータが、エスピノサと協議して合意したもので、これらの島嶼は本土近くに位置する、
いずれもラス・トレス・マリアス諸島の一部で、コリエンテス岬の南東、北北東と南南東と海図へ記入した。
明くる29日土曜日、南東の方向にもう一つの島が現われ、高度のある北東の島は、
北東と南東へ伸びて細い岬を形成し、中間の島は北微北東に位置して、
両島の間隔は3レグア強で、同様な形を有している。
遠くてわからないが総てで3島で、中間に位置する島は小島と思われ、
南東の島も小さく、高く、円形で、南東の方角へ低い土地がある。
ラス・トレス・マリアス諸島は、ブランコ岬から68レグア、20度半の緯度に位置しており、
船上からは南東微東に、コリエンテス岬へ続く陸地が見える。
東南東へ4レグア、東へ5レグア航行して南東への針路を取り、27レグア進んだ午後4時と5時の間に、
ラ・ナヴィダ港へ至る岬は東微南東へ位置している。
翌30日日曜日、コリエンテス岬とラ・ナヴィダ港の中間にあり、初めての航海で陸地の状況はわからず、
風が凪いで海流が北西へ方向を変え、この日の緯度は20度へ6分の1欠けている。
ラ・ナヴィダ港の位置は19度3分の1であるから、残る距離は12レグアとなり、
陸地から2レグア半沖の北東の方角に高い丘陵がある。
南東の側には、二つの高い円錐の山を形成し、それぞれの山が二つに分かれ、
鞍のような形をしており、四つの盛り上がりの中間は禿山と判断される。
二つ一緒の円錐の山は、それぞれと無関係に聳えて、高度がある陸地の証拠であり、
東の方角2レグア半に小石の岩礁が見え、
これと接する陸地には二筋の川が、海図上ではあることになっている。
この岩礁へは、4レグア離れたハメラから漁に来ており、一帯の全海岸が白い砂地で、
ハメラの沖の陸に近い2,3の石の岩場が漁場である。
目的地までは、残すところ10レグアとなり、
翌10月1日月曜日の朝は、ラ・ナヴィダ港の沖で明け、
セブ島の港から1892レグアの距離を航海した勘定になる。
サルセド隊長へ報告すると、アカプルコ港への回航を命ぜられ、
病人多数で10人か18人しか働けず、
それを克服して10月8日月曜日に到着した。