ヴィジャロボス(ビリャロボス)探検隊・困難と情報収集 (伊東章『マニラ航路のガレオン船』より)
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ネット辞書ウィキペディアが、「ビリャロボス(本稿ではヴィジャロボス)」の項目で、
残った乗組員が、逃亡してメキシコに戻った、
と書いてあるので、何としても反証を出したい。あり得ない話である。
彼らはヴィジャロボス隊としてポルトガルに投降して、インド経由でリスボンへ戻ったのである。
年表:第4回ヴィジャロボス探検隊
***「ポルトガルとのにらみ合い」の続き
カストロとヴィジャロボスがにらみ合い、書簡をやり取りしている間、糧食不足は深刻だった。
インディオの奴隷、多数のスペイン人が死亡した。
将師メリーノと国庫係エストラダをミンダナオへ調達に行かせることにした。
しかしほぼ3ヶ月前の水田の稲を刈る挙が徒となり、水田を防衛するために原住民が抵抗し、
メリーノら大勢が殺されてしまった。それでも飢えの恐怖の苦難を厭ってはいられない。
さらにマンリケらを派遣し、海上から大砲で陸上の者を援護するための船も出し、
収穫した米と残留者を収容させている。
強風のために補助帆のみでの航行を強いられ、そこから5レグアにある湾への避難を試みると、
帆が古くボロボロで、船を陸へ乗り上げさせた。
転覆してすぐに大破し、人員は端艇で助かったものの、積荷と多くの大砲と兵士の持ち物を失い、
レトラン号が戻ってきただけであった。サランガン島での飢餓は増大したのである。
アルメイダが率いるパラウ船は、モルッカ諸島へ戻る際に水夫を一人拉致し、
スペイン人が稲を刈った場所に至ると、
セレベス島のインディオを上陸させ、原住民へ援助を申し入れさせている。
遂に万策尽きて、フィリピナスのブイオという地方へ行くことを決めたのは、
健康地で多くの糧食があるといういい知らせを、レトラン号が持ち帰ったからである。
サランガン島で二隻のベルガンティン船を建造したため、船隊の船舶数はむしろ増えている。
定着しわれわれを収容する砦のようなものを建て、大量の糧食を買い付けるため、
レトラン号を先行させることにした。
(フィリピナス島ブイオへ向かったつもりだったが)
8日後に、ナオ船1隻とベルガンティン2隻は出発した。しかし4レグア足らず進むと逆風に遭い、
航行を中断して日和を待つしかない。
ベルガンティン船を使って、徐々に人員を陸へ運んで米の調達を図っても、足元を見て売ってくれない。
陸へ上がった者の内、11人が殺されている。生き残った者もふらふらだった。
配給量も4ポンドの米だけで、それすらも10日分以上はなく、
レトラン号が残しているはずの航路の目印、木の根元の書簡も見つからない。
暗雲と潮流で、風がないためにサマフォ島へ流され、ハルマヘラ島の王に属するサガラという集落へ着くと、
交戦中のポルトガル人がいて、上陸してはならない、さもなければ防戦すると勧告文を突きつけてきた。
ところが修繕のためにわれわれと離れていたガレー船クリストバル号が、同じ島の別の地方にいて、
歓迎されて食糧を供与されているのがわかったのである。
二隻のパラウ船で、ガレー船クリストバル号の二人の領袖がやってきた。
彼らは、「ハルマヘラ島の王」の書簡をたずさえていた。王は、ポルトガル人から守ってくれるよう求めていた。
ヴィジャロボスはパラウ船で十分に装備した20名を派遣し、ガレー船の回収をさせる一方で、
王と会える段取りをつけるように指示している。
所定の場所で会うと、スペイン国王陛下への奉公の意思を示した。
ポルトガル人に6000人以上が殺されたと言い、
砦を築いてわれわれの金で糧食を売ってくれるという合意が成立し、
ハルマヘラ島へ行くことになった。
旗艦には檣楼帆がなく、航行に支障があるが大砲は放棄できず、全員の意思で曳航して、ハルマヘラ島で二軒の家を建て、
決められた価格で商品をさばいている。
兵員と大砲を据える砦が提供され、ロアイサの船隊で到来して以来、テレナテ島でポルトガル人と暮らしていた
ペドロ・デ・ラモスが、財産没収を覚悟の上で加わってきた。
ハルマヘラ島は、貧しくて酷い病気の土地で、節約しても糧食はすぐに尽きてしまう。
かつてスペイン人の友であったティドーレ島の王へ、人身提供で払うという条件で、 (私注:ティドーレ:テレナテの南隣の島)
糧食支援を、この地で長く暮らしていたラモスに交渉させた。
過去の苦い経験に懲りて、ティドーレ王は言い訳し、同意を拒む。
テレナテ島にある陛下(スペイン国王)の大砲奪還が悲願の、ハルマヘラ島の王の思惑とも一致しない。 (私:?)
しかし、テレナテ島のポルトガル人の動きが活発化すると、ティドーレ島の王「自身」が、
島へ来る要請をして、糧食を与える、と、庇護の保障を求めてきた。
ティドーレ島の王は、ハルマヘラ島の王の娘との結婚に訪れたもので、
ポルトガル人とは戦わない、丁子の取引を奪わない、という前提がついている。
ハルマヘラ島の王と確かな合意を交わして、70人を先発させ、ヴィジャロボスがティドーレ島を視察したが、
スペイン兵を残して戻ったため、ポルトガル人をいたく刺激した。
兵士の数だけでは、スペイン兵士がテレナテ島のポルトガル守備隊を上回るのだ。
自分のせいだと見て、ポルトガル人が黙ってしまった。
ティドーレ島の王が、二隻のパラウ船と共に、フィリピナスにいる僚船を探す決定を下した。
(僚船捜索と情報収集の航海)
1544年5月28日、デスカランテ(エスカランテ)が、
ティドーレ島のインディオ、ラモス、数人のスペイン人を率いて、島を離れた。
3日でセレベス島、パンギサーレ島、サーオ島を経て、立ち寄った小島で、
メキシコからの船舶の到来を考え、目印になる書簡を残した。
途中の島で、給金をはらう約束で、通訳としてインディオ一人を雇い、ミンダナオ島の沿岸を航行して、
『金』のあるミンダナオ、ブツアン、ヴィサヤの3地方の名前を聞き出している。
ある湾で、神父の書置きを見つけた。それには、
4月何日かに着いた。18人で総隊長を探し、その間に15人が死亡。
ある島の浅瀬で10人が溺死。
ブイオ川ではカラルス船が遭難して、原住民と友好を交わした後に、裏切りで5人がとらわれた。
21人を率いたラ・トーレの手紙も残されていた。
取引後に総隊長を探したが、見つからず、船底をこすったのでテレナテ島の砦に向かった。
僚船の捜索は目処が立たず、パラウ船のインディオも帰りたがった。
しかし先へ進んでマサグア島へ至り、セブ島へ向かった船があるのではと、念には念を入れて探っている。
二隻のジャンク船にいる、ボルネオ島からの一人のインディオを見つけ、
ブツアンで買い付けた金と幾人かの奴隷、二日の行程にある肉桂の島、の情報を得たのである。
8月18日に離れて、パナオン島をかすめ、アプイオ島へ着くと、岸辺に二人のスペイン人がいて、
18人中の5人の生存が確認されている。 (私注:数が?)
神父らの捜索は続いた。夜の嵐で13日間陸を見ず、3日間水を飲まず、無風に耐え、
タンディジャ島へ戻って合流した。
アプイオ島の首脳が、5人のスペイン人を連れてきて、約束したように費消した分を要求されて支払い、
タンディジャ島の川の上流にある集落で、神父、デスカランテら、ほかの13人と再会した。
ベルガンティン船は舵の鉄をなくしたが、幸いなことに、連れているセレベス島のインディオが鍛冶屋であったため、
修理ができた。浸水をかき出し、全員を収容した。
他の地方にいる3人のスペイン人も取り戻そうとして、多額を払った。
しかし渡さない。逆に挑戦されて、不首尾に終わった。
銅製の小砲と何丁かの火縄銃を買い付けた。そして沿岸を航行中に捕らえた古老のインディオから、
シナ人のジャンク船が毎年来る、大きな集落がアブイオにあるらしい、ということを聞いた。
セブ島にはマゼランの時代のスペイン人の生き残りがいるとか、金が豊富なプラネという大きな島、
金鉱があるアルバイ島、人肉を食う人種がいるアムコ島の話とかを、半信半疑で聞いた。
サランガン島の近くで、過去を詫びて陛下の臣下になると申し入れがあったが、上陸すると襲われた。
しかし毒矢で怪我をした者がいただけで、幸い、誰も死ななかった。
神父、ラモス、怪我人をパラウ船で直行させ、ミナンガ島を経てティドーレ島へ着いた。
10月17日金曜日、4ヶ月と21日の航海を終えた。
ヴィジャロボスは再度レトラン号をメキシコへ向かわせるつもりである。
デスカランテへはまったく援助せずに、副王の勘定で実行するつもりである。(私注:?)
したがって、デスカランテがすべてを立て替えるしかない。
レトラン号は、捜索航海前年(1543年)の8月26日にタンディジャの川を離れ、沖の鳥島を経て26度で小島を発見。
その26レグアさきにある、ひとつは3方から火を噴いている2島、硫黄島の付近を通過した。
これをマリアナ諸島の北端と理解する。10月18日に30度未満にあって、航海士たちによれば、
直線で650レグア進んだという。そこで北の風に遭遇すると、小船のために帆柱の制御ができず、
船は高波に耐えられずに、13日でタンディジャへ戻って、僚船を尋ねてさまよったのである。
捜索航海をした翌年の、
1545年5月16日、レトラン号がティドーレ島を離れたのは、
テレナテ島のポルトガル隊長が、カストロからフレテスに交代して、
微妙な休戦の関係ができたことも、理由のひとつとして見逃せない。
陛下とポルトガル国王、あるいは副王かインド総督の沙汰がなしに3年経過し、
丁子を売る姿勢を示して、レトラン号の偽装の費用捻出に60万箱を渡している。
フレテス隊長との関係は、主計掛ラベサレスへ宛てた書簡では、ハルマヘラ島の王との戦へ赴くため、
兵士で支援する要請さえ受ける仲である。
これについては、ヴィジャロボスは、神父、役人、隊長を集めて意見を聞き、
陛下の隊長として、当該王(ハルマヘラ島の王)とは合意し、宣誓した道理を通すことにし、
フレテスに対し、人も供与しないし、支援もしない、と断っている。
インドからの増派が二ヶ月で到着する手はずなので、ティドーレ島の王と共に、3者が連合するように、
その回答をハルマヘラ島の王から求められ、連絡を受けたフレテスが二隻のパラウ船で訪れた。
ティドーレの王と一緒に、岩礁で会見したヴィジャロボスは、
ムーア人を援助する考えはないが、交わした友好は順守する、と答えた。
同席のティドーレ島の王を考慮して、それ以上深入りするのは回避したが、
ハルマヘラ島の王の不満が目に見えており、
上席者に意見を語るとまちまちで、行き着くところは糧食の心配だけである。
戦になれば糧食を奪われる要因となり、保障する何らかの財を要求するため、
ヴィジャロボス隊のラ・トーレがフレテスに会うと、テレナテ島へ来れば財と心で支援するとの回答を得ている、
フレテスへの返礼として、ヴィジャロボスが訪問する決意を固めると、秘密裏に合意したのが漏れて疑惑を生み、
ティドーレ島の王も山を要塞化し、山頂へ岩石の砦を築いた。
丁子の収穫期であるし、ティドーレ島の王の心配を取り除くため、
9月の某日に王の叔母の家で、ポルトガル人とはいっさいの合意がなく、その意向もない旨を宣誓した。
(私注:このあたりの関係は複雑でわかりにくい。参考文献を探すこと)
それから間もない
1545年10月3日土曜日、レトラン号が東西へ650レグア航海し、ティドーレ島へ舞い戻ってきた。
メキシコからの救援の希望は絶望的となった。
(レトラン号の航海)
レトラン号は5月16日出発、タラオ島へ向かったが、無風と逆風で8日間留まり、
6月6日土曜日にラボ島を通過、11日木曜日に1度3分にあった。
15日月曜日の朝、南緯1度で2島を発見した。モルッカ諸島から300レグアである。
その日午後に別の2島を見る。
16日火曜日、大きい方の島から23隻の小型パラウ船が現れた。
入り江で停泊するように手まねしたが、こちらが従わないと矢を放ち始めた。
この島は、高地で極めて美しい。北へ230レグア航行しても端が見えないほどに大きい。
髪の先を結んだ縮れ毛の、それほど黒くない黒人が住んでいた。
17日水曜日は太陽の高度から測ると南緯2度である。
20日土曜日に川口で漂泊し、妨害なく水と薪を補給したあと、副王名で領有を宣言し、
「ニューギニア」と命名した。 (私注:ニューギニアの発見は、伊東著p568の年表では1528年となっている?)
内陸には高い山脈が続いて海岸まで樹木が密生し、
別の場所には天然の松があるし、集落はココヤシでいっぱいである。
原住民は黒く、おとなしく出てきて大量の椰子の実を売り、
武器は弓矢と重い木の棒で、いっさいの金属を見かけなかった。
13日間留まった。風が邪魔して進めない。毎日沖へ出たが、大潮流のために漂泊を繰り返す。
7月8日水曜日、3小島が見え、この島嶼をセリンと呼ぶ原住民から、椰子の実をもらった。
10日金曜日、40レグアをふいにすることになったが、北風を利用してセリンへ達し、
本島側で漂泊し、翌日陸風で沿岸を航行すると、全土にのろしが見られた。
別の3島へ至ると、椰子の実を売りに来る一方で、矢を放ち始めて、水夫一人が殺され、
船が発砲すると逃げ失せている。
15日水曜日、航行中に50隻の小型パラウ船が近づき、
売りたい仕草をしたが逃げ出し、船が減速していると矢を放った。
しかし反撃されて被害を認識すると戻ってしまった。
16日木曜日、裸の原住民が、70隻で戦闘を開始した。
矢、棒、棍棒、鉄のない、先を尖らせて焼いた槍の武器は、火縄銃の敵ではないのだが、
火薬が不足して応戦ができない。
19日日曜日の夜は北西の風、月曜日は北風で南緯3度に位置し、
21日火曜日に4島へ「マグダレナ」と命名、2度半で午後に東に別の5島を発見している。
27日月曜日、1度半の北西に3島が見えて命名。
28日火曜日は風がわずかで、
29日水曜日は正午は南風で東へ航行した。
すぐに風がなくなり、その日は月曜日に見た島をとらえ、4島が見えて命名した。
8月1日土曜日、岩礁が近く、原住民が弓のない投げ矢を手で放ったが、受けた被害がわかって退却した。
4日火曜日にはまたマグダレナ島が見えた。小型のパラウ船が現れたので近づくと、
上に兵士、下には櫂を漕いでいる者がいる。
ナオ船の船尾と同じ高さの櫓をつけたものもあり、発砲して損害を与えると逃げ帰った。
日曜日の夜は5島からなる火山の近くで錨泊した。
その翌日、陸風で入り江を曲がってみると、北風となった。かなわないので断念。
5島での漂泊も原住民に妨害され、
12日水曜日には、北風から守られた湾で停泊した。
原住民と和平してもすぐに矢を放ち始める始末。翌日も同じことの繰り返しである。
日曜日に隊長は、航海士、水夫と話し、持参の総隊長の指示書を示した。
北半球を航海するのが適切である。この年に続行できないならば、越冬する島を探さなければならない。
ニューギニアの沿岸航海も、その端を見るには至らず、南半球にいつまでも留まってはいられない。
航海士や水夫の全員が、もう西へ押しやる強い南風は吹かないと、モルッカ諸島へ戻るのを望んだが、
吹く季節になっていないからだと反対し、その日は北への進路を取っている。
19日水曜日、本島から30レグア離れている、低い2島を見るとまもなく、
7隻の小型パラウ船が現れて、色白でがっしりした原住民が、武器を持たずに船へ上がってきた。
そしてスペイン人に抱擁しようとしたが、臨戦態勢の他の7隻が近づいてきた。
そこでその原住民を船から放り出したところ、棍棒や石で果敢に戦い、大被害を受けると、やっと退散した。
20日金曜日の朝は現れず、島に「色白の人たち」と名づけた。
この日南緯1度4分の1で、住民がいるかどうかわからない別の低い島を見て、
27日木曜日になると、乗組員が、苦労が実らない不満をあらわにした。
航海士の見解をただすと、これ以上は指令をしたくないと言う。
全員の意思を汲むしかなく、モー諸島へ向かうように命令した。
天候がよくなるかどうか見るためで、駄目ならモルッカ諸島へ戻るしかない。
28日金曜日、2島を見たが無風と潮流で流されて、モー諸島から30レグアの本島へ至った。
ニューギニアの沿岸はまったくの無障害物であるから、2,3レグア沖での漂泊は問題がない。
そして本航海での唯一の発見として、逆戻りすることにしたのである。
第2章 的に当たるのははずれますようにーーー長い休息 より伊東著p64以降
1545年10月3日のレトラン号の逆もどりがわかると、ポルトガルのフレテス隊長は、公証人に託して、
総隊長、役人、兵士へ宛てた3通の勧告文を、ティドーレ島へ送ってきた。
スペイン隊は、ポルトガル隊のいるテレナテ島へ移るように、との通牒であった。
ポルトガル人が、20人以上のスペイン人と3人の司祭の逃亡を助けたが、
ヴィジャロボスがそれを意に介さないばかりか、大砲の手入れも無関心であるから、
ティドーレ島の王は疑惑を抱いた。 (私注:ポルトガル人とスペイン人が仲良くなり始めた、という疑惑?)
王は、スペイン隊の総隊長と全員を広場へ集めて、「マゼラン隊の来訪で(スペイン国王?)陛下の家臣になって以来、
二度の裏切りがあったが、3度にならないように」、皆へ「行かないように」と懇請した。
王が、300トンを超える船の建造用の木材、板、松脂、土地の装具、糧食の配給量の倍増、40パトラの絹の提供を申し入れた。
しかしヴィジャロボスは、時遅しとして返事を拒んだ。
そうこうしているうちに、フェルナンド・タボラが率いる150人を乗せた、3席のナオ船の到来が知らされた。
フレテスはヴィジャロボスに、交渉を開始しておいた方が得策だと諭す。
高位の人物で、総督の委任状をたずさえており、
事態を優柔不断のまま放置するようなことは、しないだろうと言うのだ。
ヴィジャロボスはティドーレ島の王へ、集落の防壁を立てるのがよく、われわれも準備すると伝達した。
それはインディオたちの大歓喜で行われたが、その間もテレナテ島からは使者が往来していた。
フレテスは休戦を解除して戦闘態勢としたが、ヴィジャロボスは誰にも何も言わなかった。
インドからの艦隊が10月22日にランダカメ港へ入ると、
ヴィジャロボスは隊員ラ・トーレをソサの許へ派遣し、携えた書簡への返答を求め、
15日の休戦の可否と、インドからの伝言の有無を問い合わさせた。
翌日持ち帰った回答は、一部の者を除き、誰も見たくない内容だった。
いっさい第三者を介入させずに、二人が適当な場所で会見することを求めていた。
自身で交渉に行くべきではなく、全員に伝えずに進めるべきではないのに、
ヴィジャロボスはすでに合意していて、誰も同行させないつもりである。
その翌日、約束済みの趣旨をティドーレ島の王へ話すと、
交渉は第三者経由でするのが賢明で、しないようにと求めた上で、
せめてもと、自分の弟の同席を主張した。
ヴィジャロボスは、25日に全員を招集し、両者間の和平の交渉と合意のため、
次の日にソサと会談する意向を伝え、名前を署名したことについて、見解を募った。
和平と休戦しかなく、次善の策は期限付き休戦で、それまでに救援の船が来なければ、
メキシコへ戻る船舶と必要な糧食の供与、陛下の臣下が投降を強制されないようにする策しかない。
こうした意見が主流だった。
モルッカ諸島へは侵入したのではない。
支援を求め必要物資を得る目的で、その代金は支払う用意があるし、人質か保証も差し入れる。
こういう建前で行く、ということである。
ポルトガル国王とインド総督の名義で、
ティドーレ島の王と臣下に対しては、目下も今後とも、決して危害を与えない、
という確証を入手しなければならない。
そのための条件を出しても、ソサが上述の要求を呑まずに戦いを望むなら、
スペイン隊としても、これと最大限に戦わなければならない。
インド経由で送還されるのなら、スペイン国民の名誉のため死ぬ覚悟と、
勇ましいのは兵士だけではなく、ほかの者も、言葉は違うが同じことを言った。
この島へ入った必然性を無視し、、テレナテ島へ移されるいわれはない。
「われわれがポルトガルに命令される事項には従わない」という思いは同じで、
ポルトガルへ屈服するのは忸怩たるものがある。
ヴィジャロボスは、その翌日に3人の郷士と王の弟を伴い、
3隻のフスタ船の隊長を連れた、ソサがいる艦隊へ近づくと、
二人は小型パラウ船へ乗り移って儀礼を交わした。
すでにテレナテ島にるサンティステバン(神父)のみが同席し、
終了するとソサは皆の前で、あとで返事をするといい、
ヴィジャロボスは艦隊を視察して戻っている。
その翌日、神父が持参した回答は、インド経由でスペインへの送還しか認めない、というものだった。
聞いた全員は返事に窮し、重苦しさと悲哀が垂れ込めた。
翌日の朝、4人の主立つ者が、総隊長の宿舎へ赴いて言った。
こんな惨めな対立をしないで、やるべきことはやる。
皆の意見に従わなければならず、勝手に早急な決着を導こうとしている。
いい兵士たちを抱え、幾多の苦難を乗り越えたわけだ。
ひとたびポルトガル人に屈すれば、その後はもうない、と考えるべきだ、と諭した。
そして、しかるべき騎士を派遣すべきである、との説得に対し、
すでに交渉は成立させたと答え、協定したものを反故にするわけにはいかないと逡巡し、
ヴィジャロボスは、彼らの意見を頑なに拒否した。
誰の意見も入れない独断専行に大勢が反発し、これまで通りに食糧をくれれば、
陛下への忠勤として別の指令が来るまで、一緒に留まるという意向を、ティドーレの王へ伝えた。
言っても無駄だから、誰も総隊長とはき口を利かなくなり、
陛下への忠勤を履行するため、勧告を行う密約を交わして、日付は整合性を欠いているものの、
10月27日付けの書簡を手渡した。
ティドーレ島の王と臣下たちは、1年、2年、3年と食糧を援助してくれ、ナオ船の建造も申し入れてくれたし、
ポルトガルの航路を行かないのが、陛下への大なる利益と栄誉である。
毎日メキシコからの救援を待つのは、臣下として君主の命令に従う義務である。
そうスペイン人たちは考えた。
反対に、ポルトガル人は、メキシコからの船を見れば沈める、という決定をした。
ここへ来なければならなかった名目はあり、大砲と砲丸を充分に搭載したガレオン船とフスタ船が来るし、
ここならインディオの手中にあるスペイン人の救出も可能である。
閣下の意思には全員が従い、力の及ぶ限り尽くしたはずで、己の栄誉を賭して職務を遂行し、
われわれにしか、従わないようにと、一度ならず二度三度と閣下へ要求した。
さもなければ蒙る全責任、損害、被害は閣下に帰し、すべては閣下の御身と名誉にかかっている。
光栄ある騎士とよき兵士の意見に、従うように、と主張したのである。
翌日、デスカランテが総隊長の許へ行き、南半球を航海する時期が来たのに、船を出さない、
と、兵士や水夫が不平を言っていると、航海する船舶を与えるように求め、
自らがメキシコへ向かうと上申した。
水漏れがないから大工は不要で、300ファネガ相当600俵の米と、800俵のサグが手に入って、
乾パンにすれば糧食は充足され、この地には装具と太綱もある。
20人か30人を募り、豊かなインド経由よりも、貧しいメキシコへの航海をし、
残りの者は協定に従うしかない。
ラ・トーレの第1回の航海と同じく、航海士にはフェルナンデスを起用し、
行きたい者を連れて行く、と言うのに、ヴィジャロボスにも異存はなかったが、
船は3度も戻るな、というのがヴィジャロボスの出した条件だった。
それから何度か、兵士たちは、ヴィジャロボスを翻意させようと試みたが、失敗に終わった。
ヴィジャロボスは最初の勧告文に対する回答を行った。
合意はわれらの主神と陛下への奉仕、いとも高貴なる副王のためである。
モルッカ諸島へは入らない。ポルトガルに帰属するものには触れない。
宣誓した以上は順守しなければならない。
現状では、第三者の援助なしにこの土地から出られる手立てがない。
できるだけこの土地への被害を少なくして時を過ごし、
1544年1月9日から今日まで、二度メキシコへ向けて船を出して、救援の船舶の到来も待った。
キリスト教徒の義務に反し、これまでの戦そのほか諸々で、われわれの大義のために、
第三者の被害で生き延びたのである。
私に課せられ、やるべきことは、神への畏敬から当地を立ち去ることでしかない。
見た限りでは定住し、これ以上費用をかけるに値する土地でもなく、
時間も財もこれ以上は浪費しないで、副王宛の私の最終見解として、
救援の船は不必要と書く意向である。
ティドーレ島の王と住民の厚意に報いられず、その期待もないし道理からしてあり得ず、
罪に罪を、不徳に不徳を重ねるのは避けなければならない。
スペイン人、陛下の臣下としての名誉を保持する。
神と国王の名誉は、命令を順守することにあり、いかなる地位の人間にも最高の名誉である。
(私注:しかしまだ意見はまとまらないようで、兵士たちが集まって協議の末、
ヴィジャロボスに挑戦状を突きつけたりしている。
このやりとりでの、ティドーレ島の王とハルマヘラ島の王と、ポルトガルとスペインの関係がよくわからない。
とにかく、ハルマヘラ島の王がポルトガルに対して抗戦し、ポルトガル人を逆に痛めつけた記事の直後に、
自発的に残留する者以外は、全員がポルトガルの船で帰途についた、ことになっている。)
(ハルマヘラ島の王は、戦の知識でも仕込んだのかと思われるほど上手にポルトガルにやり返したので、
それを書いておきたい。)
(ハルマヘラ島の戦い)
1545年11月23日、準備の整ったポルトガル人の船隊が、二人の隊長に指揮されて、
テレナテ島からハルマヘラ島へ向かい、住民の抵抗なしに上陸し、集落の近くに陣と大砲を据えた。
城壁からの石弾が届かない、城楼に面した場所に、いくらかの小砲と火縄銃を配置したが、
城壁からの矢が外の者へ、甚大なる被害を与えた。 (私注:石弾のつもりだったのに、強力な矢が飛んできたらしい)
城壁の外には、狭くあまり深くない濠があり、膝小僧まで達する大小の大量の有刺、つまり竹を尖らせたものを、
石弾が届かない距離まで、周到に周囲へ巡らせている。
有刺の間のごく細い道を、集落へいったん入ると、苦労しないと抜けられない地面へ突っ込んでしまい、
回避できても回りに薪があるから、攻めれば焼死していたかもしれない。
もう一人の隊長は、ソサの背後でもっと離れて陣を張り、集落から小砲の弾丸の位置で、
13日間ハルマヘラの包囲を続けたが、島民はポルトガル人10人とスペイン人一人を殺し、
20人以上を負傷させた。
ポルトガル人はこの間、集落を偵察もせず、どこを攻略して損害を与えられるかを検討せずに、
ただ時間を浪費して、人のある場所にいたに過ぎない。
それに比べて島民は、たまに外の者と小競り合いに出たし、
夜間に出て火薬の鍋を陣へぶちまけ、いく人かのポルトガル人を焼死させた。
当初からソサは城壁を破壊すべく砲撃を試みたが、内部の者が被害箇所を、とても器用にすばやく修復し、
それすらも役に立たなかったのである。
ハルマヘラ島の王は、あらゆる危険に身をさらし、全生涯をキリスト教徒との戦いに費やしたかのごとく、
充分に気配りしてすべてを命じ、賢明に指揮を執ったのは明らかで、包囲はまったく功を奏していない。
内部の者が起こした大被害で、ポルトガル人隊長間に亀裂が生じ、相手は考えたよりは手ごわく、
戦闘すれば身を危険にさらすとの意見で、撤退し包囲を解く決定をした。
こうして退却し、戦で行うのを常とする、戦闘も偵察もせずに13日の包囲を終え、
ハルマヘラ島の王が大勝し、名を挙げたのである。
300のポルトガル人と100のスペイン人でも、損害を与えることができなかったと、
自信を持ったハルマヘラ島の王は、さらなる反撃へと打って出た。
ポルトガル人の撤退後、島民の船隊が直ちにモルッカ諸島の間を駆け巡り、
ティドーレ島で100人以上を捕らえ、数ではそれほどではないが、テレナテ島でも同様に拉致している。
ある夜、港で帆を休めていたポルトガル人の、奴隷と丁子を積んだ小型パラウ船を襲い、
島嶼へ及ぼした被害がわかると、守勢のポルトガル人たちもたまには出動が必要である。
ハルマヘラ島民の船の方が優れた帆を有しているため、ポルトガルの艦隊が動くのを察知すると、
全速力で戻ってしまい、引き返すしかない。
テレナテ島へ、外からいっさいの糧食を入れさせないのが、ハルマヘラ島の王の戦略であり、
しかもハルマヘラ島が大きく、そこから供給されていたのだから、ポルトガル人は致命的な打撃を受けている。
(私注:どうも、戦慣れした日本人が、参謀として参加でもしていたのではないか、
という気がするほどの、ハルマヘラ島住民の戦いぶりである。
以下、記事は突然、スペイン人の帰還の話になる)
(インド洋経由ポルトガル船での帰還)
ポルトガル人のナオ船が丁子の積み込みを完了して、インドへ向けて出版の準備が整うと、
自発的に残留する者を除いて、すべてのスペイン人が乗船している。
1546年2月18日、北西の風を受けて出航すると、南へ向かって謝肉祭の日に、アンボン島の港へ到着し、
日和を待って5月18日まで滞在した。
(私注:講談社学術文庫『ザビエルの見た日本』p174より
「1546年、元日にマラッカ?からモルッカへ向かう。2月にはアンボン島に到着。そこからテレナテその他の島々へ向かう。」
これからすると、ザビエルと、ヴィジャロボスや探検隊の人々が、会っていてもおかしくないタイミングである)
この南緯4度にある列島は、山が多くて人口は僅少で民は貧しいが、サグ、魚、水牛の肉、豚肉が支給されて
安堵したのもつかの間、思わぬ伏兵が待っていた。病気である。
ここで死んだ者の中にヴィジャロボスがいた。熱病に感染したのだ。
その死は、皆へ重くのしかかった。
生存者は5月17日に乗船した。大きく美しいジャワ島は、人口稠密で城壁を巡らせた集落もあるし、
充分な武器、大砲、火薬を保有している。
その一方で、悪逆との印象も抱き、イスラム教徒と異教徒が互いに戦っているのもわかった。
この方面では最も統治された民で、諸王や領主は恐れられて服従し、米が取れて糧食豊富で、
馬がいる。牛、山羊、水牛、羊、鳥の肉は安価で、大量の胡椒が収穫でき、シナへ輸出される。
ジャワ島を離れると、スマトラ島とそのほかの諸島が形成する海峡へ至る。
そこにある浅瀬のため、夜は漂泊し、それから別の海峡へ達した。
翌7月11日、マラッカの居住区へ到着すると、5ヶ月の滞在を強制され、物価高のため酷い耐乏生活をし、
残っていた武器を売り払う憂き目に遭っている。
メキシコを出発したとき、総数370のスペイン人は、異教徒の捕虜になった12人と、
モルッカ残留の30人前後を差し引くと、マラッカ到着時は117人である。
ここに滞在中、シナ人航海士からわれわれの航海術を尋ねられた。そして、
日本の先にある島で、われわれのような(スペイン人のような)人間の大小2隻の船がいて、
原住民と戦争をした情報があったと聞かされた。
メキシコ副王が派遣した船との思いを抱き、5ヶ月が過ぎるとインドへ向けて旅立され、
1547年の1月にコーチンへ着いた。しかしインド総督はイスラム教徒と交戦中で不在。
ゴアヘ戻るよう命令され、5月半ばまで何の支給もなく、乗船するまで毎月支払われる3ヶ月毎の
食事と宿泊代は、銀の含有率が低い現地通貨である。乗船に際し、与えられたお金では、足りない。
ポルトガルへ向かう船の船室は1室に二人が割り当てられた。
メキシコ副王の意図には合致しないが、できるすべてはやったのだとの思いで乗船した。
リスボンにおいて、1548年8月1日付けでデスカランテが作成した報告書では、
長い巡礼を終えた生還者の数は147人で、前述の数字とは合致しない。
(私注:私は、残留者も含む数字なのだろうと解釈した。)
(ヴィジャロボス隊が持ち帰った琉球・日本情報)
〔琉球〕
タイへ琉球のジャンク船が来て、有能で色白、ひげを生やし、ほぼわれわれ同様に絹と綿を着ており、
王がその土地から人を出さないという話を聞かされた。
外国へ留まるべきでないから、既婚者で子女と財産を有する者のみである。
隊長は生死にかかわらず連れ戻す義務を負い、死んだ3人の琉球人を塩漬けにするのを目撃した。
琉球からの商品は金銀で、シナ人とは敵であるのが明らかである。
シナ沿岸の取引で琉球に漂着すると、王に厚遇された。糧食の補給まで受けた。
別のポルトガル人が再び琉球へ入港すると、積荷の代価が直ちに銀貨で支払われた。
航海用の糧食まで供与されて出航ができた。と、琉球の評判はいい。
〔日本〕
ペロ・ディアス情報である。
ブルネイから最近の船でテレナテ島へ到着し、そこへは日本諸島のジャンク船で来たのだと言う。
ヴィジャロボスが興味を示して使いを出すと、陛下への奉仕に燃えている男だった。
手紙を寄越したあとで、ティドーレ島を訪れ、(私注:すると、ポルトガル投降の、前か後か?)
覚えているいくつかを語った。
1544年5月、シナ人のジャンク船でパタニを立ち、泉州へ行った。 (私注:中国の話は略)
寧波の港からほぼ東西に155レグア離れて、32度の位置に日本が存在する。
とても寒冷な土地で、農民は毛織物を身に着けており、それは毛布のように見える。
しかも革靴を履いている。
要人はこれとは違い、絹、ビロード、更紗、ペルシャ織を着ており、女性は概ねとても白く美しく、
身分相応のスペイン人のように、身分に応じて綿布か絹を着て歩く。
沿岸の集落は小さく見え、家屋は石と中に石灰を入れた煉瓦でできており、
われわれの方法で屋根を葺き、二階、窓、廊下がある。
この島嶼の住民は偶像崇拝者で、きちんとして、色白で、髭を生やして、髪を剃っており、
アルバニア人のように頭に馬の尻尾の帽子をかぶり、
脱いで互いに挨拶し、シナ人のように読み書きする。
言葉はドイツ語のように思え、各島に領主がいるのは知っていても、
すべての王がどこに住んでいるのかは言えない。所有する武器は弓矢だけである。
刀や槍は持っておらず、フィリピン諸島のように毒を有せず、
先にとがった釘を刺した棍棒で闘い、行き交う多くの馬匹の鞍には背もちがなく、
鐙は銅でできている。
あらゆる糧食、家畜、果実があり、牛は食べずに農耕に使い、メロンや大量の砂糖が採れるし、
狩猟用の鷹と隼を有し、ほかにも漁業が盛んである。
強靭で戦闘的な民で、金がとても豊富な琉球に比べると、金はごくわずかしか見ていない。
大量の鉄と銅を産するが、最大の富は小型の延べ板である銀である。
ディアスがいた5隻のシナ人のジャンク船には、幾人かのポルトガル人が乗船しており、
わずか5キンタルの胡椒を6000ドゥカドの価格で売りさばいた。
その港へ百隻を超えるシナ人の数珠繋ぎのジャンク船が着くと、
その5隻のポルトガル人が、4隻の端艇に小砲3門と火縄銃16丁を積んで、ジャンク船を襲い、大勢を殺した。
こういう冒険談である。
(私注:毛布のような毛織物を着て革靴を履く、家が煉瓦、馬の尻尾の帽子、
武器が弓矢だけで棍棒で戦う、メロンや大量の砂糖、
このあたりはおかしいが、
食糧が豊富でポルトガル人が進出している、というのは、
スペイン人には、とても気になったのではないか、と思う。)
ヴィジャロボス隊の残党の帰還は、この種の情報しか成果がないから、歓迎されることはなかったが、
少なくともカスティジャ(スペイン)議会には、眠っていたモルッカ諸島への、古い野心を揺さぶり起こした。
とくにメキシコでは、相次いで銀山が発見されており、1対10の金銀の交換比率なのに、
アジアでは1対6である事実が、商人たちの垂涎の的となった。
公文書上には現れていないが、『インディアス通史』の中でゴマラがいみじくも述べているような経緯が、
あったとしてもおかしくはない。
サラゴサ協約の条項に従って、ポルトガル国王へ35万ドゥカドを変換しさえすれば、
モルッカ諸島からの収益が再び帰属すると、金額の立替を進言する代議員もいた。
年表:第4回ヴィジャロボス探検隊
(私注:私がハルマヘラ島の王の勝利の仕方に、他からの入れ知恵を感じるのと同様、
ヴィジャロボスも、戦争慣れした者がいる、ような気がしたのではないだろうか。
ここには書いてないけれども、1521年の、スペイン発マゼラン遠征隊が、その報告書で、
フィリピンの金採掘場所で現地人が見た色白の人間を、
琉球人・ゴール人・中国人だろう、と書いている。(的場著『ジパングと日本』p82史料4)
スペイン人も、刀剣を運ぶゴール人を知っていたのだ。
そこへ、上記のペロ・ディエス情報を重ねると、琉球人ではない、日本人が、
見えてきていたのではないか、そんな気がする。)
(ペロ・ディアスは、日本諸島からブルネイ(ボルネオ島)を経由してテレナテ島へ来た。
*岸野久『西欧人の日本発見』p27:ボルネオから最後の船で来た。ボルネオへは日本の諸島からジャンクで来た。
ハルマヘラ島の戦いの前ではないかと思われる時期に、
「日本からの船」が姿を現しているのも、気になるではないか。
伊東著の記述の順序では、「ハルマヘラ島の戦い」の次に「帰還の話」があって、
その後に「ペロ・ディアスの話」が出てきて、間が飛んで、順序もわかりにくいが、
ヴィジャロボスには、ピンと来やすい状況に見える。
ここで日本人と何らかの接触をしなかったら、何のための探検かと思われるような、
千載一遇のチャンスではなかろうか。)