伊東章『マニラ航路のガレオン船』による
「ビジャロボス探検隊」
(ビリャロボスとも書かれる)
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ヴィジャロボス探検隊・続きへ
****ウルダネータの航海と比較してみたらどうかと思って、以下に少し簡略化したものを書いてみる。*****
年表:第4回ヴィジャロボス探検隊
出発前の準備、船団の組織と宣誓、規約(p38から)
1542年9月15日付けで、メキシコ副王兼総督メンドーサが、ヴィジャロボスを派遣することを決めた。
国庫係・主計係・差配人をも決めた。
船舶、装具、大砲、弾薬、武器、糧食その他の量が数え上げられた。
商品や交換用品を各船に配分し、無秩序な取引をしないように管理人を置いた。
各隊の隊長、兵隊、水夫とも、同乗の要員の名前、姓名、出身地、それぞれ携帯する武器を記帳。
隊長、騎士、兵士、航海士、管理人、水夫らに、命令を完全に遵守する、
「騒擾、蜂起をせず、汝の航路と旗艦旗に従い、同様に船上と陸上で隊長に服従する」と誓わせた。
場所を定めたとき、到着の報を携えさせて、1,2隻を送り返す命令も与えた。
帰還の航路は発見されていないから、長期にわたるのを覚悟し、救援の船舶を送れるように、指示する必要がある。
航海、発見した土地、その特質、物産の種類、定着した場所、原住民の衣服、住居、儀式、宗派、
生活や政体の様式、戦争の秩序を、報告するよう求める。
その土地にある、全物産の見本の送付を求め、原住民との友好と平和のためと、カトリック布教拡大のために、
神父と司祭を同行させる。
要員が、目的地で副王に書きたいことはすべて書かせ、集めて、戻る船に積み残さないようにする。
副王あての、全員分の封印した紙袋を作ること。副王が知る前に、発見の事項が公になるのを防ぐためである。
帰還船を指揮する者は、書簡を受け取る前には、誰も陸へ上げてはならない。
良かろうと悪かろうと、航海と発見の情報の漏洩は、回避しなければならない。
以下、金銀その他の商品を送付する場合、帰還と残留について、死亡者の財産処理、
下船の際の指示、取引時の注意、等々、非常に細かく具体的な注意書きが並ぶ。
10月22日、ヴィジャロボスは、船隊と兵士の指揮権を受け取り、
居並ぶ人々の前で、義務を全うする旨の宣誓をした。
本船隊は、帆船4隻。(旗艦サンティアゴ号、サン・ホルヘ号、サン・アントニオ号、サン・ファン・デ・レトラン号)
小型ガレー船1隻(サン・クリストバル号)
フスタ船(サン・マルティン号)
役人、隊長、兵士、航海士、管理人、副管理人、水夫、砲手、その他乗組員の宣誓が続く。
諸隊長への指示書には、禁止事項違反への処罰規定、規律規定、上陸時の行動の規定、
などがきめ細かく盛り込まれていた。
11月1日、船隊はラ・ナヴィダァ港を離れた。
航海の様子
8日後、180レグア西の、18度半に位置する二つの無人島へ至った。
本航海の様子は、同行神父などの副王あての報告書から知ることができる。
12レグア離れている2島に命名した。とも綱の切れたところがあり、遭難を恐れ、小さいほうの島で少しの水と薪を補給。
2,3日して80レグア先に別の島を発見し、命名。それ以降は降誕祭まで、陸地はまったく見ていない。
12月第1日曜日、舳先が浮き上がるので、航海士が原因を調べた。左舷を傾けてみたが効果なく、
おもりを投下すると水深が最初は4尋、二度目は7尋あって、危機を脱した。
僚船へ信号を送った。潮流が浅瀬へ運ぶのである。
減速しないように帆をいっぱいにし、危険を繰り返さないように警告する。
62日航行した降誕祭の日、低い木に覆われた島嶼の諸島を発見。 (私注:降誕祭=クリスマス、62日の航行とは?)
女子供は身を隠し、人々は色白で裸であり、女たちは細く四角い1ヴァラもない椰子の布で体を覆っていた。
老婆が、絵のある土瓶を見ると、ほかにも見たことがあるという表情をした。
このサン・ステファン島と命名した島には鳥やココナツがあり、煮ても生でもいける果物もある。
隠れていた23人の女に適当な品物を与えてもてなした。
13,4日で35レグア航行すると、9度か10度の位置に10島を発見、命名。
西へ100レグア航海すると、嵐に遭遇して命がけとなる。サン・クリストバル号を見失った。
遭難したものと思い、冥福を祈った。
1月23日、その50レグア先の10度に、椰子の木が密生する低い小島を発見し、
錨泊を試みたが不首尾に終わった。
やってきたインディオのパラウ船が手で十字を切り、スペイン語で「こんにちは、マタロッテス」と挨拶した。
3日して35レグア進むと、また別の大きな島があって、原住民の挨拶はやはり同じである。
浅瀬のために漂泊ができない。
2月2日に、湾のある大きな島へ着いた。7度40分に位置する島を、マラガと命名した。
船隊はそこに1ヶ月滞在した。
ラ・ナヴィダァ港から1500レグア航海した計算になり、ヴィジャロボスは領有宣言をすると、
マラガ島をカルロス皇帝島と改名し、そこに植民することさえ、考えたのである。
(2012・7・9私修正注記:マラガ島=カルロス皇帝島=ミンダナオ島)
マサグア島を求めようとしたが、北へ向かうには風も潮流も逆である。
皇帝島の沿岸を60レグア南進すると、4レグア離れた二つの小島が見えた。(ひとつがサランガン島)
(2012・7・9私修正注記:
マサグア島=21年前の1521年に、マゼラン艦隊を友好的に受け入れた島。
レイテ島の南、ミンダナオ島の北にある、リマサワ島のことである。
つまりヴィジャロボス艦隊は、探していた目的の島「マサグア島」より南に到着したのである。
「マラガ島=カルロス皇帝島=ミンダナオ島」のすぐ南に、サランガン島がある。
北から島の名前を並べると レイテ
マサグア
ミンダナオ
サランガン
ハルマヘラ )
*島の名前と地図について (リンク先に地図画像有り)
サランガン島の戦闘と飢餓
武器を携帯して、原住民の感情を害してしまい、糧食を調達する交渉がこじれて、
4月2日月曜日に戦闘を起こしている。
短時間で1集落を占拠し、負傷者が多数出て、6人が死亡した。
原住民は岩礁を要塞にしていて、陸と海の両側から挟み撃ちし、
逃げ場をなくす戦法で追い詰めた。
案内にインディオの女を連れ、暑さの中で岩礁によじ登った。
大石、小石、丸棒、矢、「腕ほどの太さの、先を尖らせ、焼いたマングローブの丸太」の攻撃だが、
火縄銃が相手では勝負にならない。
島民が本島へ逃げ出したあとには、金の見本、
ミンダナオやフィリピンへ来るシナ人から買う、大量の磁器といくつかの鐘、
「悪徳」に使う各種香料があった。
ここで、ヴィジャロボスと兵士たちの間で、取り分のことで波紋が生じた。
また、とうもろこしの種をまいたが、二度とも芽が出ず、
種まきではなく征服に来たので、戦で戦って死んでも、この島で餓死したくない、と、
ごうごうたる非難の矢面に立たされている。
発見よりも定住、飢え死によりも30人が一緒に残り、あとはわずかな戦利品をたずさえて、
残りはメキシコへ送り返すというのが、ヴィジャロボスの意向なのだ。
糧食を絶たれ、蛇、とかげ、ねずみ、犬猫、草、木の葉、木の実を食べるのも限界だった。
しかも飢えと毒草で多くが死亡し、原住民に島へ戻ってもらうしかない。
胸や腕から瀉血し、ワイングラスに注いで互いに飲む、という、この地で習慣の儀式も受け入れ、
さらに船にある品物を与えて歓心を買い、原住民と友好を築く努力を試みた。
この島の西50レグアに、ミンダナオ地方の存在がわかったので、
50人がサン・ファン・デ・レトラン号で、大量の交換品、商品をたずさえて向かった。
神父は2月29日にミンダナオ島を見たとする。
だとすると航海士たちが言った皇帝島とはミンダナオ島のことで、マラガ島はその一部であるから、
2月2日に着いていたことになる。
皇帝島(マラガ改名)に一ヶ月いたのは好天を待つのと船舶を修理するためで、
戦闘と飢餓のサランガン島には、11月の第1週までいて、飢餓ばかりか、
歯茎や足がただれて腫れる、強烈で知らない病気、「壊血病」に苦しんでいる。
レトラン号がある大きな川の河口へたどりつくと、サリパリという長が治める集落の住民に迎えられた。
しかし、6人が端艇で水深を測っていると、一角から多数のパラウ船が出現した。(ミンダナオで遭遇した住民の裏切り)
戦闘態勢にある、武器をたずさえた人間を乗せており、船上からは救出できないと判断された。
果敢に応戦して、敵に被害を与えて、重傷を負った5人が逃れた。死者は一人。
これが彼らの回答かと、船隊へ戻ると、その1,2日前に、
行方不明になっていた小型ガレー船(サン・クリストバル号)が到着していた。
約2ヶ月いたマサグア島で友好を築いていて、肉桂を産する島嶼の存在もつかんでいた。
われらの至福の皇太子の名フィリピナスと呼ぶ、糧食も豊富な島へ、再び小型ガレー船を差し向けた。
飢餓・不足・重労働・疾病・死亡に耐えかねて、メキシコへの小型の1隻を派遣する方針を固め、
8月4日ではなく、26日に、レトラン号が島を離れている。
ミンダナオ島の水田襲撃を決め、70人以上の兵士を派遣すると、
全部で80か100ファネガは超えない米を、3ヶ月以上たってから持ち帰ってきた。
毒のある矢のごく小さな傷で死亡した犠牲者を出しての戦果で、
サン・ホルヘ号を救援へ差し向けると、1レグア手前で転覆し、大砲や兵士の所持品を失った。
8月にメキシコへ向かったレトラン号は、29度か30度まで北上したが、それ以上の東進は断念するしかなく、
猛烈な高波にも沈没せずに、10月20何日かに逆戻りしてきた。
その5日後(10月?)に急造のベルガンティン船を糧食の調達に向かわせると、
サランガン島は嵐の襲来に見舞われた。
修繕中のサン・アントニオ号とフスタ船が横転したが、旗艦はなんとか被害から免れている。
7ヶ月に及ぶ飢餓で、土地の蟹の内臓を食べた者は気が狂い、オオトカゲを大食いした者で、
生きているのはわずか、という始末である。
総額で40ペソにもならない金、大量の磁器、18の鐘、いろいろな色のシナからのビー玉しかなく、
モルッカ諸島のポルトガル人に支援を求めるか、メキシコへ戻るかで、意見が分かれている。
ポルトガルとのにらみ合い
レトラン号と小型ガレー船が立って3日後の8月29日、ポルトガル人を乗せた3隻のパラウ船がやってきて、
ヴィジャロボスに書簡と勧告を手渡した。
「すべてこの土地ははポルトガル国王のものである。退去するなら守ってやるから、住民と戦をしない」
ように、という要求である。「航路をはずれ糧食が不足しているなら」ミンダナオ島で供給させると言う。
ヴィジャロボスは「いる土地は陛下(スペイン国王)のものである」と拒絶した。
スペインとポルトガルの両国間で交わされた協約、サラゴサ協約を根拠に、
また、実質的進出を根拠に、ポルトガルはヴィジャロボスに退去を要求する。
それに対し、ヴィジャロボスもまた、反論する。
(私注:このあたりの取引はおもしろい。
さらなるさんざんな苦労「ヴィジャロボス探検隊続き」の挙句
(これも興味深い、ペロ・ディエスの日本情報の詳細もある)、
ヴィジャロボスはついに、ポルトガルに降伏することを選ぶのである)
リンク先に詳細文があります。
* 1548年に、インド経由でリスボンに帰還。メキシコ出発時370人が、生還者147人。(p76)
年表:第4回ヴィジャロボス探検隊
***こうしてポルトガル支配下に入った後で、
ヴィジャロボスが、ペロ・ディエスというスペイン人に会った、
という隊員エスカランテ(デスカランテ)の報告が、
1548年にポルトガルのリスボンからメキシコ副王に出されて、
それがスペインの公文書館にあるらしい。
(このペロ・ディエスは、ポルトガル人や中国人に混じって、日本へ行ってきた、と称す。
その内容は伊東著にもあるが、実際の日本の様子とはかなり違う。
私は内容よりは、ポルトガル人や中国人に混じって、
自由に移動していることに注目するべきだという立場)
私感想:1565年に、レガスピがウルダネータとともにフィリピンにやってきたとき、
その報告では、「日本人」がいきなり登場しているようだ。(1565年ファン・デ・イスラ報告)
ペロ・ディエスによる日本情報と、
ハルマヘラ島の戦いによって、背後に軍事顧問がいるのではないかと思われる状況に気が付くこと、
応仁の乱以降に開拓された南海路を使った日本人勢力=寧波の乱で遣明船貿易から締め出された細川勢、
それが東南アジアに刀剣を売り歩く、二本差しのゴーレスと呼ばれる人々と同じではないかという疑問、
そしてヴィジャロボス探検隊とアンボンで出会った可能性のある「フランシスコ・ザビエル」たちによる、
日本密偵(1549年)、その後のポルトガル船経由などによるスペイン人宣教師たちによる密偵、
これらのことで、1565年のレガスピやウルダネタは、
すでに日本情報を、大量に仕入れていたのではないかと、私は思う。
研究の流れは、「遣明船貿易系」と「スペイン太平洋航路系」の研究二分断と同じように、
ここでも、「キリスト教宣教系」と「貿易航路開拓系」の研究二分断があるのではないか、という気がする。
1565年の日本人は、社会の中核をなす人々は、
共通様式の文字・文書を書いて、全国で通信おこたりなく、
いかつい鎧を着こなして、戦争にあけくれて100年は経過している状態で、
社会に刀剣・武器、農具に至るまで鉄器が行き渡り、鉄砲伝来と同時にその製作も始めた国だったから、
征服を考えるには、大変な国に見えたのではないだろうか。
南の国を経由してやってきたことを考えたら、日本はそんな風に見えたのではあるまいか。
*注意:ペロ・ディエス情報の食い違い
的場著p122では、はっきりと「ヴィジャロボスが1544年11月4日にポルトガルに投降した」と書いてある。
(参:的場著・ペロ・ディエス情報))
これを伊藤著の内容と照合して、1545年のミスプリントだと解釈してみよう。
伊東章著では、
1545年に、サン・ファン・レトラン号の二度目のメキシコ帰還路探索航海が失敗し(10月3日)、
それを受けてポルトガルからの投降勧告が行われた。
そして、ハルマヘラ島の戦いが11月23日に始まったことになっている。
戦闘終了の記事の直後から、ポルトガル経由での帰還の話になっている。
伊藤著の、「ペロ・ディエス情報がもたらされた状況について」の記事を、以下に引用する(P78)。
「テレナテ島へ、ブルネイから「最近の船」で到着し、
そこへは日本諸島のジャンク船で来たのだという、
モンテレイ生まれのガリシア人ペロ・ディエスから、
見聞したことを聴取している。
ヴィジャロボスが興味を示して話し、送るように要請する使いを出すと、陛下への奉仕に燃えている男で、
手紙を寄越したあとでティドーレ島を訪れ、覚えているいくつかを語った。
(以下中国と日本情報が続く) 」
他のページに書いてある岸野久著の該当箇所の文をも参照すると(岸野久『西欧人の日本発見』リンク頁の下段赤文字部分に引用あり)
(伊東著に「日本の船で来た」と書いてあるのが気になって、別ページに引用。同じ意味に翻訳されている)
ペロ・ディエスは、1545年、ブルネイ経由で、ポルトガル人要塞のあるテレナテ島へ来たのである。
この時、ヴィジャロボスはまだティドーレ島にいた。
(つまり、投降して、はっきりとポルトガル支配下にある、という状況ではないように見える)
経由地ブルネイへは、日本諸島所属のジャンク船で来た、と読める。
日本から来たジャンク船は、ペロ・ディエスをブルネイで降ろし、それからどこへ何をしに行ったのか?
ここで大きな疑問が沸いてくる。
日本から来た船は、ハルマヘラ島の王の要請によって日本から派遣された軍事顧問を乗せて、
ハルマヘラ島へ向かったのではないだろうか。
1511年のマラッカ陥落時に記録された、刀剣を売り歩くゴーレスが日本人だとすると、
東南アジアでは、それ以前から、ゴーレスと呼ばれた日本人たちは、
武器を扱う戦闘専門集団としての自負があったのではないかと思う。
(彼らは、南海路を使った太平洋側の領主に属する可能性が高い。)
それが、ポルトガル人によって、お得意先を武力で陥落させられたのだ。
ハルマヘラ島へ肩入れする心理的動機はあるし、東シナ海を中心として九州北部の平戸などを拠点にするポルトガル人に対して、
スペイン人を太平洋側へ誘導すると同時に、戦闘能力を誇示して威嚇し、
交渉を有利にしようとする意図もあった、と考えてはどうか。
今までの研究では、
1、東南アジアに刀剣を売りさばいていたゴーレスとは、琉球人である。
1511年のポルトガルによるマラッカ陥落の頃に、日本人が東南アジアまで行っていた、というようなことはない。
2、スペインは、1565年の太平洋東行(アメリカ・メキシコ行き)航路発見航海において、日本とは全く関係のない航路を取り、
単独無寄航で航海を成し遂げた。
3、1549年に日本の鹿児島に達したフランシスコ・ザビエル達スペイン人宣教師と、太平洋東行航路探索は、全く無関係である。
4、スペイン太平洋航路250年は、日本とは無関係にすべて無寄航で行われた。
以上のようになっていたが、私は以下のように考える。
1、東南アジアに刀剣を売りさばいていたゴーレスとは、日本人である。
その背景にあったのは、利益率の高い商品としての刀剣販売ルートの探索である。
1300年代の中国の明国成立と同時に始まった、琉球による東南アジア仲介貿易は、
1467年の応仁の乱による大内氏の瀬戸内海封鎖によって、
細川系堺商人の、太平洋側ルート(南海路)開拓につながった。
琉球に到達した細川系堺商人や南海路途上の領主たちは、そのまま、
水先案内人・水夫として琉球人を雇用、中国式ジャンク船を使って、
自ら東南アジアでの刀剣販売ルート・貿易ルートの開拓に乗り出した。
(しかし、博多商人はいなかった、ということにはならないだろう。)
ポルトガル人がマラッカを陥落させた1511年頃には、マラッカでは、日本人は、
現地語で刀剣を意味する「ゴーレス」として知られていた。
したがって、マラッカ陥落から、1521年のマゼランのフィリピン到達、マクタン島でのマゼランが戦死した戦闘、など、
これらのことは、ゴーレスと呼ばれた日本人たち上層部の情報通には、ある程度知られていたのではないだろうか。
1523年の寧波の乱で、遣明船貿易から細川勢が締め出された。
このことは、南海路経由のアジア東端南下(琉球・台湾・フィリピンへとたどる航路)
の動きに拍車をかけることになった。
(活動域が重なりつつあったのである。フィリピン近辺でスペイン人と日本人が遭遇するきっかけではないか)
2、スペインは、第1回マゼランから第4回ヴィジャロボスまで、太平洋東行航路発見のために、
極めて多数の人員と莫大な財を無駄にした。しかし1542年の第4回ヴィジャロボス探検隊は、
日本人との接触を確実なものとしてポルトガルへの投降を決め、
それをフランシスコ・ザビエルらに引継ぎ、ここに、
スペイン人宣教師らによる日本探索と、太平洋東行航路探索(東に向かう風の吹く地方の探索)が始まった。
3、東南アジアにおける武器取り扱い業者・戦闘専門集団としての日本人武士の自負は、
しばしば、ポルトガル人やスペイン人に対抗する、現地住民の戦闘への加勢という形となって現れた。
(日本の領主支配下にある武士ばかりとは限らず、無頼の徒に近い、
半ば海賊化した武装集団も、中にはいたのだろう)
4、1565年の太平洋東行航路開拓は、日本人の関心をも呼び起こし、すべて内密と言う形で、日本人の手引きによって、
太平洋側の日本寄航を含む形で、敢行された。