年表:第4回ヴィジャロボス探検隊
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1542年9月15日 ヴィジャロボス派遣決定。
10月22日 ヴィジャロボス指揮権受領・宣誓。
11月1日 ラ・ナヴィダァ港出帆。
1543年2月2日 カルロス皇帝島、到着。1ヶ月滞在。
(後で、ミンダナオ島の一部だったかもしれない、ということになる)
3月? マサグア島を求め、サランガン島へ。
4月2日 住民と戦闘になる。
飢餓に襲われる。
レトラン号ミンダナオへ向かう。
ミンダナオで住民の裏切りに会う。
行方不明だった小型ガレー船が、マサグア島(フィリピナス?)で友好を築いていたとわかる。
再度向かわせる。
8月26日 レトラン号(サン・ファン・デ・レトラン号)、メキシコへの帰還を目指して出発。
その後、水田襲撃目的で70人の兵士を派遣。帰還は3ヵ月後。
8月29日 水田襲撃を知って、ポルトガル側が勧告書を手渡す。
10月20日 レトラン号逆戻り。
飢餓がひどく、ミンダナオへ調達に向かったが、大勢が殺された。
救援は失敗し、船も失い、飢餓は増大した。
フィリピナスへ向かったが、バラバラになる。
流された先でハルマヘラ島の王の要請を受け、ハルマヘラ島へ行くことにする。
第3次ロアイサ隊のラモスが参加してくる。
ティドーレ島の王と協力関係を結ぶ。
1544年5月28日 ティドーレ島の王の協力で、僚船捜索に出る。
10月17日 4ヶ月と21日の捜索航海終了。ティドーレ島に戻る。
1545年5月16日 レトラン号を、ティドーレ島からメキシコ帰還航海へ差し向ける。
10月3日 レトラン号、ニューギニアを発見したが、舞い戻った。
それを知ったポルトガル勢が投降を勧告してきた
10月22日 インドからポルトガル艦隊到着。
ヴィジャロボスと隊員との間で、今後どうするかでもめる。
11月23日 ハルマヘラ島の戦い。
1546年2月18日 インドへ向けて出発。謝肉祭の日にアンボン到着、5月18日まで滞在。
*1546年元旦にフランシスコ・ザビエルはモルッカ諸島へ出航。
2月にアンボン島に到着。
そこからさらにテレナテその他の島へ向かう。(1546年の記事)
*日本の船で来たというペロ・ディエスには、
レトラン号が戻ってからインドへ出発するまでの間、に会っている。
つまり、1545年10月3日以降、2月17日までの間の出来事らしい。
1546年5月18日 アンボン島出発。
7月11日 ジャワ島経由でマラッカへ到着。ここで5ヶ月滞在。
1547年1月 コーチン到着。ここからゴアへ戻される。
ここで5月以降に及ぶ期間しばらく滞在し、日付はわからないが、ポルトガルへ出発。
*ザビエル、6月から12月までマラッカに滞在。12月に3人の日本人に会い、
ぜひ日本へ行きたいと思う。(1547年の記事)
1548年8月1日付け ポルトガルのリスボン発、デスカランテ(エスカランテ)報告書が作成される。
*ザビエル、マラッカをさってゴアに戻る。5月20日、聖霊降誕の祝日に
3人の日本人がインドのゴアの大聖堂で司教から洗礼を受ける。
鹿児島出身のヤジロー(アンジロー)はパウロの名をもらう。(1548年の記事)
*ザビエル、4月15日に二人の同士と3人の日本人とともにゴアを去り、
5月31日にマラッカに到着。6月24日にはマラッカをたって日本へ向かう。
8月15日、聖母被昇天の祝日に鹿児島に上陸。(1549年の記事))
*ザビエルの記事は『ザビエルの見た日本』講談社学術文庫p174、関連年表より
私注:ザビエルとヴィジャロボス(ビリャロボス)探検隊の関係は、きわめて緊密なような気がする。
私仮説:1511年マラッカ陥落の時の史料、トメ・ピレス『東方諸国記』に、琉球人とともに掲載されている「ゴーレス」は、
日本刀を売りに来ていた日本人である。
日本刀を売りに来ていた日本人は、マラッカ陥落と、武力で制圧するポルトガルを知り、鉄砲・大砲というものの存在を知った。
1521年3月末、マゼランがフィリピンに到達。(第1回)
1ヵ月後にラプラプとの戦いで戦死。
(ラプラプは、1500人以上を3個部隊に編成して、
マゼランたちに立ち向かったのだという。
(岩波文庫『マゼラン最初の世界一周航海』
この戦いも統率された合理性を感じるのだが。)
1525年、スペイン第2回「ロアイーサ艦隊」、1526年・第3回「サーヴェドゥラ艦隊」が派遣されたが、みな失敗。
1542年第4回ヴィジャロボス探検隊の派遣。東行き航路探索は、2回とも失敗。
ペロ・ディエスが日本情報を伝えるとほぼ同時に、テレナテ、ティドーレ、ハルマヘラ島の付近へ、日本人がやってきた。
軍事顧問として着任した日本人が、ハルマヘラ島の戦いで、地元勢をポルトガル人との戦いに勝利させた。
地元勢の背後に日本人がいるのを知ったヴィジャロボス探検隊は、ポルトガル勢に混じって、
日本経由のアメリカ帰還路を探索する方法があるのを見つけた。
日本人に、マラッカまで来てもらえたら、必ずスペイン人宣教師の誰かに会えるから、と伝えた。
貿易を望んでいた島津氏や大友氏、堺商人などの南海路勢は、密使を3人、マラッカへ送って、
スペインとの接触を試みた。スペイン側の代表者がザビエルだった。
スペインとしては、布教目的の日本来航ということにしないと、ポルトガル人をごまかせない。
それもあって、行動はすべて布教関連に結び付けられることになった。
しかし実は、太平洋航路探索という密命も帯びていたのだ。