海部刀の発祥について

                                                   海部氏と中央政界    トップ

  (海部)氏吉は、後二条天皇の嘉元のころの人。

  元、薩摩の宮井に住し、

  波平門の師久なる剣工と

  刀剣製作競べを行い

  敗れて海部に来り、

  海部刀の元祖となる。(『本朝鍛冶考』より)



  以上、平成7年版『海南町史』p227より

『本朝鍛冶考』は、窪田蔵郎著『鉄から読む日本の歴史』講談社学術文庫p142によれば、江戸時代も後半の1795年刊である。
ということは、史料の信頼性という点では、かなり注意を要する。

ともあれ、嘉元は、鎌倉時代も終盤の、1303年から1306年である。

この時代は、瑩山(けいざん)紹瑾(じょうきん)禅師が吉田の城満寺に来ていた、1290年代の、直後に当たる。


****疑問
 ところが、同じ平成7年版『海南町史』を3ページ遡るp224では、

「初代海部氏吉が、海部川のほとりで刀を鍛造しはじめたのは、南北朝末期から室町初期のころである。」

と、まるで違うことを書いてある。

南北朝末期というと、少なくとも1380年代以降だと思うし、

普通、室町初期というと、1338年ごろのことだと思うが、ここでは南北朝時代の次
という意味で、南北朝合一の1392年以降を指しているのだろうか。

ここでの描写を1380年以降1400年までと理解すると、
初代氏吉は1390年前後に海部刀を作り始めた?ことになる。

いずれにしても、3ページ違いで、同じ筆者が、かなり違うことを述べられるのである。

2007年の第22回国民文化祭・図録『阿波海部刀の世界』の記述では、記録実在刀の差らしいとわかる。

しかし1352年に京都の戦闘に出ているのは確かなので、1300年代初頭の説も捨て難い。

そして次には、

「阿土国境の守りのために強い武士団を養成する意図から」p224

と、1380〜1400年代の状況には、全くなかったことを、
海部刀生産奨励の理由として挙げられる。

これはちょっと困るのではないだろうか。


****海部氏の発祥からの連想・随想メモ、参考にしないでください。

  丹後では、鉄交易によって力を持っていたのではないかと言われる、
海部(アマベ)氏の前身らしき痕跡・巨大前方後円墳がある。

  古代海部氏がそもそも、船による移動運搬で、遠隔地間の差異を利益に転換することを得意とする集団だったのなら、

  そして当初から自衛の必要他、各地における鉄素材の交易上の有利を知っていたなら、

  刀剣との付き合いは、古かったかもしれない。

  未知の海域を行くには、自衛のための武器は必須である。それは、農業・漁業とは違う。

  7万枚余の埋納大里中国古銭の由来は何か。

  埋納時期が、元が消えた1300年代後半とするなら、それらを手に入れた時期を考えると、
  1300年代に活動した倭寇の時期とも近いし、
  海部刀生産とも重なるかもしれない。

  中国銭と木材は関係ないだろう。中国銭と刀剣の方が関係が深そうである。

   中国へ出かけて海部刀を売った?倭寇に海部刀を売った?

   南北朝の内乱の、国内需要に応えた?

   京都まで出かけているところを見ると、中国の富を奪うよりは、
   国内地位の地盤固めに力を入れていたような気がする。

    自分で倭寇をやる必要はないはずなんだけど。中国銭はどこから来たのか。