狩野亮吉「天津教古文書の批判」
                 斉藤孝(歴史学者)『歴史と歴史学』東大出版(1975年刊)p42

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    *** (「史料批判・外的批判」の具体的な手続きの例、として挙げられているもの)

狩野亮吉「天津教古文書の批判」(『思想』(169号、1936年)

昭和初期、天津教と称する宗教結社が、
神代より伝わった天皇家関係の古文書を守護保存していると主張していた。
狩野は、その中の5通を写真版で入手し、批判を試みた。

その一つに「長慶太神宮御由来」と称する文書があった。
これは短い縁起文である。

応永2年(1395年)に、越中国皇祖皇太神宮境内に長慶太神宮を設け、
主神として長慶天皇を祭り、摂社として秋葉位神社を建て、

これに長慶天皇の死没の際の殉死者竹内惟真外2名と、
同志の戦死者岩崎弥介助外53名を合祀する、

という趣旨の文書である。

狩野は、(1)まず文体・書体を吟味している。
これは史料の形式の吟味であって、

紙・墨色・書風・文体・語法・印章などが、
同時代の同種の確かめられた史料の形式と合致するかを検討する、
初歩的でしかも不可欠の手続きである。

     (狩野の場合、写真版しか利用し得ていないので、
      紙質の吟味などは省かざるを得ず、文体・書体から始めている)。

この文体を吟味すると、
神社の縁起文らしからぬ奇妙な熟語や当て字がある。

皇王(人皇というべきところ)、御崩(崩御)、形仮名(片仮名)、掘付(彫付)、忠心(忠臣)、
敬護(警護)、印(記)などである。

また、「勧王家」(勤王家の誤り)などは新しい語の感じがする。
いわゆる作為の痕跡である。

その他の点から、この文が文法も典拠の知らぬものが書いたものであり、
また比較的新しいものであろうと考えられる(制作年代の推定1)。

次に書体について見ると、素人の筆であって、天保以前ではない(制作年代の推定2)。

(2)次に内容を時日・地理・人物・事件の順序で吟味する。

これはこの史料の内容が確かめられた知識や他の正しい史料に照らし、正しいか否かを検討するのである。

ここで人物について疑問が生じ、5・6人のよう乗車についてはまったく不明であるが、その人物の1、2字を動かすと、
若槻礼次郎、黒田清隆、渋沢栄一など、明治時代の人名が現われる。

また郎党の苗字は1条から8条までそろっているという珍妙な点がある。

これらはすべて不自然な作為を思わせる。

さらに長慶天皇の没年が、正しいとされる「大乗院日記目録」と異なっている。

また、「紀氏竹内越中守正四位惟真」という記載の仕方は、官位を記す書式として誤りであり、

また明治20年までは単なる正四位という位階はなく、正四位上か正四位下かどちらかであったから
(法制・慣習についての無知および時代錯誤)、
この人物の存在の事実が認められない。

こうして、狩野は「かかる出鱈目を書く資格は明治も末年の無学のものに限られる」
(制作年代および作者の範囲の推定)という結論を下したのである。


狩野の「神代文字之巻」についての批判も興味深いものである。

この文書は神代文字と称する?や?などの奇妙な符号によって書かれているので、
狩野はまずこれの解読を行った。

この各種の符号について形の異なったものを拾い出すと44種ある。

また符号の右肩に?符を付したものがあるが、これは濁音符であろうと仮に解する。

こうして、まずこれはイロハ或いは50音ではないかと仮説を立ててみる。

次に位置から察して紙の順序を示していると思われるものの終わりの3字に、
神代にしばしば使用される人名から察してミコトを当ててみる。

また、象形文字らしいものについてもかりに音を当ててみる。

こうして次々に意味のとれるものから推測することによって解読に成功したのである。

いわば、この神代文字なるものは一種の図形式暗号であって、

狩野の解読法は、推定される或る国語の姓名の特徴や語の頻出度を手がかりとして解釈を進める

という暗号解読法の常道に従っているのである。

こうして解読した文書の誤字や語法の誤りを発見して、
近年の偽作であることを判定し、また記述の内容をも
「荒唐無稽全く信を置くに足らない」と論断して、
天津教の言説の虚妄を暴露したのである。

この例はやや特異な対象を扱ったものであるが、
その批判の仕方は明快であって、史料批判の定石を示している。