1445年当時、現在の神戸港とも言える兵庫の港は、瀬戸内海や太平洋側の港から参集する夥しい船で大変にぎわっていた。
荒波を超えて、遠く太平洋側からやって来る船に、阿波の「海部」の船があった。
積荷は榑(くれ)と呼ばれる、製材された木材であった。
1445年の1年間に、兵庫の港に入った「海部」船籍の船は56艘。
これは、四国太平洋側でダントツの1位だった。
しかしこの実績は、その他の多くの事跡と共に、広域情報としては、消されるもののひとつである。
消された実例として、新聞社のものと、老舗歴史出版社から出された、同じ史料を元にし
作られた、当時の港湾資料を並べてみた。
林屋辰三郎編『兵庫北関入舩納帳』1981年中央公論美術出版
(本の正しい名称は「舩」。「船」でリクエストすると、検索できないことあり)
国立歴史民俗博物館パンフレット(2002年頃のものです)
週刊朝日百科・日本の歴史20・中世UーH「琵琶湖と淀の水系」
木材の石数(体積)で表示されていますが、
「海部」が、四国太平洋側でダントツ1位であることがわかります。
児玉幸多編『日本交通史』吉川弘文館p109 1992年(平成4年)
「海部」が、削除されています。
表題が1445年の主要港となっているのですから、削除する合理的な理由などありません。
吉川弘文館編集部では、執筆者が削除した、と言いますが、
執筆者とは連絡が取れず、削除の理由も、全く説明されないままです。
ちなみに、児玉幸多先生は、皇太子殿下が学習院で歴史学を勉強された時に先生であられた方で、
歴史学では有名な重鎮である。
吉川弘文館も、学会とのかかわりもある老舗であって、歴史学関係の出版物では定評がある。
私はこの本を図書館で見つけたのだが、編集者と出版社の名前を見て、これは信用の出来る底本だ、
という印象を持った。
ところが、世界でも貴重な発見とされる、1445年という古い時代の海運事情を示す1次史料を元にした地図から、
四国太平洋側ダントツ1位の「海部」の名前が削除されているのだ。
吉川弘文館の本を信じて徳島沿岸情報を見た人は、海部には何もなかったんだ、と、まずは思うだろう。
とんでもない話である。