補足2、今井登志喜『歴史学研究法』と私

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 私がこの本に出会ったのは、昭和49年(1974)の大学1年の時である。
新入生向けの導入講義があって、その講義で使われたものである。

それは、テキストという指定がなければ、おそらく自分では絶対に見ない、
と思われるような、旧字体の本だった。

今井の本をテキストに指定した先生は、
この本の後半の、史料批判実例部分を使って、
武田信玄と小笠原長時の戦い「塩尻峠の合戦」の、
史料解読と史料批判の実例の解説を、されただけだった。

要するに、前半の理論部分には全く触れないで終わったのである。

ところが、私が気になったのは、前半部分だった。
講義で触れられなくても、前半は一同の共有認識なのだろう、という認識でいた。
しかし今となっては、その辺のことも何とも言えないような気がする。

私は、その本の冒頭に、書かれた時が昭和10年である、と書いてあるのに引っかかった。
昭和10年といえば、騒然とした時代が思い起こされる。

 1929年(昭和4年)世界恐慌。
 1931年(昭和6年)満州事変。
 1932年(昭和7年)5・15事件。
 1933年(昭和8年)国際連盟より脱退。
 1935年(昭和10年)天皇機関説問題化。

 私の昭和の時代の認識の背景にあったのは、
『読売新聞にみる昭和の40年』『報道写真にみる昭和の40年』という、
読売新聞が出した2冊の本である。
前者は読売新聞の縮刷版、後者は報道写真集である。

 これらを背景に、それまで収集してきた自分の知識では、
この時代は、戦争と言論弾圧の時代である、という印象だった。
その時代に書かれた本、というのに引っかかったのである。

 何が書いてあるのだろうと、思って見てみて、旧字体なのに目がくらくらした。
それでも、と見ていて引っかかったのが、偽造・贋作の話、虚偽・錯誤の話であった。

 国定の小学校国史では、天皇陛下は神様の子孫、と教える時代が40年も続く状況だったのに、
大学ではこんな話を書いている人がいたのだ。
          (国定日本史教科書については、山住正巳著『教科書』岩波新書1970年・p58などを参照のこと)

人間精神のバランス上、当然こういう人もいたはずだ、と、思いつつも、
どうして検閲に引っかからなかったのだろう、と、腑に落ちない思いであった。

そして私には、この本に出てくる、偽造・贋作に関する数多くの事例が、暗に、
記紀(古事記・日本書紀)の記述を指しているように思われてならなかったのだ。

たとえば以下のような文章。
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「偽作」(贋造)のできる動機はいろいろかぞえられる。
すなわち好古癖、好奇心、愛郷心、虚栄心等に基づく動機、宗教的動機等が挙げられるが、
とりわけ利益、殊に商業的利益の目的を動機としたものが、最も多いのである。
そしてこれらの動機に基づく偽作は、ほとんどすべての種類の史料に行き渡っている。

〔古文書〕 これもまた偽作がすこぶる多いものである。
すなわち西洋の方では、領地等の権利を安定堅固にするため、中世時代に多く偽文書が作られた。

そのほか自己の家格をよくするための虚栄心から来る偽文書がある。

わが国でも戦の感状などの種類が偽造されている。

なお西洋の方では、教会に偽文書が多くある。
ローマ法王に関する著名な偽イシドールス法令集というようなものは、
偽文書としてよく挙げられるものである。

〔系図〕 東西とも、古くから贋系図が多数ある。
これはそれによって家格を誇ろうとする心理から来るのであるが、
また古い頃の諸侯武士等は、自家に由緒をつける政治上の必要もあった。

英国中世の記録として名高いアングロサクソン年代記を見れば、
英国のいわゆる七王国の諸王家は、ことごとくウォーダンの神の後裔になっており、
はなはだしいのは、ウォーダンからさらにアダム、イヴまでさかのぼっているのがある。

わが国の系図は、多数いわゆる源平藤橘であり、偽作が過半であることは言うまでもない。
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これを読むと、天皇家の神話というのも、西洋に比すれば似たり寄ったりの、
由緒をつける政治上の必要から生れた文献なのだろう、という気がするではないか。

『記紀』は古代の政治表現に類するものだろう、と私は思う。
『古事記』の最古の写本が南北朝ということであれば、
南北朝時代の政治表現の可能性さえも、あるのではないかと思う。

いずれにしても、天皇家が古い権威の家系であることは疑いはなく、
天皇家が尊重されることに異論はないが、
神の末裔とまであがめることはないように思う。

私にとって今井登志喜は、厳しい政局の中で、天皇神話を相対化するための事例を提供した人であった。
その勇気と良心は、たたえられていいものだと思う。
     今井登志喜著 『歴史学研究法』全文

 今井登志喜『歴史学研究法』の最初のもの、昭和10年岩波講座版の小冊子については、
ネット古書店経由で、500円で現物を手に入れた。ネット経由であるから、2000年以降だと思う。

 それによれば、昭和10年5月8日印刷、昭和10年5月12日発行、である。

 昭和10年天皇機関説問題の動きを見ながら書かれたような、そんな執筆状況ではなかったかと思われる。


〔今井登志喜・林健太郎・遅塚忠躬〕

大学2年時、林健太郎著『史学概論』を手にしたとき、
そこに今井登志喜『歴史学研究法』が出てくるのを知った。

『史学概論』の「はしがき」(p4)に、歴史研究の技術論の本として、ベルンハイムの邦訳書とともに、
近年の「手頃な本」として、今井著が紹介されている。

また、第3章「歴史学における批判的方法」(P24・2行目)に、
「私は以下、主としてこの書物、今井『歴史学研究法』によって、それ、史料批判、を説明する」
という風に、紹介されている。

少し調べると、今井登志喜と林健太郎が、ともに東大の西洋史らしい、とはわかった。

林著でこのように今井著が紹介されているのを見ると、きっと師弟の関係だろうと予測はついたが、
一体どういう関係なのかは、近年までわからなかった。

今井と林が戦前の東大で極めて近い関係にあったと知ったのは、立花隆『天皇と東大』(文芸春秋・2005年)による。

この本の下巻565ページあたりに、大内兵衛擁護の秘密会議なるもので、
今井の研究室が秘密会議の場になっていたことを、当時副手であった林が証言する、という形で出てくる。

近い所にいるようなのに、林著による私の衝撃は、尋常ではなかった。

ちなみに林著『昭和史と私』文春文庫を見たら、唯一「今井先生」と呼び、授業はおもしろかった(p82)、と書いておられる。

この二人の間にも、時代の激変が横たわっているに違いない、という点は疑いのないところだろう。

ただし、立花隆『天皇と東大』の膨大な参考文献には、今井登志喜『歴史学研究法』は登場しない。
タイトルが、その名も「天皇と東大」なのに、不思議な話である。

東大出版では、2000年頃?に、今井の『歴史学研究法』は絶版となった。

それなのに、2010年刊行の遅塚忠躬『史学概論』東大出版では、史料批判の参考文献として、
今井登志喜『歴史学研究法』が紹介されているのである。
これも不思議な話である。