那佐(なさ)港・(とも)
                                     

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( 昭和46年版『海部町史』p180より)

     那佐(なさ)(みなと)は 入りよて出よて 情け名残りの ない湊

 那佐は出易く入りやすい、と、昭和46年版『海部町史』には書いてある。

 海部は、芝の遺跡発掘によって、3世紀末から、海上交通路の中継地であったと推定されている。
1445年には、兵庫(神戸港付近)という遠い所への入港数が、56回である。(阿波・土佐主要港

 海部は、太平洋側の遠隔地としては、今日の私達の想像力では、ちょっと思いもよらないような、海運力を持っていた。
 那佐湾には、古代・中世の航海術上、どのような利便性があったのか、気になるところである。

 鞆の港と那佐の港は、かつては、互いに補い合いながら、一つの港として機能していた、と言う。

 現在の那佐は、すぐ側を国道が走っている。しかし、江戸時代は道がなかった、そうだ。


*******以下は江戸時代の光景の描写らしい*****

 木頭や川上から()り出された大きな木材や小さな薪材は、唯一の搬出路、海部川の流れに乗って、すべて奥浦の赤松に集積される。そして、ここで商談が行われる。

 この間、太平洋を渡る大型廻送船は、那佐の港で風待ちをしているのである。

 商談がまとまると、船は那佐の港から鞆の港に廻送され、海部川の川口と小島との海で、いよいよ積荷が始まる。待機していた沖高瀬船の出番である。

 大きな木材は(いかだ)に組んで()き、小さい木材や薪材は、積み込んで親船に運ぶ。
アリの群れが物を運ぶように、何十隻というおびただしい沖高瀬が、木場と親船の間を、終日往復して積荷は終わる。

 出帆である。十六反の帆を揚げて。
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 上記のように、那佐港は、風待ちをして碇泊する。鞆港は、積荷して出帆する。そういう働きをしていたのだ。

 「1813年大阪廻船29(そう)」というのは、
文化十年(1813年)調べの「海部郡鞆浦棟附御清帳ニ付大阪廻船漁船持之者共相調へ差上帳」による。

 大阪廻船、361石積、209石積、355石積など、29艘。
 漁船90艘。沖高瀬20艘。

 これで見ると、海運に従事していた船の行き先は「大阪」であって、徳島や阿南との通交を目的としていた船は、全くないことになる。

〔海上交通〕
 ここで海部の海上交通にかかわることを振り返って考えてみる。
3世紀末の、岡山・関西・高知方面の土器出土。
6世紀、古墳文化伝播。
10世紀、紀貫之通過。
13世紀、後の曹洞宗大本山総持寺開祖が招かれて城満寺を開く。四国で最古の禅宗寺。
14世紀初頭、海部刀生産開始か?
1352年、観応の擾乱の末期に、海部氏が京都の戦闘に登場。
この頃、発見量が四国で最多の古銭が埋納される。
1392年、足利幕府の寺である、相国寺の落慶供養に、細川氏に随従して海部氏登場。
1420年、足利幕府に深く関わった、黒衣の宰相と呼ばれた満済という僧が書いた『満済准后日記』(基本史料とされる)に、海部氏登場。
その他、幕府や京都との関係を示す史料あり。
1445年、東大寺領兵庫北関へ、全体で10位、四国に限れば1位という年間入港数で、海部港が記録される。
これ以前、1403年から1465年まで、琉球船が兵庫へ来ていたのが少なくとも15回は確認できる。航路は瀬戸内海か太平洋か不明。
1467年、応仁の乱によって、瀬戸内海を避けて太平洋側を通る遣明船ルートが開発され、5回の利用があった。
以降、堺・琉球貿易活発化。

1500年代に入って、海部氏は阿波細川氏から直接に事情説明に手紙をもらい、また畿内の戦闘に参加。
1540年代から1564年まで、畿内で権力を握った三好長慶と、海部宗寿は義兄弟の縁になる。

こういう歴史的背景がある中での、1571年、島弥九郎事件である。

 那佐は、現代では、湾沿いの国道を車が突っ走り、まれに糸をたれる釣り人がいるくらいで、浅く、用途がわからない湾になっている。
 しかし、手こぎや帆船時代、目視で航海していた、比較的小さな船の時代、には、違った意味での有用性があったのかもしれないと思う。

 スペイン船が太平洋を回るようになったのは1565年。毎年回ったという頻度にしては、4ヶ月から6ヶ月、無寄航だったというのは、
水・食料のことを考えると不自然ではないかと思うし、太平洋航路の情報がオープンではないのが気になる。
また、海部の海運の歴史が消されるのは不自然である。

 スペイン船は1年に1回、夏頃にまわったわけである。出発地から日本船の先触れが出ている。それに合わせて海上交通を規制する。山上から海を見ていて、沖合いにスペイン船が見えたら、海岸を立ち入り禁止にする。山は、そもそも入山を許可制にしておく。漁船関係者にはかん口令を敷いておくか、事前に操業停止にする。
 鉄砲隊が常駐している、などという妙な所はここしかないので、首をかしげつつも、那佐湾を想定して、可能性を考える。

 水・食料を補給するには、十分な体制が整った所だと思われるし、1400年代から大阪との海路が完成していて、秘密路としてのパイプは太かったのではないかと考えてみる。

 スペインのガレオン船は、最大級のものは1500トンから2000トン。しかしながら、湾内に入った海部の船の実績は、現在の所700トン。
水深の深い湾口だけで用が足りたのなら、気にしなくてもいいが。湾口でも大波はこない。

 水平線までの距離は、ネットで検索すると4.5キロである。
これを那佐湾近辺のグーグル地図に重ねると、ちょっと沖合いはもう見えないことになる。

宍喰に「竹が島」があるので、視線が遮られ、甲浦からも、措置によっては、大船が来ても見えないだろう。